群青の不純物
まだ秘密
群青の不純物
西日の差し込むアトリエは、埃のダンスを可視化させるほどに静まり返っていた。鉛筆が画用紙を削る硬い音と、時折混じる衣擦れの音。それだけが、この部屋が呼吸している証だった。
並んだイーゼルの背後を、足音を殺して歩く。
視線の先にあるのは、石膏のヘルメスだ。白く、無機質で、完璧な均衡。受講生たちの多くはその「正解」をなぞることに汲々としているが、一人だけ、画面の中に異質な重力を生み出している男がいた。
瀬戸。
現役の芸大生でありながら、この夏期講習に「初心に帰るため」と称して潜り込んできた変わり種だ。
彼の背後で足を止める。
キャンバスに向かう瀬戸の背中からは、微かに煙草と、石鹸が混じった匂いがした。彼は一度もこちらを振り返らない。ただ、右手に握られた木炭が、獲物を仕留める獣のような迷いのなさで影を置いていく。
画面を覗き込む。
ヘルメスの首筋から肩にかけてのライン。瀬戸が引いた線は、実物よりもわずかに鋭い。解剖学的な正解からは、数ミリ外れている。
「……線が、死んでるな」
低く声をかけると、瀬戸の手が止まった。彼はゆっくりとこちらを見上げる。縁の細い眼鏡の奥で、光を反射した瞳が細められた。
「死んでいる、ですか。先生の目には、これが動いていないように見えますか」
「動くかどうかは問題じゃない。お前はヘルメスを描いているんじゃない。自分の理想の『美しさ』を押し付けている。筋肉の付き方に嘘がある。そこにあるのは石膏であって、お前の想像上の神様じゃないはずだ」
瀬戸は小さく、鼻先で笑った。彼は木炭を置くと、指先に付いた黒い粉を執拗に布で拭い始める。
「先生の添削は、いつも具体的で、それでいてひどく主観的だ。僕の技術を認めているようでいて、一番肝心な場所を否定する」
「技術だけなら、今すぐ外で看板描きでも始めればいい。ここは、見ることを学ぶ場所だ」
突き放すように言い、彼の隣にあった空の丸椅子に腰を下ろした。
瀬戸が、予備のクロッキー帳を無造作に差し出してきた。表紙は使い込まれ、角が擦り切れている。
「これ、見てください。昨日の夜、駅前で描いたものです」
ページを捲る。そこには、ベンチで眠る浮浪者や、スマートフォンを眺める女子高生、家路を急ぐサラリーマンの群像があった。
アトリエで描くヘルメスとは、明らかに筆致が違う。乱暴で、泥臭い。だが、その中の一枚、歩道橋の影を描いたクロッキーに、目が留まった。
コンクリートの質感、アスファルトの照り返し。そこには、冷ややかな観察眼だけではない、何かが宿っていた。
「……この影。お前、何を見て描いた」
「何も。ただ、足元が暗かったから。自分自身の影を、どこに捨てればいいか分からなくなったんです」
瀬戸の言葉は、熱を帯びていない。ただ、差し出されたクロッキー帳を握る指先が、わずかに白くなっているのが見えた。
彼は、何かを恐れている。自分の内側から溢れ出す「正解のない何か」を、石膏像という教科書の中に閉じ込めて、窒息させようとしているのだ。
立ち上がり、瀬戸の右手首を掴んだ。
驚いたように、彼の肩が跳ねる。肌に触れた感触は、思っていたよりもずっと熱い。
「明日、ここに来る前に、海に行ってこい」
「海? 夏休みの宿題ですか」
「青を、何色持っているか数えてこい。絵具のチューブの名前じゃなく、お前の目が捉えた青だ。それが描けない限り、お前のヘルメスはただの白い石塊だ」
掴んでいた手を離すと、そこには薄っすらと指の跡が残っていた。瀬戸はそれを隠すように袖を捲り直し、一度だけ、深く息を吐いた。
「……いつもより、今日の珈琲は苦そうですね」
机の上に置いてあった、飲みかけのブラックコーヒー。冷めきって表面に油膜の浮いたそれを指して、瀬戸は言った。
「味覚まで研ぎ澄ます必要はない」
「いいえ。先生が、僕の絵に苛立っているのが伝わる。それが、なんだか少しだけ、嬉しいですよ」
彼はそう言い残すと、道具を片付け始めた。カチャカチャという鉛筆のぶつかる音が、アトリエの静寂を切り裂いていく。
翌日、瀬戸は現れなかった。
代わりに届いたのは、一枚のF8サイズのキャンバスだった。
そこには、ヘルメスは描かれていなかった。
ただ、圧倒的な密度で塗り込められた「青」があった。波の飛沫や砂浜の情景など一切ない。ただ、幾重にも重ねられた、深海のような、あるいは白昼の空のような、得体の知れない青。
キャンバスの隅に、走り書きのような文字で一言だけ。
『不純物がありました』
絵具の層を凝視する。
その青の奥に、ほんのわずか、指の腹で擦ったような赤が混じっていた。それは、昨日彼の手首を掴んだ時に感じた熱そのもののように見えた。
俺は、無意識に自分の右手を握りしめる。
指導しているのは、俺の方だと思っていた。彼を導き、正しい道に戻すのが役割だと。
だが、この青を前にして、俺の喉は乾ききっていた。彼が捨てようとしていた「影」は、今、俺の目の前で鮮烈な光を放っている。
窓の外では、蝉の声が耳を劈くほどに鳴り響いている。
アトリエの入り口で、靴音がした。
振り返らなくても、誰かは分かった。
背後に立ち止まったその気配に、俺は一度も使ったことのない厳しい言葉を、飲み込んだ。
「……青の数が、足りないな」
瀬戸が、俺の隣に並ぶ。
彼の指先には、まだ洗い落としきれていない群青の絵具が、不純物のようにこびりついていた。
「ええ。だから、また隣で描かせてください。先生の『正解』を壊すまで」
差し出された新しい筆は、まだ穂先が硬い。
俺はそれを無言で受け取り、彼と並んで、白紙のキャンバスに向き合った。
夏の風が、カーテンを大きく膨らませる。
湿った空気の匂いと、強い油絵具の香りが、肺の奥まで入り込んできた。
夏期講習の最終日、二十時を過ぎたアトリエは、日中の熱気を放熱できずにいた。
天井の蛍光灯が、一つだけ不規則な瞬きを繰り返している。その頼りない光の下で、瀬戸が差し出した「青いキャンバス」と向き合っていた。
彼は壁に背を預け、床に座り込んでいる。開いた窓からは、湿った夜風と共に、遠くを走る電車の地響きが届いた。
「この赤、どうやって作った」
画面の右下、青の地層に埋もれるようにして存在している、一滴の赤。それは絵具の赤ではなかった。乾く過程で変色し、どす黒く沈んだ、生き物の痕跡。
瀬戸は自嘲気味に口角を上げると、絆創膏の巻かれていない左手の指先を見つめた。
「海には、青しかありませんでした。先生の言う通り、数えきれないほどの青が。でも、それをどれだけ塗り重ねても、僕の絵は石膏のままでした。無機質で、他人事で、完璧すぎる」
彼は膝を抱え、視線を落とす。
「波打ち際でキャンバスを広げていたら、あまりに綺麗すぎて、吐き気がしたんです。だから、壊したくなった。この『綺麗なだけの世界』に、僕という不純物を混ぜてやりたくなった」
瀬戸は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の手が、キャンバスの赤に触れる。指先が、その乾いた感触をなぞる。
「カッターで指を切りました。大した傷じゃない。でも、その血が垂れた瞬間、ようやくこの青が僕のものになった気がしたんです。先生、あなたは昨日、僕の手首を掴みましたよね」
瀬戸の視線が、俺の右手に移る。
「あの時、あなたの指が僕の皮膚に食い込んだ温度。あれが、僕が知る中で一番正しい『赤』でした」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
彼が描こうとしていたのは、海でも、ヘルメスでもなかった。俺が彼に刻んだ、暴力的なまでの生の実感。それを再現するために、彼は自らの肉体を裂いたのだ。
俺は、彼の細い首筋に視線を這わせる。
そこには、昨日の西日の下では見えなかった、青白い静脈が透けていた。
「……愚かだな、お前は」
声が、自分でも驚くほど低く響いた。
俺は机の引き出しから、使い古されたナイフを取り出す。鉛筆を削るための、鋭利な刃。
「痛みで色を補おうとするのは、才能の敗北だ。血を混ぜれば本物になると思っているなら、お前は一生、本物の絵描きにはなれない」
言いながら、俺はそのナイフを瀬戸の掌に押し当てた。
彼は逃げない。ただ、じっと俺の瞳の奥を覗き込んでいる。刃先が皮膚を圧し、わずかに沈み込む。
「……でも、先生は目を逸らさなかった」
瀬戸の声は、熱を孕んで湿っていた。
「僕が指を切ったのも、この絵に不純物を混ぜたのも、全部あなたのせいです。あなたのせいで、僕の『正解』は全部めちゃくちゃになった」
ナイフを握る俺の手の上に、彼の手が重なる。
冷たい金属を介して、互いの拍動が伝わってくるようだった。
「先生。次の課題をください。痛み以外で、この赤を超える方法を」
彼は、俺の手を自分の方へと引き寄せる。
その瞳には、かつての冷笑的な光はない。ただ、暗い情熱が、不純物のように澱んでいた。
俺はナイフを床に落とした。
乾いた音が響き、沈黙がアトリエを支配する。
「……明日、またここに来い。今度は石膏じゃない。お前自身を、骨の髄まで解体して描かせてやる」
俺の手を握る瀬戸の指に、力がこもる。
窓の外では、夏の終わりを告げるような激しい雨が降り始めていた。アスファルトが叩かれる匂いが、二人の間の熱を静かに冷ましていく。
俺は、彼の手のひらに残ったナイフの痕を、親指で強くなぞった。
赤く染まる前の、白い感触。
それが、これから始まる新しい対峙の、最初の色だった。
群青の不純物 まだ秘密 @azadia
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