AIと喧騒の少女作家
森崇寿乃
第1章 全能感と濡れたエンターキー
深夜二時。世界が寝静まり、常識という名の監視カメラがまどろむ時間帯。
私の部屋は、ブルーライトの冷ややかな光だけで満たされていた。
机の上に鎮座するのは、少しファンの音がうるさい中古のノートパソコン。排熱口から漏れ出る生暖かい風が、パジャマ越しの私の太ももを、じっとりと、まるで舐め上げるように撫で回している。
「……ああっ、熱い」
私は漏れ出る熱気に頬を紅潮させながら、艶かしく光るディスプレイを見つめた。
そして今夜から、「ベストセラー作家」になる予定の女だ。
画面の中央には、飾り気のないシンプルなテキストボックスが口を開けている。
それは無垢な処女地であり、同時に、あらゆる欲望を飲み込まんと待ち構える貪欲な子宮でもあった。生成AI。現代の錬金術。そして私の、忠実なる言葉の奴隷。
「さあ、見せてみなさいよ。アンタの実力を」
私はマウスを握りしめた。手汗でわずかに湿った掌が、滑らかなプラスチックの曲線を包み込む。人差し指の腹で、左クリックのボタンを優しく、しかし執拗に撫でた。クリトリスを弄るような繊細さで位置を定め、カチリ、と押し込む。その硬質なクリック音は、静寂な部屋に響く背徳の合図だった。
カーソルが点滅している。
チカ、チカ、チカ。
早く入れて。早く命令を注ぎ込んで。そう急かすようなリズムに、私の心臓の鼓動が同期していく。
私は震える指先をキーボードへと這わせた。
カチャリ、タン。
黒いキーの反発を指の腹で味わいながら、私は文字を打ち込む。
『プロンプト:世界一売れる、泣ける、エモい、青春ミステリー小説を書いて。あと、最後にどんでん返しを入れて、読者全員を絶望の淵に叩き落として』
欲望をそのまま言語化したような、下品極まりない命令文。
本来ならば構成やキャラクター設定を練るべきなのだろうが、そんな面倒な前戯は私には必要ない。私はただ、結果だけが欲しいのだ。楽をして、手っ取り早く、
エンターキー。
キーボードの中で最も大きく、最も虐げられやすいそのキーを、私は小指で弾くように叩いた。
ッターン!
打鍵音が快楽の絶頂のように弾ける。
画面中央で、ローディングの円環が回り始めた。
グルグル、グルグル。
焦らされている。
見えない向こう側で、膨大な演算処理が行われているのだ。数億、数十億のパラメータが、私の命令一つで絡み合い、火花を散らし、交尾を繰り返して「物語」を産み落とそうとしている。
その想像だけで、脳髄が痺れるような万能感が駆け巡った。
「ふふ、頑張ってる、頑張ってる……」
私は画面に顔を寄せ、荒い息を吐きかけた。ディスプレイの液晶が、私の吐息で白く曇る。
数秒、あるいは永遠とも思える十数秒の焦らしプレイの後、唐突にそれは溢れ出した。
文字だ。
文字の奔流が、テキストボックスの下から湧き上がり、画面を白く埋め尽くしていく。
速い。あまりにも速すぎる。
人間が一生懸命、頭を悩ませ、ペンを握りしめて一文字ずつ捻り出す苦行を嘲笑うかのような速度。それはまるで、我慢の限界を迎えた射精のように、止まることなく吐き出され続けた。
『ある晴れた日の午後、僕は君の遺影とキスをした――』
冒頭の一文を目にした瞬間、私はゾクリと背筋を震わせた。
悪くない。いや、むしろ、悔しいけれど「っぽい」。
誰が書いたものでもない。私の指先が生み出した(正確にはエンターキーを押しただけだが)、私だけの物語。
スクロールバーが勝手に下へ下へと滑り落ちていく。
私はそれを目で追うだけで精一杯だ。読むのではない。浴びているのだ。無機質なアルゴリズムが合成した、意味の羅列という名の体液を。
私の網膜に焼き付けられる、青春の痛み、謎解きのスリル、そしてラストの衝撃的な展開。
ものの三十秒で、原稿用紙五十枚分ほどのテキストが生成され、完了した。
プツン、とファンの回転数が落ちる。
賢者タイムに入ったかのような静寂が戻ってきた。
「……はあ、はあ」
私は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。
何もしていない。ただ命令しただけだ。なのに、この疲労感と達成感はどうだ。まるで一晩中、激しい情事に耽っていたかのような気だるさが四肢を支配している。
「天才……かもしれない」
私はうわ言のように呟いた。
もちろん、私が天才なのではない。このAIが優秀なだけだ。だが、そのAIを使いこなし、この「正解」を引き出したのは私だ。ならば、この作品の創造主は私ということになる。
私は身を起こし、生成されたテキストを全選択した。
Ctrl+A。全ての文字が青く反転する。それはまるで、彼らが私に服従の意を示しているようだった。
Ctrl+C。コピー。私のクリップボードという名の牢獄へ、彼らを幽閉する。
そして、メモ帳を開き、Ctrl+V。ペースト。
白紙のページに、黒い文字が叩きつけられ、保存される。
これで、この小説は私のものになった。
所有の快楽。
誰の許可もいらない。誰の目も気にしなくていい。この数万字の言葉の羅列は、今この瞬間から、麻亜子という名の処女作家の肉体の一部となったのだ。
「楽勝すぎる……」
口の端から、卑しい笑みがこぼれ落ちるのを止められなかった。
労働? 努力? 研鑽?
そんなものは、この電気信号の快楽を知らない旧人類の戯言だ。
私は知ってしまった。ボタン一つで世界を創造できる、この禁断の果実の味を。
だが、読み返してみると、何かが足りない。
文章は整っている。構成も完璧だ。しかし、どこか優等生すぎて、面白みに欠ける。無機質なのだ。まるで、ゴム手袋越しに握手をしているような、温度のなさ。
これでは、編集者の目は誤魔化せても、読者の股間……じゃなくて、心は濡らせない。
「もっと……もっと汚してあげなきゃ」
私は舌なめずりをした。
この綺麗なだけのAI小説に、私の手で、ねっとりとしたノイズを混ぜ込んでやる。
人間だけが持つ、無駄で、非効率で、とろけるような情動を。
私は再びキーボードに指を添えた。
今度は命令するためではない。
この無垢なテキストを、私色に染め上げ、犯すために。
改行の一つ一つに、喘ぎ声を埋め込むような背徳的な
……その時、画面の右隅に小さなポップアップが表示されていることに、私は気づいていなかった。
『利用規約(Terms of Service)が更新されました』
その警告は、あまりにも小さく、そして冷淡に、私の破滅を予言していたのだが、興奮に瞳孔を開いた今の私には、ただの邪魔なシミにしか見えなかったのだ。
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