グリーンハイツの夕暮れ
@tsuyotsuyoman
第1話
「母さん、もう行くよ」
息子の声に促され、私は最後にもう一度だけ部屋を振り返った。
がらんとした静寂の中に、ふと五十年前の光景がよみがえった。
夫婦で一緒に握った鍵を回し、はじめてドアを開けたあの時の感触は、今でもこの手が覚えている。
「俺たちの城だな」
そう笑った夫の横顔を、私は一生忘れることはないだろう。
この鍵が開けたのは二人の未来そのものでした。
この団地に越してきたのはもう半世紀も前のこと。
ローンを返すため、爪に火を灯すようにお金を貯め、懸命に働いた。
そうして若い二人はこの団地の一室を手に入れた。
日当たりだけは最高の狭いリビング、
夫の出世に祝杯を挙げたキッチン、
二人の布団だけでいっぱいになる寝室、
熱を出した息子を背負って駆け下りた夜の階段、
仕事で毎日通ったバス停までの長い道……。
この団地は私たち家族の喜びと苦悩を等しく受け止めてくれた。
本当は夫の位牌と共にここに骨を埋めたかった。
けれど、独りで住むには広くなり過ぎたこの部屋を、やっと離れる決心をした。
「今日がお引越しなんですね、どうぞお元気で」
お隣のドアから出てきた若い女性が声をかけてくれた。
幼子の手を引きながら買い物かごを持つ姿に、あの頃の自分が重なった。
階段から見下ろす見慣れた風景は、今日だけは違って見える。
団地の窓に明かりが灯り始めた。
その色は、この部屋の鍵と同じ金色で輝いているように見える。
私は静かに鍵を閉めた。
カチリ。
小さな音は私の中で響き渡り、幾重にもこだました。
この鍵はもう、何も開けはしない。
ここでの歳月を心の宝石箱に封じ込め、鍵をかけてしまおう。
愛しい想い出がこぼれ落ちてしまわぬように……。
グリーンハイツの夕暮れ @tsuyotsuyoman
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