第2章「剣と魔法と……暑すぎる城」



集落に辿り着くまでに、透は三つのことを学んだ。


一つ目。この世界の言語は、なぜか日本語として認識できる。道端で出会った農夫に話しかけたところ、普通に会話が成立した。相手の口の動きと聞こえる音声には微妙なズレがあるので、おそらく何らかの「翻訳機能」が働いているのだろう。


二つ目。ここは「グランヴェルト王国」という国の辺境、「エルスト領」という土地である。領主はエルスト子爵。農業と牧畜が主産業の、平和な田舎らしい。


三つ目。魔法は存在する。


「旅の方ですかい?」


農夫は透の身なりを見て首を傾げた。無理もない。透が身につけているのは、現場で着ていた作業着——いや、違う。いつの間にか、簡素な麻のシャツとズボンに変わっている。転生の際に「現地化」されたのだろうか。


「ああ、まあ、そんなところだ」


「見かけない顔ですな。どちらから?」


「遠くから。……この辺りに、宿屋はあるか?」


「宿屋は村にはありませんが、領主様のお館に旅人を泊める部屋があります。お館の管理人に頼めば、一晩くらいは泊めてもらえますよ」


透は礼を言い、農夫が指差した方角へ歩き始めた。


領主の館。


この世界の支配構造を知る手がかりになるかもしれない。




エルスト子爵の館は、「館」というより「城」に近かった。


石造りの二階建て。正面に大きな門があり、周囲を低い城壁が囲んでいる。田舎の領主にしては立派な構えだ。もっとも、透の基準は現代日本のビルなので、「大きい」と感じているだけかもしれないが。


門番に事情を説明すると、意外にもすんなり中に通された。この辺りは治安が良く、旅人を警戒する必要がないらしい。


「旅の方ですか。珍しいですな、この辺りは街道から外れていますから」


管理人は白髪の初老の男だった。名前はホルスト。穏やかな物腰だが、目には知性の光が宿っている。


「訳あって、一晩泊めてもらえると助かる。対価は——」


透は自分の所持品を確認した。ポケットには何も入っていない。現金も、カードも、スマートフォンも。転生の際に、すべて消えてしまったようだ。


「労働で払う。何か仕事はあるか?」


ホルストは少し驚いたような顔をした。


「労働、ですか。そうですな……」


彼は少し考え込んでから、困ったような笑みを浮かべた。


「実は、ちょうど困っていることがありましてな。旅の方にお願いするような内容ではないのですが……」


「聞かせてくれ」


「館の奥、子爵様のお部屋の空調が、どうにも調子が悪いのです」


透は耳を疑った。


「空調?」


「ええ。ご存知ですか? 魔道具の一種で、部屋を涼しくする装置なのですが……」


この世界に、空調がある。


透の心臓が、大きく跳ねた。


「見せてもらえるか?」


「は、はあ。よろしければ……」




ホルストに案内されて、館の奥へと進んだ。


石造りの廊下は、外気よりも涼しい。蓄熱性の高い石材が、日射の熱を遮断しているのだろう。だが、それでも「快適」とは言い難い温度だ。透の感覚で言えば、三十度前後。作業着なしでは汗が止まらないレベル。


「こちらが、子爵様の執務室です」


ホルストが重い木の扉を開けた。


中に足を踏み入れた瞬間、透は眉をひそめた。


暑い。


廊下よりも明らかに暑い。三十五度は超えているだろう。この部屋だけ、異常に気温が高い。


「こちらが問題の魔道具です」


ホルストが指差したのは、部屋の隅に置かれた木製の箱だった。高さは一メートルほど。上部に金属製のルーバー(風向板)のようなものがついている。


透は箱に近づき、観察を始めた。


まず、ルーバーの前に手をかざす。風が出ている。微弱だが、確かに空気の流れがある。


温度は——冷たくない。むしろ生ぬるい。


透は箱の側面に回り込んだ。何かが唸るような音が聞こえる。コンプレッサーの駆動音に似ているが、もっと不規則だ。


「開けていいか?」


「え、ええ。どうぞ」


透は箱の背面パネルを外した。


中には、淡い青色に光る結晶が収められていた。


拳ほどの大きさの、半透明の石。その表面に、複雑な模様——魔法陣のようなものが刻まれている。結晶の周囲には金属製のコイルが巻かれており、そこから銅線が伸びて、何らかの回路を形成している。


「これは……」


透は結晶に触れようとして、手を止めた。


冷たくない。


本来なら冷気を発しているはずの結晶が、ほとんど常温になっている。


「この石は何だ?」


「氷魔石(ひょうません)と呼ばれるものです。魔力を込めると冷気を発する鉱物で、この魔道具の心臓部ですな」


氷魔石。


透の脳内で、いくつかの仮説が組み上がっていく。


この魔道具は、おそらくエアコンの簡易版のようなものだ。氷魔石が冷媒の役割を果たし、冷気を発生させる。金属コイルは熱交換器、銅線は電気回路——いや、この世界では「魔力回路」か——として機能しているのだろう。


だが、システムが正常に動作していない。


氷魔石が冷えていないということは、魔力が正しく供給されていないか、あるいは熱交換が機能していないかのどちらかだ。


透は箱の内部を詳しく観察した。


「……あった」


金属コイルの一部に、黒い煤のようなものが付着している。


これは——


「酸化被膜だ」


透は呟いた。


銅線が酸化して、抵抗値が上がっている。そのせいで魔力の流れが阻害され、氷魔石に十分なエネルギーが届いていないのだ。


「直せるか?」


透は自問した。


酸化被膜を除去すれば、導通が回復するはずだ。だが、この世界にサンドペーパーや化学洗浄剤があるとは思えない。


「ホルストさん」


「は、はい」


「この近くに、鍛冶屋はあるか? それと、細かい粒子の砂か灰が欲しい」


「鍛冶屋は村に一軒。砂や灰なら、厨房にいくらでもありますが……」


「案内してくれ。この魔道具、直せるかもしれない」


ホルストの目が見開かれた。




三時間後。


透は汗だくになりながら、修理を完了させた。


鍛冶屋から借りた極細のヤスリで酸化被膜を削り取り、厨房から持ってきた木灰で表面を磨いた。木灰にはアルカリ成分が含まれており、研磨と同時に軽い洗浄効果も期待できる。前世の知識が、意外な形で役に立った。


「さて」


透は氷魔石の前に立った。


問題は、魔力の供給だ。この魔道具を動かすには、誰かが魔力を込める必要がある。透自身に魔力があるのかどうか——


ステータス画面を呼び出す。


MP:45/45


魔力は、ある。


「やってみるか」


透は氷魔石に手を置き、意識を集中した。


MPを消費するイメージ。エネルギーを、この石に流し込むイメージ。


数秒後。


氷魔石が、淡い光を帯びた。


同時に、透の手に冷気が伝わってきた。


「動いた……!」


ルーバーから、冷たい風が吹き出し始める。透の顔に当たるその風は、紛れもなく「冷房」の風だった。


「おお……! おお……!」


ホルストが感嘆の声を上げる。


「動いた! 動きましたぞ! 旅の方、あなたは一体——」


その時、部屋の扉が開いた。


「何事だ、この騒ぎは」


入ってきたのは、四十代半ばと思われる男だった。立派な服装と威厳のある物腰から、この館の主人——エルスト子爵であることは明らかだ。


「子爵様! この旅の方が、魔道具を直してくださったのです!」


子爵は透を見つめた。その目には、驚きと好奇心が混じっている。


「君は、魔道具師なのか?」


「いいえ」


透は首を振った。


「俺は——」


何と名乗るべきか。この世界に「空調設備工事」という職業があるとは思えない。


「……設備屋、です。建物の中を快適にするための設備を、設計して、施工する仕事をしていました」


「設備屋……」


子爵は顎に手を当てた。


「聞いたことのない職業だな。だが、君がこの魔道具を直したのは事実か」


「はい」


「ならば、礼をしなければならん。一晩の宿だけでは足りんな」


子爵は透の目を真っ直ぐに見た。


「君に頼みがある。この館の空調を、完全に直してくれないか? いや、それだけではない——もっと涼しくする方法があるなら、教えてほしい」


透は、子爵の言葉の意味を理解した。


この館は、夏の暑さに苦しんでいる。


そして、透には、それを解決する知識がある。


「……条件がある」


透は言った。


「作業に必要な道具と材料。それと、この世界の——魔法や魔道具についての知識を教えてくれる人。その二つを用意してくれるなら、引き受ける」


子爵は微笑んだ。


「交渉が上手いな、設備屋。いいだろう、君の条件を呑もう」


こうして、透の異世界での「最初の現場」が決まった。




その夜、透は与えられた客室で、天井を見上げていた。


石造りの天井には、微かな亀裂が走っている。この世界の建築技術は、現代日本に比べれば原始的だ。だが、それでも人が住む建物を作り、維持している。


「やれることは、あるな」


透は呟いた。


この世界には空調の概念がある。だが、その技術は未発達で、故障しても直せる人間がほとんどいない。


透には、十五年分の知識と経験がある。冷媒配管、ダクト工事、気密試験、保温工事。それらの技術は、この世界でも——形を変えて——通用するはずだ。


「まずは、基礎からだ」


透はステータス画面を呼び出した。


【施工管理 Lv.1】


このスキルをレベルアップさせれば、より高度な能力が解放される。そのためには、おそらく「施工管理の経験を積む」必要があるのだろう。


明日から、この館の空調改善に取り組む。


設計図を描き、材料を調達し、職人を指導し、施工を監督する。


前世と同じだ。


いや——前世よりも、自由にやれるかもしれない。


透は目を閉じた。


異世界の夜は、静かだった。

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