外伝短編|音だけが、生きる理由だった

安剛

外伝短編|音だけが、生きる理由だった

 目が見えない。

 それは、私にとって特別な出来事じゃない。


 光が消えた日を、私は今でも音で覚えている。

 病室のカーテンが擦れる音。点滴の液が落ちる間隔。靴底が床を叩く乾いたリズム。

 誰かの声が「大丈夫」と言った。優しい温度のはずなのに、言葉の端がわずかに揺れていた。


 その揺れを聞いた瞬間、私は理解した。

 世界は暗くなるんじゃない。

 暗くなるのは、外じゃない。

 自分の中の、何かだ。


 それでも私は生きてきた。

 見えないなら、聞けばいい。

 聞けば、分かる。

 息の速さ。語尾の逃げ方。沈黙の置き方。

 人の感情は、目より先に、声に出る。


 だから私は、コールセンターにいる。



 朝のフロアは、音で満ちている。

 椅子が滑る音。紙コップが触れ合う小さな鈍い音。ヘッドセットのプラスチックが指先に伝える軽さ。


 キーボードの打鍵は、雨みたいに降る。

 速い人は迷いが少ない。

 遅い人は、途中で間が伸びる。


 私はそれを聞くだけで、誰の心が今どこにあるか分かる。


「先輩、おはようございます」


 隣の席。新人のミナが、声を少し高くして言う。

 高い声は元気に見える。けれど、揺れは隠せない。喉の奥が固い。呼吸が浅い。


「おはよう。今日も入電、多そうだね」


「……怖いです。昨日、怒鳴られて」


 怒鳴られることは、珍しくない。

 怒りは、ある種の助けの信号だ。

 困っている。焦っている。どうしていいか分からない。

 その全部が、声に詰まって出てくる。


「大丈夫。怒ってる人ほど、理由がある」


「理由……」


「うん。理由が分かれば、出口も分かる」


 私はそう言って、ミナの机の端にあるメモの角を指先で整える。

 紙の端は、少しだけ湿っていた。指の汗。緊張の証拠。


「先輩って、怒鳴られても平気なんですか」


「平気っていうより……嬉しい時もある」


「え……?」


「怒りは感情でしょ。感情がある限り、人は人だよ」


 ミナが息を吸う音がした。少しだけ深くなった。

 その変化を聞いて、私の背中の奥が静かに温まる。

 この瞬間のために、私はここにいる。



 最初の入電。

 コール音が鳴る。私はボタンを押す。ヘッドセットの向こうに、男性の息が乗る。


「お電話ありがとうございます。ご用件をお伺いします」


「……あ、えっと、注文が届かなくて」


 声が揺れている。怒りじゃない。不安だ。

 息が短い。言葉が途中で切れる。頭の中が混線している時の音。


「ご不安ですよね。状況を確認します。注文番号を伺ってもいいですか」


「はい……すみません、私、こういうの苦手で……」


 謝る人は、怒っているんじゃない。

 怒りの矛先が、自分に向いているだけだ。


「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」


 私は相手の呼吸に合わせて話す。相手の言葉が、少しずつ整っていく。

 番号。住所。配達状況。原因。

 最後に、相手が小さく笑った。


「助かりました。ありがとうございました」


 声の温度が、さっきより柔らかい。

 受話器を置いたあと、胸の奥に、ちゃんと何かが残る。

 それが仕事の手応えだった。


 私は、この仕事が好きだった。

 見えない代わりに、私は人の心に触れられる。


 怒りも、焦りも、嘘も、全部、音として触れられる。

 だから私は、怒鳴られることすら嫌いじゃなかった。



 違和感が混じり始めたのは、いつからだろう。


 コール音。

 ボタン。

 接続。


「要点だけでいいです」


 女性の声。まっすぐで、平ら。

 怒っているわけじゃない。焦っているわけでもない。

 ただ、感情の輪郭が見えない。いや、聞こえない。


「状況を確認させてください。ご契約内容によってご案内が変わります」


「確認は不要です。条件を満たしていないなら不可。満たしているなら可。それだけ教えてください」


 言葉は正しい。

 無駄がない。

 論理は通る。


 通るのに、私の指先がほんの少し固くなる。

 ヘッドセットのスポンジを押す圧が、わずかに強くなる。


「……規約上は不可です」


「了解。ありがとうございました」


 終わり。

 短い。あまりにも短い。


 受話器を置いたあと、胸の奥に何も残らない。

 まるで、空気だけが通り過ぎたみたいに。


 私は自分の呼吸が浅くなっていることに気づく。

 理由は分からない。

 ただ、音が薄い。



 昼休み。

 休憩室の自販機が鳴る音。缶が落ちる鈍い音。開封の乾いた音。

 ベテランのユウキが、椅子に深く沈む気配がした。


「最近、変わったよね」


 ユウキの声は低い。いつもは安定している。

 でも今日は、語尾のところが少しだけ擦れていた。疲れだ。


「怒鳴る人、減りました」


「代わりに、感情が減った」


 その言い方が、妙に正確だった。


「電話も減ったしね。チャットが増えて、AIが増えて」


「……それでも、電話の人は残ると思ってました」


「残るよ。残るけど、残り方が違う」


 ユウキは笑う。でも笑いが軽い。

 音が上滑りする。


「理屈が通じる人が増えた。理屈が通じるから、すぐ切る。余白がない」


「余白……」


「余白がなくなると、私たちの仕事もなくなる」


 私は返事ができなかった。

 できないんじゃない。

 言葉が、胸の中で形にならない。



 休憩室の外で、誰かが荷物をまとめる音がした。

 段ボール。テープ。引き出しの中身。

 誰かが辞める音だ。

 最近は、その音をよく聞く。


「また辞めるんですか」


「うん。今月で3人目」


 3人目。

 数字で言われると、現実になる。


「理由、聞きました?」


「聞かない。聞いても、みんな同じこと言うから」


「向いてない、とか」


「別の仕事、とか」


 でも、本当の理由は声に出ない。

 声に出ないまま、音だけ残る。

 引き出しが閉まる音。机が空になる気配。

 その空白は、フロアに残る。



 午後。


 ヘッドセットをつける。

 コール音が鳴るまでの時間が、少し長い。


 以前は、呼吸する間もなく鳴っていた。

 今は、音が途切れる時間がある。


 空調の一定の風。キーボードの雨が、ところどころ止む。

 止むと、フロアが広く感じる。

 人が減ったからだ。


 コール音。

 ボタン。


「規約は読みました。この条件なら対応不可ですよね」


 若い男性の声。丁寧で、理性的で、完璧。

 息が整いすぎている。言葉の間が均一。


 感情があるのに、表に出していない、ではない。

 最初から、表に出す前提がない。


「はい。規約上は、その通りです」


「了解です。ありがとうございました」


 通話は30秒もなかった。

 完璧で、無駄がなくて、正しい。


 正しいのに、私は自分の喉が少しだけ鳴るのを感じた。

 飲み込む音。小さな摩擦。

 その摩擦が、どこにも行けないまま胸に落ちる。



 そして、その日が来た。


 管理画面のタイマーが告げる。


 「待機 10:00」


 鳴らない10分間。


 最初は、ただの空き時間だと思った。

 でも、音が違う。

 この10分間は、仕事の間じゃない。

 世界の穴だ。


 誰も話さない。

 キーボードも止まる。

 空調の音だけが、正確に流れ続ける。

 正確すぎる音は、逆に不安を増やす。


 ミナが小さく椅子を揺らす。

 揺らすリズムが一定じゃない。落ち着かない時の足。


「先輩……電話、鳴らないですね」


「そうだね」


 私は、声の温度を保って返す。

 保てているかは分からない。

 自分の声は、自分には少し遠い。


 ミナが笑う。

 でも、笑いが浮いている。


「楽でいいって思っちゃいました」


「……うん。そう思うのも自然だよ」


 自然。

 その言葉を口にした瞬間、私の指先が机の縁をなぞる。


 木目のざらつき。小さな欠け。

 触れることで、私は自分が今ここにいることを確かめる。


 鳴らない10分間。

 この静けさは、便利だ。

 効率的だ。

 誰も怒らない。

 誰も泣かない。

 誰も余計な話をしない。


 それでいい。

 そう言える人が増えるのは、分かる。


 でも私は、この静けさが怖い。


 なぜなら私は知っている。

 静けさは、人を削る。

 ゆっくり、気づかれない速度で。


 タイマーが進む。

 残り 07:12。

 私は無意識に息を数える。


 吸う。吐く。

 吸う。吐く。


 呼吸は続いている。

 視界はない。

 でも、音はある。


 なのに。

 私の中の「今」だけが、少しずつ薄くなる。


 残り 04:38。


 私は耳を澄ます。

 誰かの咳。紙が擦れる音。遠くのプリンター。

 フロアは生きている。

 それなのに、感情の音がない。


 残り 02:05。


 私は思い出す。

 光が消えた日のことを。


 世界は静かになった。

 でもそれは外じゃなかった。

 静かだったのは、私の中だった。


 あの日、私は失った。

 その代わり、私は手に入れた。


 声で世界を触る方法を。

 声で、人の心に触れる方法を。


 だから、この仕事は天職だった。


 なのに今、声が平らになる。

 要点だけが残る。

 会話は用件として切り分けられていく。


 その変化は、正しい。

 社会にとっては便利だ。


 誰も傷つかない。

 誰も怒鳴らない。


 それでいい。

 そう言える人が増えるのも、分かる。


 でも私は、分かってしまう。


 怒りが減ったんじゃない。

 怒りの出し方が、消された。


 不安がなくなったんじゃない。

 不安を言葉にする前に、切られた。


 そして何より。

 私の中の、反応が減っている。


 残り 00:19。


 私は気づく。

 今の私は、怖いと思えている。

 まだ、怖い。


 それは救いだ。

 怖いという感情が残っているうちは、私はまだ人だ。


 タイマーが 00:00 になる。


 同時に、コール音が鳴る。


 私はボタンを押す。

 息を整える。

 声の温度を、ほんの少し上げる。


「お電話ありがとうございます」


 向こうの声は、平らだった。


「要点だけでいいです」


 私は一瞬、喉が鳴る。

 でも、飲み込む。

 逃げないために。


「はい。承知しました」


 私は仕事をする。

 正しい案内をする。

 完璧に終える。


 通話は短い。

 受話器を置く。


 そのあと、私は気づく。

 何も感じなかったことに。


 ——ああ。


 この感覚も、

 あの日と、よく似ている。


 光を失った日の、静けさに。


 鳴らない10分間が終わっても、

 私の中の静けさは、まだ続いている。


 私は机の縁を、指先でなぞる。

 ざらつきが、そこにある。

 欠けが、そこにある。


 それだけが、今の私にとっての世界だった。

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