全世界最高のMMORPGに転生後、ギルドの妖精美少女を率いてゲーム世界を一気に統一する
宮沢 華凜
第1話 降り立った先の血と月光
目が覚めたとき、硝子のように冷たい月光が顔を撫でていた。
宮村達哉は硬い石畳の上に横たわり、背中に伝わる鈍い痛みにゆっくりと意識を集中させた。最後の記憶は、自室のデスクでモニターに向かい、『魔法戦争芸術世界』のレイド戦略を練っていたことだ。三月八日、午前二時過ぎ。コーヒーの三杯目が冷め、キーボードの上でうたた寝をした――それだけのはずだった。
「ここは…」
声が出ない。喉が渇き、砂利を噛んだような感覚がある。
彼はゆっくりと上半身を起こし、周囲を見渡した。
視界に広がるのは、現実とは思えぬ光景だった。
高くそびえる乳白色の尖塔群が、青白い月光を浴びて微かに輝いている。塔の壁面には、精緻を極めた金の蔓模様が複雑に絡み合い、どこか哀愁を帯びた優美さを醸し出していた。足元の石畳は、一つ一つが完璧な六角形で、その継ぎ目からは微かな魔法の輝きが漏れている。空気は清涼で、現実世界の都市にはない植物の香りと、かすかに甘い魔晶石の匂いが混ざり合っていた。
「シルバームーン森林…いや、『銀月森林』…?」
達哉は無意識にゲーム内の地名を呟いた。
彼がかつて何千時間も過ごした、あのMMORPG『魔法戦争芸術世界』の高等エルフの首都――それはまさにこの光景そのものだった。だが、違いもある。ゲーム内のグラフィックよりはるかに細密で、風の冷たさ、石の硬さ、空気中の微粒子までもが、圧倒的なリアリティを持って彼の五感に襲いかかってくる。
「ありえない…」
達哉は立ち上がり、自分の体を見下ろした。
身に着けているのは、ゲーム内で彼が愛用していた『星詠みの旅装束』だった。深紫色のマント、銀の刺繍が施された革の胴着、軽やかながらも魔法防御に優れた布のズボン。腰には短剣が二振り、背中には長弓がかけられている。すべてがゲーム内の装備そのままだ。
「これは…夢か?」
彼は自分の頬を強くつねった。
痛い。鋭い痛みが神経を走る。
夢ではない。
「まさか…転生…?」
その言葉すら陳腐に感じるほど、状況は現実味を帯びていた。達哉は深呼吸を試みた。ゲーム内の知識が洪水のように蘇ってくる。シルバームーン森林の構造、エルフの文化、魔法体系――すべてが彼の脳内に整然と整理されていた。
その時、遠くから叫び声が聞こえた。
エルフ語だ。ゲーム内で何度も耳にした、流麗で旋律的な言語。
「魔物が市街地に侵入した! 守備隊を召集せよ!」
達哉の体が反射的に動いた。ゲーム内での何百回もの戦闘で培った本能が、彼を路地の影へと導く。高く聳える建物の陰に身を隠し、息を殺す。
足音が近づく。軽やかで優雅な、エルフ特有の歩調だ。
三人のエルフ守備兵が駆け抜けていく。銀の鎧に身を包み、長い金髪を束ねた彼らの顔は、人間よりはるかに彫刻的な美しさを持っていたが、今その表情は緊張に歪んでいる。
「どこから侵入した?」
「北の結界が弱体化している。あの“獣”の仕業に違いない」
「ルラスの恥よ…我々の魔法がここまで堕ちたとは」
彼らの会話が達哉の耳に届く。ルラス――ゲーム内では“高等エルフの王国”を意味する言葉だ。だが、彼らは“シルバームーン森林”と呼んでいる。微妙な違いが、これが完全に同じ世界ではないことを示していた。
守備兵たちが去ると、達哉はゆっくりと影から出た。
心臓が激しく鼓動している。これは現実だ。痛みも、匂いも、恐怖もすべてがリアルすぎる。
「もしや…」
突然、ある可能性が頭をよぎった。
達哉は慌てて自分のステータスを確認しようとした。ゲーム内なら、思考だけでステータスウィンドウを開けることができた。
一瞬の間の後、彼の視界の隅に、微かに光る透明なインターフェースが浮かび上がった。
【名前:宮村達哉(タツヤ・ミヤムラ)】
【種族:高等エルフ(疑似)】
【レベル:42】
【職業:影追跡者(アサシン/レンジャーハイブリッド)】
【HP:870/870】
【MP:320/320】
「本当に…ゲームのキャラクターになった…」
達哉は息を呑んだ。だが、それ以上に衝撃的だったのは、インターフェースの一番下に表示された一行だった。
【現実世界接続:切断中】
【最後の接続:3月8日 02:17】
【妹からの未読メッセージ:3件】
「…妹」
その言葉が、達哉の胸に突き刺さった。
現実世界。あの狭いアパートの一室。コンビニ弁当の容器が積み重なり、ゲームの攻略本やフィギュアで散らかった部屋。そして、時折訪ねてきては「お兄ちゃん、もう少し外に出たほうがいいよ」と心配そうに言う、あの幼い妹の顔が浮かんだ。
美優(みゆ)。まだ小学六年生の、たった十二歳の妹。
両親が仕事でほとんど家にいないから、達哉が実質的に面倒を見ていた。不甲斐ない兄だった――学校にも行かず、バイトもせず、一日中ゲームに没頭するただの引きこもり。それでも美優は、優しく笑って弁当を作ってくれた。
「美優…」
達哉の手が震えた。この世界がどんなにリアルであろうと、彼には戻るべき場所があった。たとえそれが惨めな現実であっても。
「どうやって戻る…? ログアウトは? メニューは?」
彼は必死に思考を巡らせたが、何の反応もない。ゲーム内のコマンドは一切機能しない。これはもう、単なるゲームではないのだ。
突然、獣の唸り声のようなものが風に乗って聞こえてきた。
低く、深く、どこか苦悶に満ちた唸りだ。
達哉の背筋が凍りつく。ゲーム内の知識が警告を発する。あの音は――
「ベアフォームのドルイド…?」
彼の推測を証明するように、百メートルほど先の広場から、木材が裂けるような大きな音が響いた。続いてエルフの悲鳴が上がり、魔法の爆発音が幾重にも重なった。
戦闘だ。
達哉は迷った。ゲーム内なら当然のように戦闘に参加するところだ。経験値も、戦利品も、冒険の一部だ。しかし、今この状況で、この“現実”で、果たして戦うべきなのか?
その問いに対する答えは、すぐにやってきた。
広場の方向から、何かが猛スピードでこちらに向かってきた。それは壁を蹴り、屋根を飛び越え、まっすぐ達哉のいる路地へと突進してくる。
達哉は反射的に後ろへ飛び退がり、短剣を構えた。
次の瞬間、それが路地へと飛び込んできた。
達哉の息が止まった。
それは熊だった――いや、正確には熊の形をした何かだ。通常の熊よりはるかに大きく、肩の高さだけで二メートルはある。全身を覆う毛皮は夜のように漆黒で、ところどころが魔法の腐食によって禿げ上がり、その下からは生々しい赤い肉と、時折光る骨が見えている。
しかし、最も恐ろしかったのはその目だ。
狂気と苦痛に満ちた、知性のある目。エルフのような長い睫毛を持つ、奇妙に女性的な目が、熊の顔に不自然に埋め込まれていた。
「ウゥゥ…ウガァァ!」
その生物――いや、彼女は唸り声を上げた。その声は完全な獣のそれではなく、どこか人間の女性の悲鳴が混ざっているようだった。
達哉の脳内で、ゲームの知識が自動的に結びついた。
夜エルフのドルイド。自然と調和し、動物に変身する能力を持つ種族。だが、この個体は明らかに異常だった。変身が制御不能になり、狂気に蝕まれている。ゲーム内でいうところの“コラプスト・ドルイド”――堕落したドルイドだ。
熊のドルイドは、達哉を見つめると、後ろ足で立ち上がった。その巨体は路地の幅いっぱいまで届き、月光を遮って達哉の上に影を落とした。
「逃げろ…」
達哉は自分に言い聞かせた。これはゲームではない。死んでもリスポーンできる世界ではない。この怪物と戦えば、本当に死ぬかもしれない。
だが、体が動かない。
恐怖で足が凍りついたのか、それとも――ゲーマーとしての本能が、戦闘を拒否しなかったのか。
熊の掌が振り下ろされた。
達哉は間一髪で横へ飛び、石畳が砕ける轟音を耳にした。掌の風圧だけで、彼のマントが裂ける。
「クソ…!」
達哉は短剣を逆手に持ち替え、熊の脇腹へと駆け寄った。ゲーム内での戦闘パターンが頭に浮かぶ。ベアフォームのドルイドは物理防御が高いが、変身中の魔法防御は相対的に低い。ただし――
短剣が毛皮に突き刺さる。感触がおかしい。ゲーム内なら確実にダメージが通るレベルだ。しかし、現実では短剣が浅くしか刺さらず、熊はほとんど気にしていない。
「そうか…リアルだからダメージ計算が違う…」
熊の反撃は速かった。達哉が短剣を引き抜くより早く、もう一方の掌が横薙ぎにやってきた。
避けきれない。
達哉は咄嗟に短剣で受けようとしたが、それは無謀だった。熊の掌が短剣を弾き飛ばし、そのまま達哉の胸板を強打した。
「グハッ!」
肺から空気がすべて押し出される感覚。達哉は路地の壁に叩きつけられ、背中から壁面を伝って地面に滑り落ちた。HPバーが一気に三分の一まで減少した。
痛み。これまで経験したことのない痛みが全身を駆け巡る。肋骨が何本か折れたかもしれない。血の味が口に広がる。
熊はゆっくりと近づいてくる。狂った目が、達哉の苦痛を楽しんでいるように見えた。
「死にたくない…」
達哉の脳裏に、美優の顔が浮かんだ。泣きそうな顔で「お兄ちゃん、どこに行くの?」と聞く幼い妹。
「戻らなきゃ…美優が…待ってる…」
彼は必死に立ち上がろうとした。手が震え、足が挫えている。ゲーム内なら、この程度のダメージで動けなくなることはない。だが現実では、痛みが神経を麻痺させ、体が命令に従わない。
熊が勝利の咆哮を上げた。その口からは、腐った肉と血の臭いが噴き出した。
その時、達哉の視界の隅で、何かが光った。
【スキル覚醒:影歩き(シャドウステップ)】
【条件:絶望的状況での生存本能】
【説明:短距離を瞬間移動し、影から影へと移動する】
ゲーム内で彼が使い慣れたスキルだ。だが、今はそれが自動的に発動条件を満たしたらしい。
思考より先に体が動いた。
達哉は影へと溶け込んだ。
正確に言えば、彼の体が一瞬で霧のように消散し、三メートル離れた路地の影の中から再び現れたのだ。移動中の感覚は、体が一度分子レベルで分解され、再構築されるような、奇妙な痺れだった。
熊は一瞬戸惑い、獲物が消えたことに混乱している。
「今だ…」
達哉は背中の長弓を手に取った。彼のメイン武器だ。ゲーム内では、これを駆使して数々の敵を倒してきた。
弓を引き、魔力を矢に込める。ゲーム内なら自動で行われるプロセスを、今は意識的に再現しなければならない。
「集中しろ…達哉…お前はこのゲームでトッププレイヤーだったんだ…」
彼は深呼吸をし、折れた肋骨の痛みを無視して、弓を満月まで引き絞った。
魔力が集まる。大気中の微細なマナ粒子が、矢先に集結し、微かな青い光を放つ。
熊が振り返った。
達哉が矢を放った。
青い軌跡が夜の闇を切り裂き、熊の目へと一直線に向かった。
命中。
しかし――浅い。
熊は瞬間的に目を閉じ、瞼で矢を受け止めた。矢先は眼球まで達しておらず、ただ獣をさらに怒らせただけだった。
「ウォォオオオオオッ!」
狂乱の咆哮。熊の体がさらに膨張し、禿げた部分からは黒い瘴気が噴き出した。その狂気が、物理的な力となって周囲に圧力をかけ、路地の壁にひび割れを生じさせた。
逃げ場がない。
達哉は冷静に状況を分析した。ゲーム脳が、恐怖を一時的に押しのける。
ベアフォーム、狂乱状態。物理ダメージはほぼ無効。魔法攻撃が必要だが、自分のMPは限られている。しかも、この“現実”では、スキルの消費MPがどの程度かもわからない。
熊が突進してきた。
達哉は再び影歩きを発動しようとしたが――駄目だ。スキルがクールダウンしている。ゲーム内の制約が、この世界でも適用されているらしい。
代わりに、彼は路地のゴミ箱の陰へと飛び込んだ。熊の掌が間一髪で頭をかすめ、髪の毛の一部が剥ぎ取られる。
血が額を伝う。
「くそ…くそくそ…!」
達哉はもう一つの短剣を手に取り、熊の足元へと駆け寄った。巨大な体の下へ潜り込み、後ろ足の腱を狙う。
短剣が刺さる。今回は狙いが正確だった。刃が腱を切り裂き、熊がよろめく。
「ウガァ!」
熊は振り返ろうとするが、傷ついた足がもつれる。
達哉はその隙に距離を取る。もう一度弓を構える時間はない。代わりに、彼は腰のポーチから小瓶を取り出した。
閃光瓶。ゲーム内でよく使う、目くらましのアイテムだ。
現実でも機能するか?
賭けてみるしかない。
達哉は瓶を地面に叩きつけた。
一瞬、閃光が路地全体を白く染めた。熊が目を焼かれて咆哮する。その隙に、達哉は路地の角を曲がり、より広い広場へと逃げ込んだ。
広場は惨状だった。
エルフの守備兵の遺体が散乱している。鎧は引き裂かれ、槍は折れていた。血が石畳の模様を赤黒く染め、月光の下で不気味に光っている。
五人の兵士がまだ生きており、円陣を組んで熊と対峙していた。だが、彼らも傷だらけで、崩壊寸前だった。
「もう一人いる! 市民か?」
一人のエルフ兵が達哉に気づき、叫んだ。
「逃げろ! こいつは普通の魔物じゃない! ドルイドの堕落体だ!」
達哉は彼らのそばまで走り寄った。「戦力になる」
エルフ兵は達哉の装備を見て、一瞬目を見開いた。「影追跡者か? ならば、我々の攻撃に合わせてあいつの目を狙え」
プロフェッショナルな対応だ。ゲーム内のNPCのような硬さはなく、生き生きとした恐怖と決意が彼らの表情に表れている。
熊が広場へと現れた。片足を引きずりながらも、その狂気は衰えていない。むしろ、痛みがさらに凶暴性を増させているようだった。
「フォーメーション・カッパー!」エルフ兵のリーダーが叫ぶ。
兵士たちが素早く隊形を変え、熊を囲んだ。二人が前面で盾を構え、二人が後方で魔法を詠唱し、一人が達哉と並んで弓を構える。
「アンチマジック・フィールドを展開する! 我々の魔法が効かないからだ!」
達哉は頷く。ゲーム内の知識が生きている。堕落したドルイドはしばしば魔法抵抗を持つ。しかし――
「代わりに、物理的には弱体化している」達哉が言った。「変身が不完全なんだ。あの禿げた部分が弱点だ」
エルフ兵が達哉を見て、驚きと敬意を込めて頷いた。「鋭い観察眼だ。では、我々が前面で注意を引きつける。お前とカランが遠距離から弱点を狙え」
カラン――おそらく隣の弓兵の名前だろう。
熊が突進してきた。
エルフ兵たちの戦闘は見事だった。盾を持つ二人が交互に熊の攻撃を受け流し、魔法兵が支援魔法をかける。傷ついていても、彼らの動きには千年の戦士種族としての洗練さがあった。
「今だ!」
達哉とカランが同時に矢を放った。
二本の矢が熊の脇腹の禿げた部分へと突き刺さる。
効果は絶大だった。
熊の咆哮が苦痛に満ちたものに変わる。黒い血が傷口から噴き出し、地面を腐食する。その血が触れた石畳がシューと音を立てて溶けた。
「毒血だ! 触れるな!」
達哉は警告するが、遅かった。
一人の盾兵が飛び散った血を浴び、鎧が煙を上げ始めた。彼は悲鳴を上げ、鎧を脱ごうとするが、その隙に熊の掌が彼を捕らえた。
次の瞬間、広場に血の雨が降った。
エルフ兵の体が真っ二つに引き裂かれたのである。
内臓が床に散乱し、切断された腕がまだ指を動かしている。脊柱がむき出しになり、肋骨のカージが不気味な角度で突き出ていた。血は五メートル四方に飛び散り、達哉の顔にも温かい液体がかかった。
「ガルディオ!」
仲間の叫び声。
だが、それ以上に達哉を震撼させたのは、その死のリアリティだった。
ゲーム内なら、敵や味方が倒される時は、エフェクトと共に消えていくか、きれいに倒れる。血も控えめだ。しかし、これは違う。生々しい内臓の臭い、まだ温かい血液の感触、切断面から零れる消化液の甘ったるい匂い――すべてが、これが“現実”であることを告げていた。
達哉の胃が逆流する。彼はうつむいて嘔吐した。胃の中身がすべて出ても、体は震えが止まらなかった。
「新兵か!?」カランが叫んだ。「戦場で臆するな!」
だが、達哉は臆しているのではない。あまりに突然の“現実”に、体が拒絶反応を示しているのだ。
熊は次の犠牲者を求めた。血に染まった掌を、今度は魔法兵へと向ける。
達哉は顔を上げた。
彼の目に映るのは、もはやゲームのモンスターではない。苦痛に狂い、殺戮に溺れる、かつては人間(エルフ)だった何かだ。その狂気の深淵に、ある種の悲哀さえ感じた。
「すまない…」
達哉は呟いた。誰に向けてかもわからない。殺されたエルフ兵に? 堕落したドルイドに? それとも、この世界に引きずり込まれた自分自身に?
彼はもう一度弓を構えた。手の震えが止まらない。視界がかすむ。しかし、彼は引き絞った。
今回、達哉は魔力を矢に込めようとしなかった。代わりに、彼はあることを試した。
ゲーム内で彼が一番得意としていた、特殊スキル『心臓狙い(ハートショット)』。超高ダメージを誇るが、詠唱時間が長く、動いている敵には当たりにくい。
今、熊は魔法兵に集中している。動きは鈍い。チャンスだ。
達哉は深呼吸をし、目を閉じた。
ゲーム内での感覚を思い出す。呼吸を整え、心拍を落とし、周囲の雑音を遮断する。敵の動きを予測し、弱点を見極める。そして――
目を見開いた。
世界がスローモーションになる。熊の動きがコマ送りのように見える。血の滴りが空中で輝き、叫び声が低く伸びる。
達哉の矢が放たれた。
それはただの物理的な矢ではない。彼のすべての集中力、すべての決意、この世界に対する恐怖と困惑、現実世界への未練――すべてを乗せた一矢だった。
矢は熊の背中へと突き刺さる。浅い傷のように見えた。
しかし、一秒後。
熊の体の内部で、鈍い破裂音が響いた。
外側からは何も見えない。だが、熊の動きがぴたりと止まる。狂気に満ちた目が、一瞬だけ驚きと――ある種の安堵に変わる。
その目が達哉を見た。
その瞬間、達哉は理解した。彼女はまだそこにいる。獣の深部に、囚われた意識が。
熊の巨体が崩れ落ちる。地面を揺るがす轟音。塵が舞い上がる。
そして、静寂が訪れた。
エルフ兵たちは警戒しながら近づいた。一人が槍で熊の体を突く。動かない。
「倒した…?」
カランが達哉を見た。その目には驚愕があった。「あの一撃は…何だ? 普通の矢ではない。内部から衝撃波を発生させたのか?」
達哉は答えられなかった。彼自身、何が起きたか理解していない。ゲーム内のスキルが、この世界でどのように発現するのか、まだわからないのだ。
その時、熊の体が変わり始めた。
巨大な体が縮み、毛皮が剥がれ落ちる。骨格が再構成され、獣の形からエルフの形へと戻っていく。
数秒後、広場に横たわっていたのは、漆黒の熊ではなく、一人の女性夜エルフだった。
彼女は全裸で、肌は月のように青白い。長い銀髪が血に染まり、繊細な顔には苦痛の皺が刻まれていた。年齢はエルフとしては若く見える――人間換算で二十代前半だろう。体には無数の傷があり、最も深いのは心臓の上の小さな穴だ。達哉の矢が突き刺さっていた場所だ。
彼女の目がゆっくりと開いた。狂気は消え、代わりに深い悲しみが浮かんでいる。
「…終わった」
彼女の声はかすかで、風のささやきのようだった。
エルフ兵たちが武器を構えながら近づいた。
「堕落者よ、お前の罪は――」
「待て」達哉が言った。彼自身もなぜそう言ったかわからなかった。
彼はゆっくりと女性エルフに近づき、彼女のそばに膝をついた。
女性の目が達哉を見た。その瞳は、深い森の湖のように、緑と金が混ざり合っていた。
「あなた…変わり者ね」彼女はかすかに笑った。血が口元から溢れる。「普通は…もっと警戒するのに」
「なぜ…こんなことに?」
女性は目を閉じた。「シルバームーン森林の魔法は…堕落している。私たちドルイドは…自然との調和を失った。森が叫んでいる…苦痛で…」
彼女の話は途切れ途切れだった。命が急速に失われている。
「誰が…? なぜ?」
「“彼ら”が…歴史を書き換えている…私たちのアイデンティティを…奪おうとしている…」
彼女の手が震えながら達哉の手を探した。達哉はそれをつかんだ。冷たかった。
「警告を…伝えて…“月の涙”は…偽物だ…真実は…“太陽の影”に…」
彼女の声が次第にかすれていく。
「名前は?」達哉が聞いた。
一瞬、彼女の目に驚きが走る。そして、最後の笑みを浮かべた。
「エラリエル…エラリエル・サンライト…」
その名を告げると、彼女の体が光の粒子へと分解され始めた。ゲーム内でキャラクターが死んだ時のエフェクトに似ているが、もっとゆっくりで、哀愁を帯びていた。
粒子は月光に照らされ、やがて完全に消えた。
残されたのは、地面に落ちた一本の矢だけだった。
広場は沈黙に包まれた。
カランが近づき、達哉の肩に手を置いた。「よくやった、戦士よ。しかし、なぜ彼女に近づいた? 堕落者は危険だ」
達哉は立ち上がった。足元がふらつく。「彼女は…まだ人間だった」
「かつてはな」別のエルフ兵が言った。「だが、堕落したら、もう戻れない。我々エルフの呪いだ。長すぎる命は、時として狂気を生む」
達哉は彼らを見回した。彼らの顔には、悲痛な諦めがあった。これは日常的な悲劇なのだろうか?
「お前は市民か? どこの家系の者だ?」リーダー格のエルフ兵が尋ねた。
達哉は考えた。ゲーム内のキャラクター設定をそのまま使うべきか? 彼は高等エルフとして転生したが、完全なエルフではないようだ。ステータスに“疑似”とある。おそらく、転生者のため、純血ではないのだろう。
「私は…旅人です。遠くから来ました」
兵士たちは互いを見つめた。疑わしそうな目だった。
「ならば、長老たちに会うべきだ。お前の戦いぶりと、あの堕落者の最後の言葉は…重要な意味を持つかもしれない」
達哉はためらった。この世界の政治や陰謀に巻き込まれるのは危険だ。しかし、他に選択肢があるだろうか? この街で生きていくには、身分が必要だ。
「わかりました」
カランがうなずき、達哉を案内し始めた。「ついて来い。シルバームーン森林の中心へ。『曦光の廷(サンライトコート)』へ」
彼らが広場を離れる時、達哉は振り返った。血に染まった石畳、散乱した遺体、そしてエラリエルが消えた場所。月光がすべてを青白く照らし、その光景はある種の不気味な美しさを持っていた。
この世界は美しかった。あまりに美しすぎる。
そして、その美しさの下に、腐敗と狂気が潜んでいる。
彼は自分の手を見た。まだ血がついている。エルフ兵の血か、エラリエルの血か、それとも熊の血か。すべてが混ざり合い、黒く乾いていた。
「美優…」
彼は小声で妹の名を呼んだ。
「ごめん…お兄さん、またゲームに夢中になって…」
彼は前方を見据え、歩き出した。
曦光の廷は、街の中心にそびえる最も高い塔だった。螺旋状の階段を上がりながら、達哉は窓から外の景色を見下ろした。
銀月の森は広大で、魔法の光が木々の間で脈動している。遠くには、崩壊した古代の塔がいくつか見えた。ゲーム内では単なるダンジョンだった場所が、今は歴史を物語る遺跡としてそこにあった。
「ここは…私が知っている世界ではない」
達哉はそう悟った。似ているが、異なる。ゲームの設定を下敷きにしているが、より深く、より複雑で、より血生臭い世界だ。
階段の頂上に、巨大なドアがあった。金と銀で飾られ、エルフの古代文字が刻まれている。
カランがドアをノックした。
「入るがよい」
中から声がした。それは古びてはいるが、威厳に満ちた声だった。
ドアが開くと、広い円形の間が現れた。部屋の中央には、月の光を受ける大きな水晶があり、その周りに七人のエルフ長老が座っていた。
彼らは皆、数千年を生きてきたような顔をしていた。深い知恵と、それと同じだけの疲労が刻まれている。
「報告せよ、カラン」中央の長老が言った。彼は他の者よりさらに古く、髪は完全に白く、目は星のように輝いていた。
カランは戦闘の経緯を報告した。達哉の活躍、エラリエルの最後の言葉――すべてを詳細に伝えた。
長老たちは静かに聞いていた。エラリエルの言葉について、彼らの間に微妙な緊張が走った。
「“月の涙は偽物”…“真実は太陽の影に”…」
白髪の長老が繰り返した。彼の目が達哉に向けられる。
「旅人よ、お前はどこから来た?」
達哉は深呼吸をした。「別の世界からです」
それは真実だ。しかし、どの程度理解されるか。
長老たちは驚かなかった。むしろ、期待していたような反応だった。
「転生者か…久しぶりだ」
「転生者は珍しくないのですか?」
「かつては多かった」別の長老が言った。「この世界は、しばしば“外”から来る者を呼び寄せる。だが、最近は稀になった」
白髪の長老が立ち上がった。彼は水晶のそばまで歩み寄り、その表面に手をかざした。
「我が名はエルロンド・スターウィスパー。シルバームーン森林の大長老だ。お前の勇気と、堕落者から引き出した情報に感謝する」
「エラリエル・サンライトは誰でしたか?」達哉が尋ねた。
長老たちの顔が曇った。
「彼女は…かつて我々の希望だった」エルロンドが言った。「最も優れたドルイドの一人。自然との調和を深め、森の声を聞く者。しかし、三年前、彼女はあることを発見した」
「“月の涙”についてですか?」
エルロンドはうなずいた。「月の涙は、我々エルフの聖遺物だ。数千年前、月の女神が流した涙が結晶化したものと言われている。それはシルバームーン森林の魔法の源であり、我々のアイデンティティの象徴だ」
「しかし?」
「しかし、エラリエルはそれが偽物だと主張し始めた。真実の月の涙は失われており、現在あるものは“誰か”によって作られた贋作だと」
達哉は考えた。ゲーム内のクエストラインを思い出そうとしたが、一致するものがない。この世界は独自の歴史を持っているのだ。
「彼女は調査を始め、次第に…変わっていった」別の長老が続けた。「森にこもり、他のドルイドとも交流を絶った。そして、ついに一ヶ月前、完全に姿を消した。次に現れた時には…あの姿だった」
「“太陽の影”とは?」
長老たちは沈黙した。その沈黙は、質問そのものよりも重い答えだった。
「それは…我々の歴史の中で、語られてはならないものだ」エルロンドがようやく口を開いた。「数千年前、エルフは二つに分かれた。月を崇める我々シルバームーンと、太陽を崇めるサンライト一族だ。戦争が起こり、サンライトは滅びた――少なくとも、そう信じられてきた」
「しかし?」
「しかし、エラリエルの名前はサンライトだ。彼女はその末裔かもしれない。そしてもしそうなら、“太陽の影”とは、サンライト一族が隠した何かを意味する」
達哉は頭が痛くなってきた。これは単なるゲームのクエスト以上のものだ。歴史、政治、アイデンティティ、そして狂気が絡み合った複雑な糸玉のようだった。
「なぜ私に教えてくれるのですか? 私はただの旅人です」
エルロンドは達哉をじっと見つめた。「お前は転生者だ。外からの視点を持っている。そして、お前はエラリエルが死ぬ間際に信頼を置いた。我々にはもう見えないものが、お前には見えるかもしれない」
「何をしてほしいのですか?」
「調査してほしい。エラリエルが何を発見したか。月の涙の真実は何か。そして、太陽の影に隠されたものは何か」
達哉はためらった。これは明らかに危険な依頼だ。しかも、彼にはこの世界で生きる術も、戻る方法もわからない。
「断っても?」
「構わない」エルロンドはうなずいた。「しかし、お前はもうこの世界の一部だ。転生者は、この世界の運命から逃れられない」
その言葉は、達哉の胸に重く響いた。彼は現実世界に戻りたい。美優のもとに帰りたい。しかし、その方法はわからない。それならば、せめてこの世界で生き延びる術を身につける必要がある。
「報酬は?」
長老たちの何人かが眉をひそめた。転生者の現実的な要求に不快感を抱いたようだ。
だがエルロンドは笑った。「現実的だな。よかろう。まずはシルバームーン森林での市民権を与えよう。住居、生活費、そして訓練だ。お前は戦士としての素質があるが、この世界の戦い方はまだ学ぶ必要がある」
「それから?」
「真実を発見したら、その価値に応じた報酬を約束しよう。金、魔法の品、知識――何でもだ」
達哉は考えた。彼には選択肢がない。少なくとも、ここで基盤を作るべきだ。
「わかりました。引き受けます」
エルロンドは満足そうにうなずき、手を振った。水晶が輝き、小さな光の粒が飛び出し、達哉の手のひらに落ちた。それは金属製の徽章になった。
「これはシルバームーン森林の通行証だ。また、我々との契約の証でもある。これを持っていれば、街のほとんどの場所に出入りできる」
達哉は徽章を握りしめた。温かかった。
「カラン、彼を下層街の宿屋に案内しろ。明日から訓練を始めるがよい」
カランは敬礼し、達哉に合図した。
二人が部屋を出ようとした時、エルロンドが最後に言った。
「転生者よ、警告しておく。この世界はゲームではない。死は本当の死だ。痛みは本当の痛みだ。そして、歴史はしばしば、生きている者よりも重い」
達哉は振り返り、長老を見つめた。
「私はわかっています。もう…痛みも、死も見ましたから」
彼らが階段を下り始めると、達哉は窓から再び外を見た。月は相変わらず美しく輝いていた。しかし、その光の下で、何かが腐っている。エルフの社会の深部で、歴史の闇の中で。
「美優…」彼はまた呟いた。「お兄さん、ちょっとした冒険に出るよ。でも、必ず帰る。だから…待っていて」
その言葉は、夜の風に消えていった。
カランが宿屋に着くと、それは石造りの三階建ての建物だった。『月明かりの亭』という看板がかかっている。
「ここがお前の部屋だ」カランは二階の一室の鍵を渡した。「明日の朝、訓練場で会おう。まずは基本からだ」
「ありがとう。助けてくれて」
カランは一瞬ためらい、そして言った。「エラリエルのこと、気にするな。彼女は…かつては良い戦士だった。狂気は彼女のせいではない。この森の、この世界のせいだ」
彼は去っていった。
達哉は部屋に入った。質素だが清潔な部屋だった。ベッド、机、椅子、そして小さな窓。窓からは、街の灯りが見えた。
彼はベッドに横たわった。疲労が一気に押し寄せてきた。今日の戦い、死、そしてこの世界への転生。すべてが重すぎる。
視界の隅に、インターフェースがまた現れた。
【クエスト更新:太陽の影の真実】
【目標:エラリエル・サンライトの調査を完了する】
【報酬:シルバームーン森林市民権、経験値、その他】
【警告:このクエストは高難易度です】
達哉はインターフェースを消そうとしたが、その下にまた別の表示があった。
【妹からの未読メッセージ:3件】
【最後の接続:3月8日 02:17】
【現実世界接続:完全切断】
彼は目を閉じた。メッセージを見たいが、見られない。このインターフェースは一方的なものらしい。現実世界との通信はできない。
「美優…何て言ってたんだろう…」
おそらく、「お兄ちゃん、晩ごはん作ったよ」とか、「もう寝たほうがいいよ」とか、そんな日常的な言葉だろう。彼女は、兄が突然意識を失い、もう二度と目を覚まさないかもしれないとは知らずに。
涙が頬を伝った。達哉は声を押し殺して泣いた。この美しく残酷な世界で、一人きりで。
しばらくして、彼は泣きやんだ。目を拭い、窓の外を見た。
月は相変わらず輝いていた。あの月は、現実世界の月と同じだろうか? それとも、この世界だけの月か?
彼はポケットから徽章を取り出した。月光に照らされ、それは微かに青く光った。
「よし…」
達哉は立ち上がり、装備を整えた。短剣を研ぎ、弓の弦をチェックし、矢筒の中を確認する。
「この世界で生き延びる。そして、戻る方法を見つける。そのためには、強くならなければ」
彼は窓辺に立ち、街を見下ろした。
シルバームーン森林は美しかった。しかし、その美しさは脆く、その輝きの下には闇が潜んでいる。エラリエルはその闇に飲まれた。達哉はそうはならない。
「ゲームの知識はある。戦闘スキルもある。あとは…この世界のルールを学ぶだけだ」
彼はベッドに戻り、横になった。明日から訓練が始まる。そして、調査も始まる。
目を閉じる直前、彼はまたインターフェースを見た。
【名前:宮村達哉(タツヤ・ミヤムラ)】
【種族:高等エルフ(疑似)】
【レベル:42】
【職業:影追跡者】
【状態:軽傷(肋骨骨折)、疲労】
【現実世界接続:完全切断】
「美優…ごめん。でも、お兄さん、頑張るからね」
彼は深い眠りに落ちていった。
外では、月が街全体を青白く照らし続けていた。その光は、エルフの優雅な尖塔を輝かせ、石畳の血痕を不気味に浮かび上がらせ、遠くの森では何かが蠢いていた。
シルバームーン森林の夜は長い。そして、その夜の闇には、歴史の亡霊たちがささやき合っている。
エラリエル・サンライトはただの始まりに過ぎない。
真実の影は、もっと深く、もっと暗い場所に横たわっている。
達哉の旅は、始まったばかりだった。
全世界最高のMMORPGに転生後、ギルドの妖精美少女を率いてゲーム世界を一気に統一する 宮沢 華凜 @MiyazawaKarin
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