第Ⅰ章
第1話
side 宮崎ハジメ
頭だけは冴えていた。
携帯のアラームが鳴る前に目が覚めて、僕は彼女が来るのを待っていた。
朝に弱い。冬の早朝はなおさらだ。
目を閉じたら、そのまま落ちそうで、数ミリの視界を必死に保つ。
言うのは、たった一言。
それを伝えるためだけに、起きている。
設定した時刻ぴったり。携帯が軽快なメロディを鳴らし始めた。
僕は止めずに、ただ聞いていた。そうしていれば――彼女が呆れて起こしに来ると分かっていたから。
やがてドアが開く。スリッパの足音が近づいた。
僕の部屋に入ってきた彼女は、泣き続ける携帯を取り上げ、アラームを止める。息を吸ってから言った。
「お兄ちゃん、起きてください」
「んっ……」
僕は今朝はじめて、瞼を押し上げた。
視界に入った彼女は、セーラー服に淡い桃色のエプロンを重ねている。僕が起きたのを確認すると、花が咲くみたいに笑った。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
――たった一言。
そのために、毎朝こうして踏ん張っている。そんな事を知ったら、彼女はどう思うだろう。
きもい、と罵るか。
ありがとうございます、と礼を言うか。
分からない。どれも、違ってほしかった。
「あの、起きてます?」
挨拶を返してから、僕が同じ姿勢で見つめ続けていたせいだろう。
彼女は頬を少し赤くして、ぷぅっと膨らませた。
沢田マリ。僕の通う高校の後輩だ。
小中は別、部活も違う。名前どころか、顔すら知らなかった。そんな彼女が我が家に移り住んで、もう一ヶ月が経とうとしている。
「はい、これメガネです」
差し出された僕の半身を受け取る。
「ありがとう」
装着すると、世界が一気にくっきりした。特に、沢田の顔が目に刺さる。
大きな二重の瞳。小さな輪郭。幼さの残る唇。
細く柔らかそうな髪は、カジュアルなショートに整えられている。
どう見ても、美少女だ。
「もう、起きたよ」
視線を外して、暗に「出ていけ」と伝える。
だが沢田は気づかないらしく、ぐいっと顔を近づけてきた。目と鼻の先に、幼さを残した綺麗な顔。直視できず、僕は下を向く。
「本当ですか?」
「着替えるから」
そう言って強引に、沢田を部屋の外へ押し出した。
「はぁ……」
この溜息に、何が混ざっているのか。自分でもはっきりしない。
沢田マリは、曰く家出少女らしい。
学区も違う彼女と知り合い、こうして住まわせることになった発端は――僕の部活の部長、西川先輩だった。
『この子の名前は沢田マリ。私の親戚の子だ。前にキミの家は部屋が余っていると聞いたのだが、この子を預かってはもらえないだろうか』
一ヶ月前の言葉。女性にしては低い、少年みたいな声。今でも鮮明に思い出せる。
内容は、今考えても無茶だ。
初対面の後輩女子生徒を紹介して、「部屋が空いてるなら預かれ」と言う。常識がない。しかも僕が一人暮らしだと知った上で、だ。
当然反対すると、西川先輩は重い溜息をこれみよがしに吐いた。
いや、それはこっちがつくものだろ――心の中で突っ込みを入れたが、届くはずもない。
言葉を尽くしても、結論は変わらない。
意見はずっと平行線だった。
「頼む」
「嫌だ」
結局は、その程度のやり取りだ。
しばらくして、紹介されてから一言も発していなかった沢田が、ふらりと近寄ってきた。
無言で生徒手帳を掲げる。警察手帳みたいな見せつけ方だ。写真のない我が校の生徒手帳には、同じ名前が記されていた。
「よろしく、お願いします」
あの時、なぜ首を縦に振ったのか。理由ははっきりしない。
ただ、なんとなく――守らなければならない。そう思った。
そうして始まった同居生活。
最初の一週間ほど、沢田はよそよそしかった。会話はほとんどない。用があっても申し訳なさそうで、目も合わせてこない。
それが今では無警戒で、赤の他人の僕を「お兄ちゃん」と呼ぶ。
西川先輩が言っていた通り、僕のせいなのかもしれない。
臆病なうさぎでも、狼が動かない彫刻だと知れば、警戒は薄れる。
『だってキミ、手を出す勇気なんてないだろう』
確かに僕は、当たり前だと答えた。
でも――最近は、思う。
もしかしたら。もしかするのかもしれない、と。
沢田の容姿がいいから、なんて理由は小さい。
それより、沢田マリから感じるのだ。
ユウカと、同じ空気を。
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