30歳、童貞、魔法使い。
@tempman
Ep.1 請求書と誤解(Invoice/Misunderstanding)
指先が、白く泡立っていた。
ゴム製の防護手袋が溶け落ち、強酸性の「紫色の粘液」が俺の指紋を食い荒らしている。
皮膚が硝酸に触れて泡立つ微かな音が、鼓膜にへばりついて離れない。
安物の防護マスクなど意味を成さない。タンパク質が炭化する異臭がフィルターを貫通し、肺の奥まで犯していく。
痛覚神経が焼ける不協和音が、脳髄にへばりついて離れない。
指先から侵食する熱量は、通常の火傷とは違う。
細胞の核が直接電子レンジで加熱されるような、内側からの破壊だ。
奥歯が砕けるほど噛み締め、呻き声を喉の奥へ押し込む。
コンクリートにこびりついた「輝く汚泥」を、ボロ雑巾でこそぎ落とす。
今朝のニュースで、S級英雄『ブレイブ・サン』が笑顔と共に放った必殺技。その成れの果てだ。
テレビの前のカモたちには、さぞ美しい『聖なる光』に見えただろう。だが、光が強ければ強いほど、その陰で発生するこの『燃えカス』は濃縮された猛毒になる。
神経が白熱し、視界が明滅する。
——だが、悪くない味(毒)だ。
肋骨の内側を、鉛のような重い熱量が這い上がってくる。
指先の欠損部から侵入した「他人の魔力」が、血管という血管を強姦するように遡上する。
それが心臓(タンク)に到達した瞬間、脳髄が痺れるような『充足感』が背骨を突き抜けた。
(……S級は違う。純度が、濃すぎる)
俺は汚れた作業着の袖で、口の端から垂れた酸っぱい唾液を拭った。
痛覚信号と快楽物質が脳内でショートしている。
俺の体はもう、英雄の廃棄物なしでは生きられない「汚染処理袋」に作り替えられていた。
「なぁ、柩(ひつぎ)ィ……」
背後からかけられた声は、決して大声ではなかった。
だが、そのねちっこい粘着質な響きに、俺の体はバネ仕掛けのように跳ね上がった。
「――っ」
喉の奥で、空気が無様にひしゃげる音が出る。
首が勝手にすくむ。視線が泳ぎ、地面のシミへと逃げる。
10年かけて骨の髄まで染み付いた、奴隷の条件反射だ。
「なにサボってんだ?その汚ねえツラでよォ」
装甲車の分厚いガラス越しに、現場監督がこちらを見下ろしている。
彼は防護マスクの上からさらにハンカチで鼻を押さえていた。俺の毛穴という毛穴から漂う、腐った生ゴミのような悪臭(死臭)に耐えられないのだ。
「……あ、す、す、みません……! す、ぐに……!」
裏返った声で謝罪し、俺は何度も頭を下げた。
みっともない。情けない。だが、体が言うことを聞かない。
喉の奥で、嗚咽のような引きつった呼吸が漏れる。
「チッ、これだから前科モンは……さっさと削ぎ落とせ! 次の現場が詰まってんだよ!」
監督が窓を閉める。遮音壁の向こうで、彼は除菌スプレーを自分の空間に撒き散らしていた。
俺はようやく顔を上げ——自分の震える手を、作業着の太ももに強く押し付けた。
(……チッ。染み付いてやがる)
恐怖を塗りつぶすように強く舌打ちし、焼け爛れて炭化した指で壁の「汚れ」を愛おしく撫でる。
全部、俺のものだ。一滴たりとも下水道には流さない。
その時。
路地裏の湿った暗がりを切り裂くような、爆発的な轟音が響いた。
空気がビリビリと震え、錆びた非常階段が共鳴して悲鳴を上げる。
続いて、何かが風を切る鋭い音。
「逃がさないわよ! この卑劣な、粗大ゴミぃぃぃ!!」
甲高い、脳をつんざくような少女の声。
鼓膜をヤスリで削られるような不快な周波数。俺は眉間の皺をさらに深く刻み込んだ。
ビルの隙間から、二つの影が飛び込んでくる。
一つは、身の丈2メートルはあろうかという巨漢。コンクリートブロックを継ぎ接ぎしたような歪な外骨格を纏った、D級ヴィラン『解体屋(デモリッシャー)』だ。
そしてもう一つは、砂糖菓子のようなパステルピンクのフリルを靡かせた、少女。
C級英雄、『マジカル・チェリー』。
「オラァアアア!!」
ヴィランが咆哮と共に、腕と一体化した削岩機(パイル)を振り回す。
狙いは外れ、その切っ先はあろうことか、俺が3時間かけて磨き上げたばかりの壁面へと突き刺さった。
コンクリートが悲鳴を上げ、構造材がへし折れる不快な破壊音が響く。
粉塵が舞い、俺の視界を白く染める。
飛び散った破片が、俺の頬を掠め、一筋の血が流れる。
「……あ」
俺の口から、乾いた音が漏れた。
崩れ落ちる壁。
剥がれ落ちた、ルーン文字の消去跡。
強酸性洗剤とワイヤーブラシで指紋がなくなるまで擦り続け、ようやく取り戻した「白」が、一瞬にして瓦礫の山へと変わった。
俺の中で、何かがプツリと切れる音がした。
「覚悟しなさい! 正義の鉄槌、いっくよ〜! プリズム・ハート……」
チェリーが空中に舞い上がり、ステッキの先端に過剰なほどのエフェクトを収束させる。
周囲のドローンが、その輝く姿を煽るように旋回し、まばゆいフラッシュを焚く。
彼女は見ていない。
自分の足元で、無関係な一般人が瓦礫に埋もれかけていることも。
自分の「正義」が、どれだけ周囲を破壊しているかも。
「おい」
俺はデッキブラシを握りしめ、低い声を出した。
喧騒にかき消されるような音量ではない。地の底から響くような「殺意」の塊だ。
チェリーが動きを止め、こちらを見る。
ドローンのカメラも、ヴィランも、一斉に俺を見た。
薄汚れた作業服。防毒マスク。そして、全身から漂う腐敗臭。
俺は瓦礫の中から一歩踏み出し、埃にまみれた指を突きつけた。
「損壊手当、清掃やり直し費用、および不当労働による超過勤務手当……締めて15万と8000円だ」
「……は?」
「そこ、掃除中だったんだ。他所でやってくれ」
俺の声に、チェリーがきょとんとする。
だが、その表情はすぐに「義憤」へと変わった。
「な、なによあんた! ヴィランの仲間!? 一般人がこんな時間にうろついてるわけないもんね!」
「清掃員だ。見ればわか……」
「問答無用! まとめて成敗してあげる!」
話が通じない。
彼女はステッキの先端を、ヴィラン……ではなく、俺に向けた。
その瞳に宿っているのは、純粋培養された狂気的なまでの「正義感」だ。自分が間違っているとは露ほども思っていない。
「プリズム・ハート・フラッシュ!!」
閃光が放たれる。
俺はため息をつき——飛来する閃光に対して、あえて「素手」を差し出した。
湿った肉が爆ぜる、嫌な音がした。
手のひらの皮膚が一瞬で炭化し、剥がれ落ちる。激痛が腕を駆け上がり、心臓を鷲掴みにする。
「————っッ!!」
声にならない悲鳴が喉を焼く。
眼球が飛び出るかと思うほどの圧力が、頭蓋を内側から殴りつける。
膝が笑い、崩れ落ちそうになるのを、全身の筋肉を軋ませて無理やり耐えた。
脂汗が噴き出し、防護マスクの中を一瞬で湿らせる。
瞬間、俺の体内(絶縁体)で、行き場を失った魔力が暴走する。
莫大なジュール熱。ノイズ。不協和音。
美しい魔法が、俺という不純物を通すことで、最も醜い「ノイズ」へと変換される。
俺は焼け焦げた手で、バケツの中身ではなく、俺自身の内側から溢れ出す「それ」を、彼女に向けて解き放った。
「……返品だ」
瞬間、俺の手のひらから、少女の放った『プリズム・ハート・フラッシュ』とまったく同じ構図の閃光が放たれた。
だが、その色は絶望的に違っていた。
ノイズ混じりの、ドス黒い紫色の極太ビーム。
まるで鏡写しのように、しかしおぞましく歪んだ「汚染された模倣(コピー)」が、真正面から少女の光線を食い破る。
光と闇が衝突……しなかった。
俺の放った「廃棄物ビーム」は、少女の綺麗な魔法を栄養素にするかのように一方的に飲み込み、逆流していく。
その腐食性は、王水すら超える。
可憐なステッキが、まるで熱した飴細工のように形を保てなくなり、ドロドロと崩れ落ちる。
装飾の宝石が弾け飛び、プラスチックのように溶解した本体が、アスファルトに紫色の染みを作っていく。
「え……?」
「……強酸性だ。触るなよ」
ドローンがその光景をアップで捉える。
キラキラした魔法少女の武器が、汚物塗れになって朽ち果てる様。それは皮肉にも、どんなヴィランとの戦闘よりもショッキングで、背徳的な映像美を醸し出していた。
「い、いやぁぁぁぁ!? あたしのロッドが! 限定モデルがぁぁぁ!!」
チェリーが悲鳴を上げ、溶解して熱を持ったステッキの残骸を取り落とす。
彼女は自分の手が汚れるのも構わず、溶けた銀の塊を拾おうとして、その熱さにまた悲鳴を上げる。
ヴィランですら、その異様な光景に動きを止め、後ずさりしていた。
魔法使いが魔法を無効化される恐怖。それは、銃撃戦の最中に銃が飴に変わるようなものだ。
俺はデッキブラシを杖代わりに、一歩踏み出した。
「おい、クソガキ」
「ひっ……!?」
俺の顔を見て、チェリーが息を飲む。
マスク越しに漏れる死臭。爛れて皮膚が剥がれ落ち、筋肉繊維が見え隠れする頬。
今の俺は、間違いなく彼女が戦ってきたどんなヴィランよりも「化け物」に見えるだろう。
俺は懐から、手垢と油で汚れた野帳(レベルブック)を取り出し、胸ポケットのボールペンをノックした。
サラサラと、慣れた手つきで損害項目を記入していく。
「器物損壊、壁面補修費、塗装材工費……それから業務妨害による遅延損害金。所属事務所はどこだ? スターダスト・プロダクションか? それともシャイニング・エージェンシーか?」
「は、はぁ……!? あ、あんた何なのよ……! あたしのロッドが……これ、ローンまだ35回残ってるのに……!」
「知らん。こっちは生活がかかってるんだ」
俺は書き殴ったメモを破り取り、彼女の足元の水たまりに投げ捨てた。
紙片が汚水に濡れ、インクが滲む。
「清掃員だと言ったはずだ。……チッ、話にならんな」
彼女はまだ、自分が何者(ヴィラン)に襲われたのか理解できていない。
理解する必要もない。彼女にとって俺は「理解不能な背景(モブ)」であり、俺にとって彼女は「排除すべき障害(ゴミ)」だ。
住む世界が違う。
「今日のところはこれくらいにしてやる。次は会社を通して正式に抗議するからな。……あと、そのヴィランもちゃんと片付けていけよ。中途半端に散らかすな」
俺は呆然とする英雄(ガキ)とヴィランを放置し、道具を持って踵を返した。
これ以上関わると、本当に殺してしまいそうだ。
背後でチェリーが「な、なんなのよぉ〜! 酸っぱい匂いとれない〜!」と地団駄を踏む音が聞こえたが、俺は無視して闇に消えた。
俺は息を吐く。肺から、鉄錆の味がした。
激しい咳と共に、手のひらに「黒い血塊」が吐き出される。
寿命がまた数日、削り取られた証拠だ。
「……ふぅ」
膝から力が抜けそうになるのを、必死にこらえる。
少女を見る。まだ自分の杖の汚れを必死に拭っていた。
幸せな奴だ。自分の汚れを「拭けば落ちる」と思っていられるうちは。
俺はよろめく足取りで路地裏を出た。震える現場監督に「(労災が降りないので)早退る」とだけ告げて。
背後で、赤い光が不規則に明滅している気配がした。
振り返ると、地面に落ちたドローンのカメラが、まだ生きていた。
おかしな角度で首を曲げたレンズが、去りゆく俺の背中をじっと見つめている。
その向こうにいる何万、何億という目が、今の俺を見ている。
見世物じゃねえぞ。
俺はカメラに顔を近づける。
防毒マスクの奥、充血した瞳だけで、レンズの向こうを睨みつけた。
「……清掃終了(シフト・オーバー)」
俺は無造作にドローンを踏み砕き、今度こそ夜の闇に消える。
体内タンクは満杯(フルチャージ)。
10年分の殺意が、激しく脈打っている。
行き先は、地図にない闇診療所。
このあぶく銭(汚れ)を、本当の「力」に変えるために。
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