怠け者、剃刀で削ぐ。

占路玄

第1話 怠け者、お湯を沸かす。

 浮遊したスマートフォンで動画を見る。


 鉤花かぎはな沙樹さじゅのマンネリ化した日常だった。


 リビングの中央に静置されたソファで、我ながら、体たらくな姿をお見舞いしている。枕を赤子のように抱え、仰向け状態。さらに、昨夜から着用している寝間着からは、お腹が見え隠れしてしまっている。


 ちょうど顔のあたりで浮遊しているスマートフォンには、制服姿の女の子が、全身から稲光を迸らせている映像が流れている。


 アニメだった。異能力が存在する学園モノだった。


 テレビや動画は良い。ただゴロゴロしているだけで、映像が視界に入ってくる。ゲームやスポーツと違って、動くことなく、考えることなく、快楽を享受できる。費用を最大限に削減された、最上の娯楽と言えよう。


「さすがにお腹すいたな…………」


 時刻は十三時。まだ何も口にしていなかった。腹から虫の音が鳴る。


 朝食や夕食と違い、母が作ってくれるわけではない。春休みを謳歌する沙樹とは違い、書類の山に囲まれながらも、仕事に精を出していることだろう。


「カップラーメンでも食べますか」


 ソファを寝転がるように床へ落下。一分ほどかけて、何とか立ち上がる。


 そして、ゾンビのような千鳥足で、台所へ向かう。


 まずオーソドックスなシーフード味のカップヌードルを取り出し、蓋を開けて放置。

 次に、下段の棚からヤカンを取り出し、水道水を入れる。そのまま三十秒ほど、突っ立った状態で沈黙。


「うん、面倒くさい」


 そう言うと、徐にヤカンを左右に揺らし始める。


 それと同時だった。


 浮遊していたはずのスマートフォンが、乾いた音を響かせながら、ソファに落下する。


「水は震えたら、熱くなるっと……」


 沙樹は適当な調子で呟いた。


 すると、密閉されたヤカンから泡が弾ける音が鳴り出す。まるで、沸騰している際中のように。


「大体こんなもんかな……」


 そして、ヤカンの水――いや、お湯をカップラーメンに注いでいく。


 あとは三分待つだけ。


 台所に安置された丸椅子に着席する。


 沙樹は、翌日から高校生になる。こういったスキマ時間で勉強をするなどといった努力が大事になってくるのだろう。

 ようやく高校受験が終わったというのに、三年後には再び、より過酷な受験という名の地獄が待っている。考えるだけで気力が削がれていくのを感じた。


 多分、三分経った。


 測ってはいない。


 スマートフォンはソファの上。タイマーもどこにあるのか知らない。わざわざ探すのも面倒だった。


 己の体内時計を信じ、ゆっくり蓋を剥がしていく。


 麺は少し硬そうだった。どうやら早かったのかもしれない。きっと、食べているうちにちょうど良くなるはずだ。


 後ろの棚から箸を取り出す。

 そして、その場でラーメンを頬張っていく。


 立ったまま食事など、礼儀を重んじる御仁がいれば、お叱りを受けていたかもしれない。無論、怒られたところで、移動する気は起きない。


 鈍い動作でラーメンをすすっていく。


 カップラーメンほど素晴らしい商品は無い。断言してもいい。


 手ごろにラーメンを食せる。頑張ることといえば、お湯を沸かすことと箸を取り出すことくらいだ。

 カップラーメンという至高の商品を開発した日本人には、感謝の意を述べたい。沙樹は心の中で手を合わせる。


 これが鉤花沙樹の、日常の一幕。


 スマートフォンを投げたら、宙に浮く。ただし、スマートフォンと地球の間に働く重力により、地面へ落下してしまう。あるいは、空気抵抗や微風の影響を受けることで、より複雑な挙動を取るかもしれない。


 熱とは分子の振動だ。故に、水分子が振動することで、水の温度が上昇する。だが、ある程度の大きさを示す力を与え中ればならなす、微動では不可能。


 複雑だ。ややこしい。込み入っている。紆余曲折だ。


 とにかく、面倒だ。


 もっと、シンプルでいい。


 スマートフォンを投げれば、宙に浮く。落下することなく、浮遊したまま。重力も空気抵抗も知ったことではない。


 水を揺らせば温度が上がる。少しの振動で上昇する。エネルギー保存の法則も熱力学第一法則も知ったことではない。


 鉤花沙樹。


 最後に切ったのがいつかも分からない、腰まで届く錆色の髪。一切の気力も胆力も感じられない、淡い翡翠の瞳。吸血鬼のような、血の気が通っていない柔肌。


 極度の怠け者。


 ただし。


 物理法則を、改変できる。

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