第2話「残業終わりの遭遇」
一ノ瀬舞は、ヒールの踵を鳴らしながら夜の新宿を走っていた。
走るといっても、全力疾走ではない。何日も続いた残業と上司からの理不尽な叱責で、体力も気力も底をついている。それでも走らなければならなかったのは、背後から迫る「死」の気配を感じたからだ。
「なんで……こんなとこに……!」
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
勤務先のビルを出てすぐだった。地下鉄の入り口に向かう途中、突如として空間が歪み、警報サイレンが鳴り響いた。
ダンジョン・アウトブレイク。
ニュースでは見たことがあった。管理されていない自然発生型のダンジョンから、モンスターが溢れ出す災害。だが、まさか都心のど真ん中で、しかも自分の目の前で起こるなんて。
『グギャァァァッ!』
背後で汚い鳴き声がした。
振り返る余裕なんてない。でも、本能が告げている。もう、すぐ後ろにいる。
足がもつれた。
あ、と思った時には、舞の体は冷たいアスファルトの上に投げ出されていた。膝に激痛が走る。ストッキングが破れ、血が滲む。
「あ……」
顔を上げると、そこには絶望があった。
緑色の鱗に覆われた巨大なトカゲのような怪物が、黄色い瞳で舞を見下ろしている。口からは粘液が滴り落ち、その鋭い爪は今まさに振り下ろされようとしていた。
(ここで、死ぬんだ)
(明日の会議の資料、まだ途中だったな)
(冷蔵庫のプリン、食べたかったな)
走馬灯のように、どうでもいいことが頭をよぎる。
恐怖で声も出ない。舞はギュッと目を閉じた。
ドォォォォン!!
重い衝撃音が響き、顔に生暖かい風が吹き付けた。
いつまで経っても、痛みは来ない。
「……おい、大丈夫か?」
頭上から降ってきたのは、低く、落ち着いた男の声だった。
恐る恐る目を開ける。
そこには、信じられない光景があった。
ボロボロの黒いコートを羽織った男が、リザードマンの振り下ろした爪を、鞘に入ったままの剣一本で受け止めていたのだ。
しかも、片手で。まるで、落ちてきた小枝を受け止めるかのように軽く。
「あ……え……?」
「ったく、日本も物騒になったもんだな。こんな低級モンスターが野放しになってるなんて」
男は面倒くさそうにつぶやくと、手首を軽く返した。
ただそれだけの動作で、体重100キロはありそうなリザードマンの巨体が、紙切れのように吹き飛んだ。
『ギャッ!?』
リザードマンが壁に叩きつけられ、苦悶の声を上げる。だが、すぐに体勢を立て直し、怒り狂って男に飛びかかった。
「邪魔だ」
男は鞘から剣を抜くことすらしなかった。
踏み込みと同時に、鞘の先端でリザードマンの鳩尾(みぞおち)を正確に突く。
ドスッ、という鈍い音。
衝撃は内部に浸透し、リザードマンは白目を剥いてその場に崩れ落ちた。痙攣した後、黒い煙となって消滅し、あとには小さな紫色の石だけが残った。
一瞬の出来事だった。
周囲の喧騒が嘘のように静まり返る。
男は落ちていた石を拾い上げ、興味なさそうにポケットに放り込んだ。そして、へたり込んでいる舞の方へ向き直る。
「怪我は?」
街灯の逆光で、男の顔がよく見えない。でも、その瞳だけが、鋭く、それでいてどこか優しい光を宿しているのが分かった。
「あ、いいえ……たぶん、大丈夫です」
舞は震える声で答えた。
助かった。その実感が湧くと同時に、腰が抜けて立ち上がれない。
「そうか。ならいい」
男はそれだけ言うと、すぐに背を向けて立ち去ろうとした。
まるで、迷子の猫でも助けたかのような気軽さで。
「ま、待ってください!」
舞はとっさに声を上げた。
このまま彼を帰してはいけない気がした。命の恩人というだけではない。今の常識外れの強さ。そして、彼が纏う、この世界のものとは思えない異質な空気。
男が足を止める。
「なんだ? 礼ならいらんぞ。腹が減ってて機嫌が悪いだけだ」
「お腹……?」
ぐうぅぅぅ、と男の腹が盛大な音を立てた。
シリアスな空気が一瞬で霧散する。男はバツが悪そうに頭をかいた。
「……そういうことだ。金もねえし、今から残飯漁りでもしようかと思ってたところだ」
「ざ、残飯なんてダメです!」
舞はフラつく足で立ち上がり、財布を取り出した。
「助けていただいたお礼をさせてください。何か、ご馳走します。あ、でも今はあまり持ち合わせがなくて、ファミレスくらいしか……」
男の目が輝いた。
「ファミレス……! あの、無限に水が飲めて、煌びやかな絵がついたメニューがある、あの宮殿か!?」
「きゅうでん……?」
舞は首を傾げたが、男の真剣な表情に思わず吹き出しそうになった。
リザードマンを一撃で倒した強者が、ファミレス一つでこんなに喜ぶなんて。
「はい、その宮殿です。行きましょう」
「ああ、恩に着る! 俺はレオン。……今は獅子堂玲音と名乗っておくか」
「私は一ノ瀬舞です。レオンさん、ですね」
こうして、元勇者と疲れたOLの、奇妙な夜食会が始まった。
それが、日本の、いや世界のエネルギー産業をひっくり返す「伝説の会社」の始まりだとは、この時の二人はまだ知る由もなかった。
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