箱入り少女に関する、いささか不健全な哲学的考察

サクサク

第1話 屋上の箱入り少女と、唐突な誘惑

「ねぇ、箱の中に入れられてみたい?」


「は?」


 ……そう言われたのは、あの日、食事に行く帰り道のことだった。


 彼女が振り返って、こっちを見た。


「あのねー、ねー、箱の中に入れられてみたくない? あーみ」


 彼女は言葉を伸ばした。


 ふと、鉄の扉を押し開けたあの日のことが、頭をよぎる。


 本来なら、あの鉄の扉は開かないはずだし、あの軽小説みたいな、青春の告白シーンなんてあるわけもない。


 あの扉は、もしかしたら窓だったのかもしれない。だって教室の窓は開かないから。見知らぬ神様が言っていた、ドアを閉ざすときには、窓を一つ開けておく、ってやつ。


 そんなわけのわからない理由で、ぼくは屋上に登った。


 調子の悪い身体は、息を切らしている。


 前に何度か登ったことがあるから、人がいるとは思っていなかった。人がいるところには、どうしたって面倒な人間関係が生まれる。ぼくはそういうのが好きじゃない。どちらかと言えば、新鮮な空気のほうが好きだ。


 でも、屋上の扉を押し開けたとき、ぼくは一人の女の子を見た。


 彼女は、自分を段ボール箱に詰め込もうとしていた。


 初秋の風は強く、彼女の大きすぎる制服の上着を膨らませ、不器用な鳥のようだった。彼女は背を向け、「教材備品」と印字されたダンボール箱に膝を折り畳み込もうと懸命で、墨色の長い髪が肩から滑り落ちていた。その仕草は、笑っちゃうくらい真剣で、それでいて、息を呑むほど危うげに見えた。


 こっそりと引き返すべきだった――静かな場所を求めたのはぼくで、他人の不思議な行いの現場に踏み込んだのもぼくなのだから。


 でも、錆びた扉の蝶番がぼくを売った。


 彼女はぼくを見て、驚きではなく、邪魔されたことに対する純粋な困惑だけを目に浮かべた。


「ああ」


 風に運ばれてきた彼女の声は、信じられないほど澄んでいた。


「あなたも、『箱の感じ』を試しに来たの?」


 それが、ぼくと小水の最初の会話だった。地上二十メートルで、段ボール箱をめぐって。



***



 眉をひそめる。冬の向かい風は、息をするのも困難にさせる。


 とはいえ、友達の小水はいつもわけのわからないことを口にする。例えば、


「飛行機の保険に意味あると思う? だって、人が死んじゃったら、その死んだお金は見えないじゃん。でも保険料は確実な損失だよね、死ぬ前まで覚えてるんだから」


「お金を両親にあげたいと思わない? 『手塩にかけて育てた』とは言わないまでも、少なくともあんたみたいな変人を十六歳まで育てて、妬ましいほど可愛い女子高生にしたんだから、大変だったんじゃない?」


 ぼくはそう言う。本当にそう思っているからだ。


 ごく普通の答えだ。


 彼女は、頭の回転はそれほど速くないのに、成績は良く、ルックスも良いという稀有なタイプだ。


 どれくらい可愛いかって? あの子のまつ毛は長く、目も潤んでいて、メガネはかけていない。背も高くはないけど、スタイルはいい。そんな女の子がクラスで人気者にならないわけがない。


 でも。


 次の瞬間、彼女の思考は成層圏から墜落し、一気に秩序崩壊した原始時代にタイムスリップする。


 これが彼女の悪いところだ。


「ねぇ。人間って原始時代はみんな裸で誠実に向き合ってたのに、今は羞恥心があるよね」


「……うん」


 嫌な予感がする。


「なんで街でハダカだと、穢れてるみたいに思われちゃうんだろう? あーみ……いたい、いたたた――引っ張らないでよ――」


 周りには誰もいないのに、オブラートのように薄いぼくの面の皮は、彼女にべろりと舐め溶かされてしまった。


 顔中が彼女の唾液でべとついているようで、でも唾液って走っても振り払えないんだ。


「あーみを箱に入れてあげたいな」


「あーみを箱に入れたいな」


「……」


 ぼくが無視すると、彼女は再生ボタンを押したCDみたいに繰り返す。


 今は十二月。寒い。口を開けて話す気にならない。


 何ヶ月か経ったように、顔についたべとべとした感触はまだ振り払えず、薄い氷に変わっていた。


 そんな彼女でも、クラスのみんなは「成績」「ルックス」という校則的社交ルールに従い、一応孤立させはしない。本当の友達が欲しいかって? それも「絶対無理」「付き合わない方がいいよ、変だもん」なんて言葉で、孤独な高校生活を送ることになるだろう。


 ぼくは彼女の友達だろうか?


 ――そうだと言うなら、絶対に違う、と思う。


 毎日一緒にご飯を食べ、登下校し、休み時間に遊ぶ。週末になると、彼女に出会うたびにとりもちを塗りたくられた追跡ミサイルのようにベタベタくっついてくるけど、あれは強制的で、決して自発的じゃない。


 彼女と一緒に行動したいという願望も、彼女にそばにいてほしいという暗黙の了解もある。


 でも、学校という関係で結びつき、単に物理的に近いからというだけの関係は、卒業やクラス替え、友達のちょっかいで簡単に消えてしまう。


 変な彼女と、そんな彼女と友達になりたいと思う変なぼく。


 変すぎて、普通の「友達」にはなれそうもないぼくたち。


 ぼくは彼女の言葉に耳を貸さず、電停前のいつもの別れ道へと足を向ける。


「今日、うちに来ない?」


 彼女がぼくの手を掴んだ。

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