第1章 羅刹侯爵家の嫡男(続き)

秋から冬へと季節が移ろう羅刹領。北方の山岳地帯に位置するこの領地は、険しい峰々に囲まれ、武人貴族の要塞として知られていた。羅刹侯爵・凌天は帝国でも指折りの武人で、その剣術は正派にも認められるほどの腕前だ。妻の月影侯爵夫人は、かつて江湖の名門・月家の嫡女であり、夫と同等の内功を備えた稀有な女武人である。


十月の満月の夜、月影は産まれた。産婆の手に抱かれた嫡男は、生まれたばかりとは思えぬ力強い泣き声を上げた。その瞳には、通常の新生児にはない光が宿っていた。冷たく、澄んだ、どこか深淵を感じさせる光である。


凌天は産室の前で待ちながら、妻と子の無事を祈っていた。側近の老医師・蓮心は、産室から出てくると、凌天に一つの警告を口にした。


「侯爵殿。お子は、常ならぬ力を秘めておいでです。その力が何であるか、この老いぼれには判断できません。しかし、このことは極秘とされるべきでしょう。世に知られれば、お子はたちまち江湖の獲物となり、多くの者に狙われることになるでしょう」


凌天は医師の言葉を深く受け止めた。彼は武人であり、江湖の力学を十分に理解していた。力は欲望の対象である。そして欲望は、時に人命すら奪う。


嫡男の名は『凌雲』と決められた。かつて江湖の伝説に名を馳せた天才武人の名を冠することで、この子が歴史の重みを背負うことを暗に示すものであった。凌天と月影は、この子が何であるか、なぜこのような力を秘めているのかを知ることはなかった。ただ、彼らは直感的に理解していた。この子は、並の人間ではないのだと。


月影は凌雲を抱きしめ、その小さな手が自らの指を握る感覚に、深い愛情と同時に、言いようのない不安を感じた。夫の凌天も同じであった。二人は、この子の未来がどのようなものになるのか、その行く末を案じずにはいられなかった。


凌雲は驚くべき速度で成長した。生後三ヶ月で、通常であれば首も座らぬ新生児のはずが、既に自分の力でその首を支えることができていた。生後半年の時点では、一歳児並みの発育を遂げていた。


その異常な成長の過程で、凌雲の体から時折、黒い気が漏れ出すようになった。乳母たちはそれを目撃するたびに恐れ、十字を切るような仕草をした。だが凌天と月影は、医師の助言に従い、このことを城内の限られた者にしか知らせなかった。


城の奥の部屋で、凌雲は月影の膝に抱かれていた。生後七ヶ月だというのに、その瞳には既に知性の光が宿っていた。月影は我が子の頬に優しく手を当てた。


「この子は、一体何なのだろう。凌天」


凌天は妻の傍らに静かに座り、息子の黒い瞳を見つめた。


「わからぬ。だが、この子を守ることが、我らの責務だと思う。江湖の者たちは、この子の力を知れば、必ずや奪おうとするだろう。我らはこの子を、そのような欲望から守らねばならぬ」


月影は頷いた。彼女もまた、江湖の出身であり、力がいかに人間を狂わせるかを知っていた。そして、この子が秘める力がいかに危険なものであるかも、本能的に理解していた。


生後十ヶ月を迎えた凌雲は、既に簡単な言葉を発することができた。「父」「母」「月」——彼の最初の言葉は、この三つであった。その言葉の発音は、新生児らしからぬ明確さを備えていた。


凌天は、これ以上この子を羅刹領に留め置くことが危険だと感じ始めていた。江湖の情報網は恐ろしく速い。いずれ、この異常な力を秘めた嫡男の存在は、広く知られるようになるだろう。そうなれば、羅刹領は江湖の強者たちの争奪の地と化してしまう。


凌天は、月影と共に、ある決断に至った。


「この子を、一度、江湖から遠ざけるべきではないか」


月影は、その言葉の意味を理解した。それは、この子を他の場所へ送ることを意味していた。だが、どこへ? この世のどこに、この子ほどの力を秘めた者を、安全に育てられる場所があるのか。


その答えは、最も予想外の形でもたらされた。


冬至の夜、羅刹領の城は突然の襲撃を受けた。天魔教の者たちである。彼らは、城の防御を容易に突破し、次々と侵入してきた。凌天は迷わず、月影に凌雲を抱かせ、城の奥深い隠し部屋へ逃げ込むよう命じた。


「月影よ。この子を守ることが、今、最も重要だ。どのようなことがあろうとも、この子を手放してはならぬ」


月影は凌雲を抱きしめ、涙ながらに頷いた。彼女は乳母の一人に、凌雲をおぶわせ、共に隠し部屋の中へ身を隠した。


城中に激しい戦闘音が響き渡る中、凌天と長兄・凌虎は、家臣たちと共に敵と対峙した。天魔教の襲撃者たちは、異常なほどの力を備えていた。その中でも、鬼刹と呼ばれる男と、蛇毒と呼ばれる女は、特に強力だった。


凌虎は、蛇毒の毒刃に中毒され、徐々に力が失われていった。彼の最期の言葉は、弟・凌雲への想いであった。


「弟よ。生き残れ。そして、いつか、この恨みを晴らしてくれ」


凌虎の体は、蛇毒の刃に貫かれ、動かなくなった。


隠し部屋の中で、月影は凌雲を胸に抱きしめ、外の音に耳を澄ませていた。凌雲の瞳は、その時、異様な輝きを放っていた。まるで、何かを感知するかのように。やがて、隠し部屋の扉が力ずくで開かれ、鬼刹と呼ばれる男が姿を現した。彼の瞳は、凌雲を見ると、一瞬にして貪欲な光で満たされた。


「ここにいたか。淵龍珠の力を宿す子よ」


月影は凌雲を守ろうと、男に向かって剣を抜いた。だが、その力は圧倒的に不足していた。彼女は徐々に追い詰められ、最後には凌雲を守るため、自らの身を盾にして敵の刃を受けた。


「凌雲よ。生きるのだ。必ず、生き残るのだ」


月影の体は、敵の刃に貫かれた。彼女の最期の言葉は、愛する子への願いであった。


凌雲は、母の温もりが冷えていくのを感じた。その時、彼の瞳は、深く暗い黒へと変わった。彼の体から、黒い気が大きく揺らめき始めた。それはまるで、地獄から這い出す龍のようであった。


だが、その黒い気は、すぐに何かによって抑制された。鬼刹の男は、凌雲を抱き上げ、黒い布で彼を包み込んだ。凌雲の意識は、その時、完全に途絶えた。


隠し部屋の奥で、乳母は凌雲の姿が連れ去られるのを見守ることしかできなかった。彼女は、この悲劇を誰かに伝えねばならないと感じ、城の外へと逃げ出した。


城を逃れた者の一人に、凌天の旧臣・陸明がいた。彼は、羅刹領の侯爵家の執事として長年仕えた男である。凌雲の誕生から成長まで、彼はその全てを目撃していた。彼は、乳母から凌雲が天魔教に連れ去られたという言葉を聞き、深い絶望と怒りに包まれた。


陸明は、江湖の奥深くへと身を隠し、凌雲を探し続ける決意を固めた。彼は、この子が何者であるか、なぜ天魔教に狙われたのか、その全てを知りたいと願った。そして、いつか、この子を救い出すという誓いを、心に刻み込んだ。


羅刹侯爵家の嫡男・凌雲は、こうして天魔教の手に落ちた。彼の真の人生は、ここから始まるのである。

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