第2話
日曜日の午前中、紬に誘われて、彼女が植栽デザインを手がけたという新しい公園へ向かった。別れを決めてから二週間。家の中で段ボールに囲まれて過ごす息苦しさに、僕も限界を感じていたのかもしれない。「仕事の確認に付き合ってほしい」という彼女の言葉は、僕たちにとって唯一許された、正当な理由のある「デート」だった。
「ここはね、十年後、二十年後に森になるように設計したの」
紬は、まだ背の低いクヌギやコナラの苗木を指さして言った。 彼女の仕事は、時間を育てる仕事だ。今日植えた頼りない枝が、いつか誰かの木陰になり、街の呼吸を助ける。その壮大な時間の流れの中に、彼女はいつも身を置いていた。公園には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。新しい遊具には子供たちが群がり、弾けるような笑い声が風に乗って運ばれてくる。
「……あの子、楽しそう」
紬の視線の先には、真っ赤な滑り台を何度も滑り降りる、三歳くらいの男の子がいた。母親が下で手を広げて待ち構え、男の子が飛び込んでいく。ありふれた、どこにでもある幸せの風景。僕はその光景から逃げるように、足元の土を見つめた。
「慧くん。……もし、私たちに子供がいたら、あんな風に笑ったかな」
それは、禁句だった。別れを決めた今、口にしてはいけない「もしも」の話。 でも、紬の声は責めるような響きを持っていなかった。ただ純粋に、遠い異国の景色を想像するような、淡い響きだった。
「……きっと、君に似て、よく笑う子だったと思うよ」
僕がそう答えると、紬は少しだけ目を細めた。僕にはわかっていた。彼女が欲しかったのは「子供」という記号ではなく、僕との間に流れる時間を、もっと先へ、自分たちの命が尽きた後まで繋いでいく「証(あかし)」だったのだ。けれど、僕にとっての子供は、今のこの平穏な、壊れやすい二人だけの世界を侵食する「未知の恐怖」でしかなかった。誰かの人生を背負うには、僕はあまりに自分を守ることに必死すぎた。
「あのね、慧くん」
紬が歩きながら、独り言のように続けた。
「この公園の木が大きくなって、立派な木陰を作る頃、私はどこで何をしているんだろうね。……隣には、誰がいるんだろう」
その「誰か」の中に、僕はいない。その事実が、喉の奥を熱い塊となって塞いだ。 彼女が手がけたこの公園は、彼女が死んだ後も残る。でも、僕たちの三年間は、この三ヶ月が終われば、どこにも残らない。戸籍にも、形にも、この公園の土の上にも。愛し合ったという記憶だけが、形のない幽霊のように僕たちの周りを彷徨(さまよ)い、やがて消えていく。
ふいに、走り回っていた先ほどの男の子が、紬の足元で転んだ。紬は反射的に駆け寄り、「大丈夫?」と声をかけてその小さな手を握った。男の子は一瞬泣きそうな顔をしたが、紬の優しい眼差しに安心したのか、泥のついた手で彼女のスカートをぎゅっと掴んだ。
「強いね、偉いよ」
男の子を母親に引き渡すとき、紬が見せたその表情。それは、僕が決して引き出すことのできなかった、慈愛に満ちた聖母のような顔だった。その美しさに、僕は絶望した。僕が彼女を愛している限り、彼女からこの表情を奪い続けることになる。彼女のこの温かな手を、僕という冷めた器の中に閉じ込めておくことは、罪なのだ。
帰り道、駅までのプロムナードを歩きながら、僕たちは一度も手を繋がなかった。 繋いでしまえば、この別れの正当性が揺らいでしまう気がした。
「今日は付き合ってくれてありがとう。……いい仕事ができたって、再確認できた」 紬は駅の改札前で、少しだけ晴れやかな顔で言った。
「そうだね。いい公園だった。……木が大きくなった頃、また誰かと来るといい」
僕の精一杯の強がりは、彼女に届いただろうか。家に戻ると、玄関には昨日まとめたゴミ袋が置かれていた。公園の生命力溢れる緑と、死を待つような僕たちの部屋の対比が、あまりに鮮烈で。僕は紬に隠れて、洗面所で冷たい水を顔に叩きつけた。鏡の中の自分は、ひどく痩せ細った精神をしていた。愛しているのに、幸せを願っているのに、一緒にいられない。その矛盾が、ゆっくりと僕の心を摩耗させていく。
カレンダーの数字が、また一つ消える。あと、七十二日。僕たちの「人生の歩幅」は、もう二度と重なることはない。
部屋から物が減るにつれ、家の中の音色が変わっていった。カーテンを外し、絨毯を丸めると、僕たちの話し声や足音は、壁にぶつかって冷たく反響するようになった。まるで、まだ僕たちがここにいることを拒絶するような、余所余所しい響きだ。
その日の夜、僕は脱衣所に脱ぎ捨てられた紬の靴下を見つけた。片方は裏返しになり、もう片方は蛇が脱皮したあとのように丸まっている。かつての僕は、この光景を見るたびに、言葉にならない苛立ちを覚えていた。「ちゃんとカゴに入れてよ」と、何度言ったかわからない。紬はそのたびに「ごめんね」と小さく笑って片付けていたけれど、三日もすればまた同じ場所に、彼女の生きた証が脱ぎ捨てられていた。
でも、今は違う。その丸まった靴下を見て、僕はその場に立ち尽くし、胸が締め付けられるような激しい痛みに襲われた。この「だらしなさ」こそが、彼女がここに存在しているという確かな体温だったのだ。
僕は膝をつき、その靴下を拾い上げた。指先に残る、わずかな湿り気。柔軟剤の微かな匂い。三ヶ月後、この床にはもう、裏返しの靴下も、出しっぱなしのドライヤーも、飲みかけのマグカップも転がってはいない。ルンバが虚しく走り回るだけの、完璧に整頓された「死んだ部屋」が残るだけだ。
「あ、ごめん。また出しっぱなしにしてた」
風呂上がりの紬が、湯気を纏って入ってきた。彼女は僕が靴下を手にしているのを見て、恥ずかしそうに顔を赤くし、それを奪い取ろうとした。
「いいよ、僕がやるから」
「……慧くん?」
僕の手が、彼女の指先に触れる。驚くほど熱い、彼女の体温。 僕はそのまま彼女の手を握りしめ、言葉を探した。けれど、出てきたのは「ごめん」という、何の解決にもならない空虚な響きだけだった。
「どうして謝るの」
「……君のこういうところ、昔は嫌いだなんて言って、ごめん。本当は、すごく、大切だったんだ」
紬は目を見開き、やがて悲しそうに眉を下げた。彼女は僕の手をそっと握り返し、鏡に映る二人の姿を見つめた。
「遅いよ、慧くん。……もう、嫌いでいてくれた方が、楽だったのに」
彼女の言う通りだ。憎み合って別れるのなら、どれほど救われただろう。相手の欠点を数え上げ、怒りに任せてドアを閉めることができたなら、この心に空いた穴を、少しは正当化できただろうに。でも、僕たちは知ってしまった。相性が良いというのは、趣味が合うことでも、価値観が一致することでもない。相手の「不完全さ」を、どれだけ愛おしく許せるかということなのだと。
その夜、僕たちは久しぶりに同じベッドで横になった 繋いだ手の隙間から、お互いの鼓動が伝わってくる。
「慧くん、寝てる?」
「……起きてるよ」
「あと、六十日くらいだね」
紬が呟いた数字は、あまりに短く、あまりに残酷だった。僕たちはこれまで、何千回という夜を共に過ごしてきたはずなのに、これから訪れる六十回の夜は、これまでのどの時間よりも密度が濃く、そして透明な膜に覆われている。
「ねえ、慧くん。別れたあと、私のこと、どんな風に思い出す?」
僕は答えに詰まった。思い出すことなんて、できない。なぜなら、彼女がいなくなったあとの世界で、僕は彼女の不在を「思い出す」のではなく、ずっと「感じ続ける」ことになるからだ。朝起きて、隣に誰もいない空白を見るたびに。スーパーで二人分の食材を買おうとして、手を止めるたびに。裏返っていない靴下を見て、絶望するたびに。
「……たぶん、全部だよ。君の笑い方も、料理の味も、今日みたいに靴下を出しっぱなしにするところも。全部、僕の一部になっちゃってるから」
紬は僕の胸に顔を埋め、静かに泣き始めた。彼女の涙が僕のパジャマを濡らし、温かな湿り気が肌に伝わる。僕は彼女の細い背中を抱きしめることしかできなかった。愛しているのに。こんなにも、指の一本一本まで愛しているのに。僕たちは「自分たちの未来」を殺すことでしか、相手を自由にできない。暗闇の中で、時計の針が時を刻む音が聞こえる。それは、僕たちの終わりを告げる、静かなカウントダウンだ。カチ、カチ、と。その音が響くたびに、僕たちの「さよなら」は深く、深く、肺の奥まで入り込んでくる。
あと、六十日。僕たちはまだ、世界で一番不幸な「恋人同士」のままだった。
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