天気を譲れないヒト

古 散太

天気を譲れないヒト

   一

 ヒトの頭の中では、つねにさまざまなものを固定しようとしている。

 流れる時間、成長する自分、見ている景色などなど、基本的に昨日の続きであり、さほど変わらない今を生きている、と信じている。

 流れる時間というぐらいだから、時間はつねに変化している。タイムマシンがまだ存在していない現在、昨日に戻ることは不可能である。またその一部すらも取り戻すことはできない。さらに言えば、一年前、十年前の一月一日に戻ることもできなければ見ることもできない。せいぜい何かのメディア媒体に記録された映像を見たり聞いたりするだけで、その映像の中に行くこともできなければ、中のモノに触れることもできない。

 成長する自分も同じで、成長には時間の流れが不可欠なのだから、戻ることはできない。また、肉体的な変化があり、骨の大きさや筋肉量、脳内の複雑なつながりなどがまったく違うものになっている。そもそも肉体を構築している細胞は、三ヶ月から四ヶ月で九割が入れ替わると言われている。一年も経過したら、細胞だけを考えたら完全に違うヒトになっていると考えても問題ないのかもしれない。そうなると、記憶だけが共通しているだけの別人、と言えるのではないだろうか。

 日頃から見ている景色がもっとも姿を変えている。例えば、通学や通勤の途中で目にするコンビニエンスストアだ。その店舗は昨日もたしかに存在している。問題がなければ明日も存在しているだろう。しかし外から見える店内の客は昨日とは違うヒトかもしれない。同じヒトでも服装が違うかもしれない。昨日いなかったヒトがいるかもしれない。駐車スペースに止まっている車が違うかもしれない。レジにいる店員が違うかもしれない。何より、店の前に転がる埃や砂ぼこりの量や位置が変わっているのは間違いない。

 時間、成長、景色。これ以外にも、あなたの目に映るすべてがつねに変化しているし、変化の途中にある。

 ヒトの脳は、省エネを求める。全身でバランスよく使うべきエネルギーを脳だけに集中させてしまえば、そのあと一歩たりとも動くことができなくなる。医学に長けているわけではないが、低血糖という症状がそれなのではないかと思う。だからこそ、脳はなるべく省エネモードで働いてくれている。

 目に映るものすべてを完全に記憶するとなると、膨大なエネルギーが必要になる。PCなどでも同じことなのでわかりやすいと思う。だからすべてを記憶するのではなく表面的なモノ、もっとも目立つモノを記憶している。簡単に言えば、印象に残ったものだけを記憶している、ということになる。

 コンビニの例で言えば、店舗とその周辺の景色を中心として、あとはせいぜい駐車スペースの車を記憶していればいいほうだ。

 それは、昨日と同じかそうではないか、という判断をする材料にはあまりにも乏しい話である。目についた色や形だけで、昨日と同じとは判断できない。

 脳は気にかけているもの以外は、大雑把に記憶していると言うことがわかるのではないだろうか。

 自室が昨日とまったく同じである、とは言えない。ベッドの布団の配置、壁に掛けられた時計の針の位置、埃の量、ゴミ箱の中身、テーブルの上の物の位置など、よくよく思い出してみれば何かがすこし違っている。これがいわゆる普通であり、あたりまえのことである。

 ならばどうして、昨日の自室と今日の自室が同じと言えるのか。それは脳の省エネモードによって、大雑把に記憶された印象が同じだからである。時間も、成長も、景色にもまったく同じことが言える。

 時間は刻一刻と過ぎていくだけ。意図しなくても生きていればヒトは肉体的、知性的、感情的に成長していく。景色には四季折々の色があり、街はその季節ごとのイベントで飾られて彩られる。

 大雑把な記憶のせいで変化していないような気がするかもしれないが、ヒトの目に映るものは、街でも、里山でも、海でも山でも、自分の暮らす部屋でも、毎瞬、変化を続けている。その変化は肉眼で見えない微細なものもあるが、変化していないわけではなく、ヒトが認識していない、あるいはできないだけである。

 しかし、ヒトはいつの時代も変化を怖れる。中には変化に期待をしている場合もあるが、それはコトが動き出してから期待するのであって、コトが動く前から期待することはすくない。あるいは、「今・ここ」での苦痛があまりにもつらいときぐらいだろう。

 変化は自分にとって良くない方に向かうかも知れないという予測が、脳内で日々大きくなっていき、想像力の力も借りてどうにもならない不安を生んでしまう。

 不安が大きいあまり、ヒトは変化より固定を望む。いわゆる「安定」である。

 それでもヒトが生きるというのは、変化の海を渡るしかないのである。



   二

 どれだけ不安になろうが、怖れを感じようが、人生というのは変化を体験することなのだから、逃げることも避けることもできない。

 どうしてもすべては変化している。万物流転、諸行無常など昔の偉人たちの言葉などが今に残っているのもそのためである。そしてそれは、まぎれもない真理として現代に至ってなお揺るぎなく輝いている。

 野生動物を見ればわかるが、彼らは未来を想像しない。そう言った機能が脳にないのかもしれないが、つねに「今・ここ」という環境に適応しながら生きていこうとする。もちろん捕食などに関して予測することはあるかもしれないが、どちらにしても「今・ここ」での出来事である。

 ヒトは、まるで超高性能PCのように、複雑かつ繊細に進化してきた脳のおかげで、予測どころか、ありもしないことを想像することができるようになっている。

 うまく使えたなら生きるための武器になるが、下手をすると、その複雑さや繊細さが仇となってしまう。それが「変化を怖れる」という部分で発揮されている。

 変化をするということは近い未来、自分の身、あるいは自分の身のまわりで何かが変わるということである。何かが変わるというとき、多くのヒトは自分にとって都合のよくない方向で変わることを予測し、その予測を元にして想像を始める。

 不思議なもので、ヒトというのは自分に都合のよい予測はなかなかできないのに、都合の悪いことほど簡単に、次から次へと予測できる。簡単に言えば、楽観的にはなれないが心配性にはすぐなれる、ということだ。うまくいくことより、うまくいかないことのほうが想像しやすいということなのだろう。そしてうまくいかないという想像はどこまでも大きく強くなっていく。

 自分にとって都合のよくない物事や出来事が起こるぐらいなら、変化などせずに現状維持のほうがいいと考える。だからといって現状が自分にとって幸せだとか、楽しい人生を過ごしている、ということでもない。

 そういった矛盾を天秤にかけても、ヒトは変化を望まない。

 だが、最初にも書いたが、ヒトが生きるということは、変化を体験するということだ。誰もが赤ん坊で生まれてぎゃあぎゃあと泣くしかできなかったのに、時間の経過、自分の成長という変化を体験して、大人になり、自分でさまざまなことを思考して、その思考を第三者に伝えることができるようになっていく。

 変化という体験していなければそうはならない。何も変わらなければ赤ん坊の姿のままで泣いているしかできないのである。つまり、ヒトがこの世に誕生するということは、変化を体験するため、と言っても過言ではない。

 思考、気持ちの幅、肉体、周囲のヒト、街、社会、世界、宇宙。すべてが今も変化をし続けていて、誰も何も立ち止まってはいない。良いか悪いかは受け取り方次第の面もあるので個人の問題になるが、変化だけは止まることなく続いている。

 そう考えると、現状維持とか、不安定な人生を固定しようとなどと考えてもできるものではない、ということがわかるのではないだろうか。

 たしかに、自分を中心に据えた半径五〇センチぐらいの幅であれば、変化の規模を最小限にすることができるかもしれない。しかしその外側の周囲、半径百メートルは大きく変化しているのである。そうなると、自分の半径五〇センチも変わっていないようで百メートルの変化に飲まれて、大きく変わっている。そのことに自分は気づかないままになる。それを現状維持と呼べるのかどうかわからない。

 そしてもっとも忘れてはならないことがある。それは自分自身がつねに変化しているということだ。

 日々何らかの体験をして、知識、知恵、体の使い方、行動の仕方など、これまでの自分より、すこし、あるいは大きく進化や進歩している。それを繰り返して今の自分があるのだから、変化を避けようにも避けられるはずがない。

 この瞬間も、あなたはこの文章に目を通している。もしかしたら知っていることが書いてあるのかもしれないが、もし知らないことがここに書かれていて、それを読んだのなら、それは今まであなたが持っていなかった視点が増えたということ。つまり知識か知恵が増えたということになる。それが変化である。

 生きていれば、否応なくさまざまな体験を続ける。その体験のひとつひとつがあなたを進化させ、進歩させる。あなたはいつだって自分の人生の最先端にいるのだ。

 だとしたらこれから先、まだ体験したことのないこと、知らなかったことに出会う機会がある。その都度、あなたに起こる変化は続いていくのである。



   三

 ヒトはいつも固定したい。物質だけではなく、思考や感情、状況や状態など、ありとあらゆるものを固定したがる。それは不安定を怖れ、嫌うためだ。

 あらゆる物事が不安定であることは、誰もが知るところだろうと思う。自分の思考や気持ち、「今・ここ」で自分が置かれている状況や状態、さらには、過去の記憶も未来の展望も、すべてが不安定である。何ひとつ固定されているものはない。

 不安定だから、ヒトは不安の生き物になってしまう。不安になるであろう材料を見つけ出し、不安を創りだし、不安を抱えながら、不安に苛まれて生きていく。

 しかし、この世で起こることは、ただありのままに起こっているだけなので、その瞬間に固定されている。

 例えば、花瓶を落として割ってしまったとしよう。ありのままに受け取れば、「花瓶が床に落ちて割れた」という一文で済む。しかしヒトは不安の生き物なので、誰が悪いのか、なぜこうなったのかなど、自分のエゴをその状況にかぶせてしまう。つまり、責任を取りたくないのである。責任を取りたくないのは自分を守りたいから。そのために、脳内のエゴが出しゃばり、自分を守ろうと考え始めるのである。

 起こったことについてありのままに受け入れることができれば、起こったことは起こったこととしてしょうがないとあきらめ、次にどうするかという建設的な思考を始めることができる。しかし責任を取りたくないエゴは、なんとか責任から逃れるために、いろいろな意味や理由をつけ足していく。もちろんそこに物理的な根拠はないので、脳内の片隅には、いつか自分に責任が押しつけられるかもしれない、という考えも残ってしまう。これがこの場合の不安の正体である。

 そもそも不安はこの世に存在しない。物事や出来事はただあるがままに起こり、起こったその瞬間は光の速度よりも早く去っていく。起こってしまえばもう後戻りはできない。コトが起こったことを認識したときには、もう済んだ話になっている。不安が生まれる余地などどこにもない。何か起こったことを認識したあとに、不安が生まれるのである。

 あらためてもう一度。この世に不安というモノは存在しない。それはヒトの脳内で生まれ、大きく強くなっていき、不安の対象が過ぎ去ったときにはもう存在していない。つまり物質ではなく、思考の問題ということになる。

 不安をなくすために、ヒトは先々を考え、予測し、それに対応できるように準備をする。災害についてならそれが正しいこと。だが、常日頃の日常生活のすべてでそんなことを繰り返している。世の中に保険を扱う業種が多いのは、そんな不安だらけのヒトの思考があるおかげかもしれない。

 この世が不安定なのは、人類が生まれる前から変わっていない。時間の経過とは、変化の回数と言ってもいい。どれだけ微細なことでも変化が続いている。だからこそ時間が経過している、とも言える。そう考えれば、不安定であることが当たり前のことであり、それを固定しようとするほうが普通ではない。

 地球が生まれる前からずっと不安定なのだから、固定できない不安定な状態こそが固定されている、と考えるほうがスムーズである。言葉を変えると、ヒトだけの話ではなく、人類が誕生するずっと以前から、そして今現在も宇宙全体が変化を続けているということであり、ヒトがどうこうできる話ではない。

 結局、固定されているのは不安定な状態であり、何かを固定をしようとするのは、宇宙の摂理に逆らうことになる。つまり宇宙にケンカを売っているようなものだ。

 宇宙の摂理、自然の摂理にケンカを売っても勝てるはずがない。それがわかっているから、不安定であることをネガティブに感じてしまうのだろう。どれだけ今日の天気を譲れないと言っても、誰も勝てるヒトはいないのだ。

 不安定をネガティブと受け取るだけで、ヒトは生きづらくなってしまう。勝てないケンカなのだから当然の結果である。しかし、この世が不安定であることが当たり前だと受け入れたならば、脳内に不安を生みだす機会は極端に減少するはずだ。個人差や状況・状態にもよるので一概には言えないことだが、間違いなく不安を生みだす回数は減る。

 不安が減れば何が残るかと言えば、安心だ。安心という思考や気分が当たり前になれば、不安定を不安視することはなくなる。安心を得たいがために、ヒトは何事も固定したくなってしまう。不安定な要素を固定して、不安を生み出す環境を減らしていくことで安心できると考えているのだろう。

 不思議なもので、ヒトは自分が嫌悪感を感じるものに対して凝視をする。凝視すればするほど、その対象は自分の中で巨大化し、強力になっていく。不安を見つめていればそれは巨大化し強力になる。逆にこの世が不安定であることを確定して、不安を生み出さなければそんなことは起こらない。つまり平穏な人生になるのだ。



   四

 この世は不安定であり、未来はいつも不確定である。

 そう決定してしまえば、変化に対する怖れは減り、不安な思考も生まれなくなる。残るものは、「今・ここ」で自分が体験していることと、「ほとんどのことは大丈夫なのだ」という安心感だ。

 世はつねに変化をしていくが、いつも悪いほうに転がるばかりではない。そんなことを決めているのはヒトの頭の中だけであり、現実的にあり得ない。

 サイコロを転がしてもわかるように、一の目が出続けることもなければ六の目が出続けることもない。絶対ないとは言えないが、すべての目がランダムに出るのが一般的である。

 世の変化も、そこから始まる未来も同じことで、自分が考えていることがかならず起こるとはかぎらないし、起こらないとも言えない。ただ、ヒトの意図が介入した場合、それは違った結果につながっていく。

 意図とは、自分がこうするのだと決めたことであり、意志でもある。

 例えばあなたが、「自分の人生を幸せなものにする」と決めたとする。この時点ですでに意図は完成している。ヒトは自分でも気づかないうちに、自分の意図のままに行動する。スーパーで買う物を間違えないとか、電車移動で降りる駅を間違えないというのもその一端である。これがヒトの意図の介入である。

 ここからの展開はヒトそれぞれなので、あくまでも一例として挙げるが、人生を幸せなものにしようと考えたあなたは、まず自分が嫌な気分になることをしないように心がける。それが仕事であれば辞めるかもしれないし、部署移動を願い出るかもしれない。忙しいのが嫌な気分になるのなら忙しいことをやめるかもしれない。

 こうして嫌な気分を排除していくことで、あなたの頭の中から「嫌だ」という思考が減っていく。悪い気分の思考が減っていけば、残るのは良い気分を元にした思考である。どんな行動をすれば、どんな思考でいれば、何を見れば、何を聞けばなど、さまざまなモノやコトについて、自分にとって良い気分になれるものをはっきりと認識できるようになる。

 目についた、気がついた、気分が良くなるモノやコトを選択していけば、「今・ここ」に存在するあなたの気分は良くなっている。その「今・ここ」を積み重ねていけば、「自分の人生を幸せなものにする」という意図は、完成する。

 もちろん幸せといった漠然としたものばかりでなく、もっと具体的なモノやコトでも、仕組みは同じである。ただ、モノは物質なので、理屈を積み上げて目的地にたどり着く、という物理のルールに沿っている。時間的にすぐでもなければ、確実性も絶対とは言えない。それでも、不安を抱えてこれから先の人生を生きていくよりは、かなりマシであり、充実していたり、満たされた時を過ごせるはずである。

 不安定であることは変化の兆しであり、その変化がかならずしも良くない方向に行くとはかぎらない。それどころか、この世もヒトも内なる土台に秘めているのは、幸福であり平穏である。良い方向に進むことのほうが手っ取り早く簡単なのだ。

 例えるなら、ヒトの誕生が川の源流だとしたら、人生の終点が海である。そのあいだにある川という変化にとんだ流れの中で、過去を取り戻そうとしたり、川のどこを流れていくかを自分で決めようとしたりして流れに逆らえば、人生はきつくなる。ありのままの川の流れを受け入れて流されていくほうが、手っ取り早く簡単に、スムーズな人生を生きられる。「今・ここ」で自分の意図を明確にしておけば、放っておいても意図した場所に移動することもできる。

 ヒトが生きるということは、さまざまな幸せを体験することであり、我を通すことではない。我を通せばそれだけ逆風になったり、周囲からの圧力に押されたりする。それが心から好きなことであれば、耐えることも押し返すこともできるかもしれないが、世間体や見栄、社会的地位など、ヒトからどう見られるかという視点から生まれた欲望は、耐える力も、押し返す力も生みだすことはできない。そこまでの覚悟がないためである。

 この世は不安定であり、未来はいつも不確定である。それは何もネガティブな話ではなく、良い意味での変化を繰り返すという意味だとあなたが決定すれば、この世の不安定さは、「今・ここ」であなたを変えるひとつのチャンスになり、未来の不確定さは、さまざまな種類の幸せを体験する可能性の裏返しであると理解できる。

 日常のどんなことでも変化することを良しとすれば、人生の可能性は爆発的な広がりを見せるのである。



   五

 変化とは、可能性の数の多さである。

 誰にとっても未来における可能性は無限に存在している。無限に存在していても、そのことを理解していないとか、否定しているとなれば、可能性はほとんどなくなってしまい、数えられる程度になってしまう。

 現代を生きる多くのヒトが、自分のことを過小評価しているように思う。第三者的な証拠や根拠などがなければ、自分の可能性すら受け入れられずにいるようだ。

 しかし考えてみてほしい。可能性とはこれからのことである。それは未来だ。未来のことなど誰にもわからないし、何も決まっていない。

 あなたの手の中にノートが一冊ある。開いてみれば、あなたの誕生から、今の今に至るまでが記録されている。しかし「今・ここ」から先のページはまだ何も書かれていない。まっさらである。

 これから先、このノートが日記になるのか、スケジュール用になるのか、学校の板書を写すために使われるのか、ただの落書きで埋め尽くされるのか。それはそのノートを手にした人にゆだねられている。

 そこに何を書くのか、つまり未来をどう使うのかは、ノートの存在に気づいたヒトが決めることで、それに気づかなければ世の潮流に身を任せるしかない。

 あなたがこれからノートに何を書くのかは、あなたが決めるしかない、ということになるが、そこに証拠や根拠が提示できるだろうか。まだ何も起こっていない未来についての証拠や根拠が用意できるものだろうか。

 どれだけの時間をかけても、どこまでも見聞を広げても、根拠など見つかるはずがない。そもそもそんなものは存在しないのだから。

 だとしたら、自分を過小評価しているのは何か。

 自分への信用や信頼のなさである。簡単に言えば「自信のなさ」だ。

 自信とは自分を信じることである。他人に対してであっても、信じることに証拠や根拠など存在しない。無条件に信じることができないから、現代ではさまざまな書類が存在して、署名と捺印を繰り返している。

 あなたの年齢が今いくつであったとしても、その年齢まで生きてきたことは間違いない。星の数ほどありそうな病気を避けたり対処したりしながら、星の数ほど可能性がある事件や事故に巻き込まれないように、巻き込まれても上手く乗り越えるようにしながら、「今・ここ」に存在している。それは自信にはならないだろうか。

 悲しいことだが、赤ん坊や幼児と呼ばれる年齢で病気との縁ができてしまい、この世を去る方たちもいれば、事件や事故との縁が生まれて旅立たれた方たちもいる。残念なことではあるが、それがこの世である。

 そんなこの世の「今・ここ」に存在しているあなたは、見事に生きている、ということであり、それは自信を持つべきものである。もちろん周囲の助けもあれば、目に見えない力によって助けられることもあるだろう。それは誰もがそうなのだから、ひとまず置いておいて、あなたが「今・ここ」に生きている、ということについては間違いない。考えかたによっては天文学的な確率の奇跡である。

 そんな自分を過小評価する理由などどこにもない。他人と比べたとしても、他人にも得手不得手があるだろうし、他人と比べているジャンルだけがこの世のすべてではない。あなたにはあなたの得意があり、他人には他人の得意がある。いろんな得意を合わせることでこの世が成り立つようにできている。

 あなたが自分を過小評価しているのであれば、あなたは自分のことを何も知らないのだろう。自分のことを何も知らないのであれば、自分の可能性についてわからなくても当然だろう。

 それでもあなたには無限の可能性がある。あなたが可能性のひとつを選択して歩き始めれば、今この瞬間から変化は始まるのである。出来もしない固定をしようとせず、ありのままの自分で生きていくという決定を下したのなら、道は縁によってつながっていき、あなたの選択に対する答え、あるいは目的地まで、さまざまな変化を繰り返しながら、いつかはたどり着く。

 変化によって不安定に感じる日常や、そこから生みだされる不安などは、この世に存在しないのだから、わざわざ自分で用意しなくていい。ネガティブ思考のままの視点では、いつまでも、何を見ても、ネガティブ思考を生み出し続けることになる。

 つまり、視点を変えてみよう、ということだ。

 花瓶が落ちて割れた場合、「あ~あ」と残念なため息をつくより、割れたものは割れたものとして、それを寿命と考え、「長いあいだ花をきれいに見せてくれてありがとう」と感謝の気持ちを持ってみる。それだけのことで、ネガティブな思考はどこにも存在しなくなる。

 ありのままの事象を受け入れることで、この出来事にどう対応するかを考えることができるのだから、「そろそろ新しい花瓶に変えるときなんだろうな」などと考えてしまえば、なおさら割れた花瓶に感謝の気持ちが生まれる。

 雨が降っているのを、個人が人為的に晴天にすることはできない。だとしたら、その雨が降っているからこそ米や野菜が育っていて、いつか自分の肉体の構成要素になるのだという方向で考えれば、雨降りの日もまた違った表情に見えてくる。

 いつまでも変えられない天気を変えようとするより、その天気に感謝して生きていくほうが、ストレスもなくなり、感謝することができる。感謝の気持ちは与えても与えられても、なんだかうれしい気持ちになり、ストレスの軽減につながる。

 ヒトはさまざまなものを固定しようとするが、それは天気を譲れないヒトだ。分をわきまえない生きかたは、けっして楽なものではないし、幸せを感じることもないだろう。なぜなら、自分の思いどおりにならないことが起こるたびにストレスを感じてしまうからだ。ストレスは万病のもとである。どうなるかは誰にでも見当がつく。

 晴れの日には晴れを楽しみ、雨の日には雨を楽しむ。現在の状況に対して譲る思考で生きていければ、人生はもっと楽しく、幸せなものになるのである。   完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天気を譲れないヒト 古 散太 @santafull

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画