心快晴

金谷さとる

虫喰いの勇者



 乾いた風と青い空。

 微かな腐臭を帯びた甘ったるい空気。


 空は晴れわたっていた。

 水路を清めることはこの国の守護神様と王との契約だ。

 どんな小さな里や村でも水路を整備し、美しく保つのをよしとする。

 労力に余力がある時には水路の底にタイルを敷き詰めて神に美しい水と技能を感謝するのだ。

 年の暮れ年の始まりには住人たち総出で水路を清め、飾りたて新たな一年の始まりを神に感謝し、神は労力に相応しい実りを与えてくれる。

 異世界から勇者として呼び出された俺ものんびりと引退生活。これぞスローライフと思いながら暮らしている。

 十年。

 勇者として要求される数々の試練を乗り越えた。

 近隣の国が魔物に滅ぼされ危機を感じ、防衛のために俺は召喚された。

 帰ることのできない一方通行の召喚だとその日に説明された。

 召喚の陣には俺と壊れた自転車。

 投げ出された通学鞄。

 家族を思えば、頭痛がした。

 家族も友人も思い出せないし、目の前にある自転車は自転車とわかるし、使い方もわかる。

 じゃあ、自分の世界の文明を説明しろと言われるとできない。

 記憶が虫喰いのように穴だらけだった。

 申し訳なさそうな様子のお姫様だけが信じることができた。

 レベルを上げて、剣と魔法を覚えて魔物という名のイキモノを殺す技術を身につけた。

 一般の人々の平均レベルは十から十五。

 兵士や冒険者たちは年齢がレベルを越えたら引退だなと言い合っているのをよく耳にした。

 要求に従っているうちはわからないの不安よりやらなくていけないという使命感でごまかせた。

 幼女から少女に育ったお姫様との結婚話も出たが、その頃にはお姫様は俺にとって妹のようなものだし、どうしても幼女なイメージが強くてお断りした。

 鮮やかな青空の下、隣国の王子に嫁ぐお姫様を見送った。

 他所の国に武力応援にも行ったし、色仕掛けしてくる女性ももちろんいた。

 同じように異世界から渡ってきた『神の渡り人』や国に召喚された『勇者』に『聖女』、それぞれ渡ってきた世界は違うようで語り合う時間はいつだって楽しかった。

 他の勇者を知るというのは実に毒だった。

『神の渡り人』と『勇者』は同じ異世界からの来訪者であり、共に元の世界には帰ることができない。

 そして共に神による恩恵、特別な力がある。

『神の渡り人』には個人の選択の自由が有り、『勇者』には国、国王との契約がある。

 俺の記憶が虫喰いだらけな理由はそこにある。

 十年。

 勇者として王の要求に応えた結果、ほんの少し記憶は戻った。

 あの時くぐった魔法陣に俺の記憶はかなり壊されたし、不安を解消するには従うしかなかった。

 それに助けた人々からのありがとうは嬉しかった。

 助けられなかった人も多い。

 利害も絡んだ。

 一番問題だったのは髪を伸ばさなければならないこと。

 この世界では短髪は弱者。奴隷の印だから。

 そう、お姫様が真っ先に教えてくれた。

 人を助けても髪が短ければ従属者の労働は当然で、髪が長ければ感謝される。

 そこが気持ち悪くて、彼らのあたり前が気持ち悪くて本当に困った。

 晴れ渡る空を見上げて曇る自身の心から逃げていた。

 猫型の魔物が俺の前を走り抜ける。

 はじめて見る魔物。

 立ち止まり、俺の反応を確認してから猫は再び走り出した。

 猫のお誘いとは面白い。

 魔物に襲われている明らかに貧しげな旅団。

 黒髪の幼女がぽかんと俺を見ていた。

 え?

 まじで!?

 すずポン?

 マジすずちーっすか!?

 いや待ってロリィ。かわぇえ!

 カメラ! あ! 普通にねぇわ!

 地獄か!?

 ぁあ?

 魔物?

 俺のすずちーにちょっかいかけんじゃねーよ!

 勇者様のレベル舐めんじゃねーわ。三桁越えよ三桁越え。

 ん?

 ちょっと待とう俺。

 俺、勇者召喚から数十年。つまり中年つーか初老。

 すずちー、見るからに六歳から七歳くらいの幼女。

 JI・A・N!

 成長を待つ?

 俺も歳を重ねてよりジジイだね! 

 いえぃ!

 ていうか、幼馴染みのすずちーがいるってことは、は?

 この国に召喚された、だと?

 そして、ここに貧しげにぽつんしている。つまり、虫喰いの記憶状態で捨てた?

 ぽつりと大地に黒いシミが落ちる。

「サットー様! 勇者サットー様! 濡れてしまわれます。どうか、こちらへ」

 以前、王都で見かけた夫人が俺にむけて手を振ってくる。

「さぁ、スズも濡れてはいけないわ」

 黒いシミが重なり落ちる。

 神の試練たる黒き雨。

 目の前には俺を覚えていないすずちー。

 俺が呼び出された召喚陣ももしかしたらすずちーを狙っていたのかもしれない。

 すずちーが召喚されたことは不満だが、ここは異世界、あのめんどくさい黒い鳥はいない。

 それだけで俺の心は実に快晴。

 この世界に来てはじめて心から笑えたかもしれない。


 どこかで猫の鳴き声が聞こえた気がした。






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