名もなき怪異の夜
早谷 蒼葉
第一夜 名もなき怪異
第一夜 名もなき怪異
深夜の住宅街は音が薄い。
車の走る気配も、人の声も、どこか遠い。残っているのは街灯の低い唸りと、風に揺れる木の葉の音だけだった。
小さな公園がある。ブランコ、砂場、古い滑り台。どれも色褪せて、昼間なら子どもが遊ぶには少し寂しい場所だ。
街灯は半分が切れていた。光と影が交互に地面を縫い、遊具の影だけが妙に長い。
そこにはある噂がある。見た、という声は多い。ただ、何を見たのかはバラバラだ。
幽霊だとか、白い影だとか、黒い人だとか、言うことが毎回変わる。名前もない。由来もない。ただ「いる」とだけ広まって、勝手に大きくなっていった。
公園の入り口で、高校二年生の
「……いるな」
中学三年生の海斗は、制服ではなく、ラフなパーカーに黒いパンツ。袖をまくって、手首を軽く回す。
目つきが悪く、髪は短めの金髪。くせ毛が、ところどころ跳ねている。眼光が鋭いが、目が据わっているわけではない。ただ眠そうなだけだ。
「はいはい……どこや」
海斗は視線を公園の奥に投げている。街灯の切れ目、滑り台の裏。影が溜まっている場所。陸もそこに空気の重さを感じる。
「滑り台の向こう……動かないな」
「動かんのやったら、こっちからいくわ」
海斗は歩き出した。ためらいがない。初めての場所なのに、怖がる素振りもない。むしろ面倒くさそうに肩を鳴らしている。
近づくほど、視線だけが濃くなる——見られている。目はないのに、視線だけがある。そういう類のものだ。
滑り台の脇、街灯が届かない影の中に、輪郭が浮いた。人の形に見える。けれど、どこも確かじゃない。
腕の位置が曖昧で、首の角度が定まらない。立っているというより——立たされている。
空気が冷える。前日の雨のせいか、湿った鉄の匂いがした。公園にそんな匂いは似合わない。
陸は少しだけ声を落とす。
「……近づくと、圧が上がる。無理はするな」
「せぇへん。こんなん——くだらん」
海斗は舌打ちした。そして、拳を握った。
「ただの喧嘩と一緒や」
海斗は、ただ一歩踏み込んで——殴った。拳が輪郭に触れた瞬間、空気が裂けた。音が遅れて追いつく。鈍い破裂音。
その一撃で、影は崩れ、霧のようにほどけていった。
抵抗らしい抵抗はない。叫び声もない。ただ、消える。最初からそうなる運命だったみたいに。
公園に静寂が戻った。風だけが、何もなかったように遊具を揺らす。
海斗は汚れでも落とすように、手を払った。
「……終わりや。帰ろ」
陸は公園の奥を見回し、眉をわずかに寄せる。何かを測るように、影の濃さを確かめていた。
「最近、こういうの増えてるな」
「消えりゃ同じやろ」
海斗は興味を失った顔のまま、公園を出ていった。陸も少し遅れて歩き出す。
背後の街灯が、一度だけ瞬いて消えた——
昼——
教室の中はうるさい。窓から入る光が眩しくて、夜のことなんて嘘みたいに思える。海斗は机に肘をついて、眠そうに目を擦っていた。
隣の席の生徒——小林亮太が、やたら声を弾ませている。明らかに他の生徒とは違う見た目の海斗に、亮太だけは最初から物怖じせずに近づいてきた。亮太自身もどこか他の生徒から一線引いているように感じるので、気が合うのかもしれない。
「なあ聞いた? あの公園のトイレ、落書きが変わるやつ」
「落書き?」
「そう。毎晩、文字が変わるんやって。消してもまた出るらしいで。『ここを見た』とか、『まだいる』とか」
クラスの数人が「こわ」「やめろや」と笑いながら乗っかる。昼間の怪談は、軽い娯楽だ。怖がるふりをするのが楽しいようだ。
海斗は鼻で笑った。
「落書き魔やろ。暇やな」
「いや、マジなんやって。昨日も写真回ってきたし」
「写真?」
海斗が少し話に乗ってきたので、亮太も話す言葉に力が入ってきた。
「実は画像投稿サイトに、ほぼ毎日アップされてん」
「ほうか……」
「マジでセリフ変わってるで! 海斗も見てみ!」
「そんなもん、なんとでも加工できるやろ?」
亮太は「それもそうやな」と笑って引き下がった。
「まぁ、今度見とくわ」
「うん。他のネタ掴んだら、また教えるわ」
「あぁ」
そう言った海斗の顔は、真剣な表情だった。
放課後。昼の街はちゃんと人がいて、ちゃんと音がある。コンビニの自動ドア、部活の掛け声、原付の排気音。全部が現実の匂いをしている。
陸は先に校門の外で待っていた。綺麗な顔立ちの高校生は、そこに立っているだけで妙に目立つ。周りの女子の視線を浴びていても、陸の様子は全く変わらない。
海斗は鞄を肩にかけて歩み寄り、ぶっきらぼうに言った。
「待たせたな」
「別に……昨夜の、弱かったな」
「弱ぇのばっかで助かるわ」
海斗は言いながら、缶ジュースを投げてよこした。陸はそれを受け取り、プルタブを開ける音だけを立てる。そして、揃って歩き出す。
年齢差はある。けれど、上下関係は薄い。
海斗は荒いが、陸の判断を疑わない。
陸は淡々としているが、海斗のやる事を否定しない。むしろ肯定している。
「それより、少し気になる事があるんや」
「……珍しいな、海斗がそんな事言うのは」
陸が少しだけ驚いたように言う。
「落書きのやつ。あれは都市伝説や思てたけど……」
「それがどうした?」
「とりあえず見てみたい」
「……分かった」
二人は適当なベンチに腰を落とした。そして、陸はスマホを取り出して、鮮やかな手つきでページをスクロールしていく。やがて目的のページへとたどり着いた。そこから更にしぼりこんでいく。
「何がそんなに引っかかっているんだ?」
「……なんで亮太は、セリフが変化していると感じたんや」
「それは、視点が……そうか——そういうことか」
該当の写真を見つけた。何枚か同じ写真が並んでいるように見えるが、確かにセリフが変化している。
「これ……全く同じ画角だよな」
「——ああ」
「でないと、変化していると感じへんよな?」
「ああ——その通りだ」
全く同じ画角で撮影された写真。様々な落書きがある中でも、そのメッセージは妙に目に付く。
今回は自分から動き出した——陸はそれに気付いたのか、僅かに口元を緩ませた。
「固定されたカメラが置いてあれば、そっちのが話題になるよな?」
「あぁ、明らかにおかしいからな」
「そんな話は聞いてへんから、おかしいねん」
「一応、フェイク画像の可能性もあるが……」
「そうならそれで終わりなんやけどなー」
海斗はため息交じりで、そう呟いた。やると決めたらやる。そう決心するまでは、中々その気になれない。めんどくさい気持ちもある。ただ、今回の違和感は心にひっかかる。
「これは多分、フェイクじゃない」
「……何か感じるか?」
「ここに残っている……そう感じる」
「……めんどくさいパターンやん」
「面倒だからこそ、放っておくと危ない」
陸の言い方は責める気配はない。ただ事実を並べているだけだ。海斗は舌打ちしたが、腰をあげる様子はない。ただ最終的には行くことになる——自分でもわかっている。
「これは……急いだほうがいいな」
陸は画面から目を離さず無表情のまま、ただ言葉を落としただけだ。だが、その一言には確信があった。
「なんでや?」
「メッセージが……近づいている」
『どこ』『だれ』『いつまで』『アナタを』『いない』『さがして』『ワタシを』『こっち』『いく』
様々なメッセージが表示されていた。いつから続いていたのかは分からない。何かを探しているような内容。
『ようやく』
確かに、少しずつだが距離が縮まっているようにも取れる。遠くから徐々に近くへと。
そして……二人の見ている前で、新しい投稿がされた。
『みつけた』
お互い無言で画面を見つめている。しばらくして、海斗は首を鳴らした。嫌そうなのに、目はすでに夜の方を見ている。
夜——
公園は昼とは別の場所になる。風が冷たい。街灯の切れた半分が、相変わらず暗い。ブランコの鎖が鳴る音が、誰も触っていないのに聞こえる気がする。
訪れるのは二度目となる公園に入った瞬間、陸が足を止めた。
「……いるな」
「そらそうやろ」
海斗は迷わずトイレの方へ向かった。古い公衆トイレ。白いタイルは煤け、照明は点いていない。入口の蛍光灯はとっくに死んでいる。
そして壁中に落書きがあった。海斗はサイトで見た場所を探す。昨日は見ていない。今日、初めて見る。
相合傘や携帯の番号、アート作品などが壁一面に文字が書かれている。うんざりした気持ちで目を走らせる。
やがて——
『みつけた』その文字をみつけた。
海斗が舌打ちした。
「誰に向けてや」
陸は文字を見つめる。無表情のままだが、目つきがいつもと違う。
「おそらく……」
「陸には分かるんか?」
陸は返事を返さない。海斗は肩をすくめ、トイレの入口へ歩を進めた。一歩、二歩。足音がタイルに吸い込まれる。妙に静かだ。
そのとき——
水音がした……
ぽた……ぽた、ぽた、ぽたぽた。
蛇口の水滴が落ちる音。けれど、このトイレは使われていないはずだ。昼間でも誰も入らない。だから噂になっている。海斗が立ち止まる。
「……誰かおるんか」
陸が小さく首を振った。
「いない……でも、いる」
水音が少し近づいた気がした。
距離が縮まるのではない。音の輪郭だけが濃くなる。耳の奥に直接触れてくるような、嫌な近さ。
海斗が拳を握り直す。昨日の公園の影とは違う。圧がある。重い。粘る。
陸が、海斗の背中に視線を置いた。
「……海斗。先には入るな」
「は? 入らな始まらんやろ」
「まだだ。……様子が違う」
昨日と違い、陸は警戒しているようだ。
「まぁ、任せとき」
「——来たぞ」
陸の声が、ほんの少しだけ鋭くなる。海斗が振り返る。陸は無表情のままだったが、声に緊張が滲んでいるような気がした。
——それはいた。
いつの間にか目の前に現れた影は、人の形をしていた。
髪は長く少し乱れている。顔は前髪に邪魔されてよく見えない。赤いワンピースを着た女が、薄い闇の中に浮かび上がった。
「よう、来てやったで」
「……」
海斗は普通の様子で声をかけるが、女は応えない。だが、闇が少し薄くなったように感じる。
「お前が落書きしてんやろ」
「……」
また応えない。
「だんまりか……まぁええわ」
「……」
「俺らが用があるのはお前やない」
「……」
「後ろにおるお前や!」
その瞬間、トイレの奥から、もう一つ音がした。
――ぬる、と。
水の中を何かが動く音。足音ではない。生き物の呼吸でもない。壁の文字が、まるで濡れたみたいに光った。
『みつけた』の文字が黒く滲む。
海斗の口が、少し歪む。
「……気持ち悪ぃな」
陸は淡々と言った。
「投稿主のお出ましだ」
トイレの奥、見えない場所で、蛇口が勝手に捻れたような音がした。水が流れる気配はない。でも、流れるはずのものが動き始めた気配だけがある。
海斗が一歩、踏み出す。
「お前、この女のストーカーやな。この変態野郎」
暗闇の奥から、誰かの声がした。
——小さく、かすれているが確かに。
「……おれの……女……」
そこで、夜が一段深くなった。
「うるせぇわ」
「おれの……女だ……」
「ちゃうわ」
「おぉぉれぇのぉだーー」
一気に闇が濃くなり、黒い塊が海斗に襲いかかる。誰かの断末魔のような雄叫びと共に。
海斗は怯まない。臆さない。ただ「アホか」と呟き右腕を振るった——
「夜へ還りな——変態野郎」
それは終わりの合図だった。黒い塊は霧散し消えていく。何の余韻も無く、ただ消える。
海斗たちは、ただそれを見届けた。
僅かな沈黙のあと……いつもの夜が戻った。
「さて、あとはお前だけやな」
そう言いながら海斗は、女の方へ振り向いた。女は相変わらず無言だ。
「海斗……どうするつもりだ?」
「んー、そうやな……」
腕を組んで悩んでいる海斗に、陸は告げる。
「一つ言っておく」
「なんや?」
「彼女が探していたのは、おそらくお前だ」
「……へ? なんでや?」
「……さあな」
心なしか女の気配が濃くなったような気がする。表情は相変わらず読めない。
「まぁ、どちらにせよ……祓えないだろ?」
「当たり前や、女は殴らん……よし、決めた!」
バシッと手を叩いた音がやけに響く。その音に驚いたのか、女が少し後ろに下がった。一緒に闇も下がる。
「お前は無害やから、そのままにしたる!」
「……」
「ここにいてもいいで! 好きに過ごしたらええ」
「海斗……彼女が執着しているのは場所じゃない。お前だ」
「なら——俺に憑いてくるか? がははー」
海斗は高らかに笑った。陸は呆れたように溜息をつく。本気とも冗談とも取れる言葉に、闇がゆらめく。
そして——女が動いた。海斗の後ろまで飛ぶように回り込み、静かに立つ。ただ、少し空気が軽くなったようだ。
「え……ほ、ほんまに?」
「お前が言ったんだ、責任とれよ」
戸惑いつつも、海斗は自分の言葉に責任を取る。
「……おう、わかっとるわ」
今後この公園に毎日変わる落書きは出ないだろう。言葉を持たない女は、文字を海斗まで届けた。その想いは果たされたのだから。
「しかし、お前は本当に無茶苦茶だな」
「そうか? だって何か嬉しいやん」
「どういうことだ?」
「どんな想いかは知らへんけど、ずっと俺を探してくれてたんやろ?」
女の影が、わずかに近づいた。
「男として、その気持ちに応えんとあかんやろ」
海斗にとっては、生きているものも、そうでないものも全て等しく対等であった。視えているのだから、そこにいる。害がないのなら存在していい。それを自分で判断しているだけなのだ。
「なぁ、こいつの事、何て呼べばええかな?」
「本人は……言わないな。海斗が名前をつけてやれ」
「よっしゃ! 任せとけ」
女は少し微笑んでいるようだ。二人のことを見守るように。僅かな沈黙のあと、口を開く。
「決めた! お前は今日から——
「……!」
澪は驚いたのか、その場の空気が振動した。喜んでいるのかは分らない。
「どうや! ええ名前やろ?」と海斗は笑う。
「あぁ……そうだな」陸も微笑んだ。
陸は思う——
名もなき怪異は、この瞬間に消えた。名を得たことで、存在が許された。この夜が終わり、闇が消えても——彼女はもう消えない。
女——澪のくちびるが微かに動いた。
その言葉は、夜に溶けて消えた——
名もなき怪異の夜 早谷 蒼葉 @yukimura49
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