賞味期限のあと、僕たちのゆくえ
王堕王
第1話
その封筒は、金曜日のひどく疲れ果てた夕暮れに届いた。賃貸マンションの契約更新通知。どこにでもある事務的な書類。しかし、その白い紙切れは、僕と紬の間に横たわる、見て見ぬふりをしてきた「溝」を、鮮やかな輪郭で縁取ってしまった。
「更新、どうする?」
キッチンで野菜を切る紬の背中に、僕は声をかけた。換気扇の低い回転音が、僕の声を少しだけ削り取る。紬の手元で、トントンとまな板を叩く規則正しい音が止まった。彼女は振り返らずに、少しだけ肩を落としたように見えた。
「……慧くんはどうしたい?」
「僕は」
僕は言葉を飲み込む。この部屋に越してきて三年。二人で選んだベージュのカーテン、少し奮発して買った北欧製のダイニングテーブル、窓辺で窮屈そうに葉を広げているモンステラ。そのどれもが、僕たちの「生活」という名の地層となって積み重なっている。けれど、その地層の底には、いつからか修復不能な亀裂が走っていた。
「僕は、君の時間をこれ以上奪いたくない」
それが、僕が数ヶ月間、喉の奥に棘のように刺し続けていた本音だった。紬は三十歳になった。彼女はいつか、自分の子供を抱くことを夢見ていた。窓辺の植物に水をやるように、慈しみ、育てる対象を求めていた。対して僕は、自分以外の何者かの人生に責任を持つという重圧に、どうしても耐えられなかった。愛している。それは嘘じゃない。けれど、愛しているからといって、一人の人間の「母親になりたい」という根源的な願いを、僕の我儘(わがまま)で塗り潰していいはずがなかった。
「……そうだね。わかった」
紬の声は、驚くほど静かだった。彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳には、かつてあった激しい葛藤や、涙の熱量はもうなかった。ただ、長い時間をかけて摩耗し、滑らかになった石のような、透明な諦念だけが宿っていた。
「次の更新はしない。三ヶ月後の末日に、ここを出よう。……二人、別々の場所に」
決定事項として放たれた言葉は、僕たちの間に漂っていた湿った空気を、一瞬で凍りつかせた。三ヶ月。九十日。二千百六十時間。 僕たちの三年間という歳月に幕を下ろすための、猶予期間が決まった。
その日の夕食は、肉じゃがだった。紬が作る肉じゃがは、少し甘みが強くて、ジャガイモの角がほどよく崩れている。僕はそれを口に運ぶたび、いつも幸福を感じていた。けれど、今夜のそれは、砂を噛んでいるような無機質な味がした。
「美味しいね」
「よかった。少し煮込みすぎちゃったけど」
いつもの会話。いつもの笑顔。でも、僕たちの視線は、決して交わらない。僕は彼女の少し後ろにある、壁の汚れを見つめ、彼女は僕の肩越しにある、暗い窓の外を見つめている。二人で囲む食卓の上に、目に見えない透明な膜が張られたようだった。昨日まで共有していた「未来」という言葉が、その膜の外側へ、音もなく滑り落ちていく。
ふと、視線を下げると、テーブルの隅に置かれたドレッシングのボトルが目に入った。賞味期限は、八月。僕たちがこの部屋を出ていくのは、六月の末だ。このドレッシングが空になる頃、僕たちはもう、同じ朝食を食べることはない。別々のスーパーで、別々のサイズのドレッシングを買い、別々の冷蔵庫に仕舞うのだ。
そんな些細な、取るに足らない未来の断片が、鋭い刃物のように僕の胸を切り裂いた。
「慧くん、明日、粗大ゴミの予約しておくね。あの、脚がガタついてた椅子、どうする?」
「……ああ、捨てよう。もう直せないだろうし」
僕は、自分の声が微かに震えているのを隠すために、冷めたお茶を飲み込んだ。 直せないのは椅子だけではない。僕たちは、壊れたものを修理する術を知っていたはずだった。けれど、人生の向かう方向が正反対になってしまったとき、それを繋ぎ止めるボンドは、この世のどこにも存在しなかった。
夜、寝室の灯りを消すと、隣で眠る紬の規則正しい呼吸音が聞こえてくる。三年間、僕を安心させてきたこの音も、あと九十回数えれば、二度と聴けなくなる。 僕は暗闇の中で、そっと手を伸ばしかけて、止めた。触れてしまえば、この「さよならの準備期間」という残酷な均衡が、一気に崩れてしまいそうだった。
窓の外では、季節外れの冷たい雨が降り始めていた。アスファルトを叩く雨音は、どこか遠い国の弔鐘のように聞こえた。 僕たちは、愛し合いながら、殺し合っていたのだ。お互いの理想という名のナイフで、少しずつ、少しずつ。
三ヶ月。それは、僕たちが「ただの他人」に戻るための、葬列の長さだった。別れを決めてから最初の週末、僕たちはどちらからともなく、本棚の整理を始めた。 三階建ての古い木製の本棚。それは二人が付き合って半年が過ぎた頃、ホームセンターで組み立て式のものを買い、狭い部屋で汗をかきながら一緒に作ったものだ。
「これ、慧くんの本だよね」
紬が文庫本を差し出す。彼女の指先が、僕の愛読している古い海外小説の背表紙をなぞる。
「ああ、そうだね。……それは、僕が持っていくよ」
そう答えるたびに、本棚に小さな「空白」が生まれる。かつては隙間なく詰め込まれていた言葉の群れが、一冊、また一冊と抜き取られていく。その空白は、まるで僕たちの肺に少しずつ空気が入らなくなっていくような、息苦しい静寂を連れてきた。
本を仕分けながら、ふとした拍子に一冊のレシピ本が床に落ちた。ページが開き、中から一枚の付箋が顔を出す。そこには紬の丸っこい文字で『今度の日曜に作る!』と書かれていた。その「今度の日曜」がいつだったのか、もう思い出せない。僕たちはそんな風に、たくさんの「今度」を共有し、同時に、たくさんの「今度」を使い切らずに捨ててきたのだ。
「慧くん」
紬が僕を呼ぶ。その声の響きが、空いた本棚の空間に反響して、いつもより少しだけ高く聞こえた。
「このペアのマグカップ、どうする? 片方だけ持っていっても、寂しいよね」
彼女の手には、三年前のクリスマスに交換した、深い藍色と琥珀色のマグカップがあった。藍色は僕、琥珀色は彼女。何度もコーヒーを淹れ、何度も語り合い、時には喧嘩をして口をつけないまま冷ましてしまったこともある、生活の証人。
「……捨てようか」
僕がそう言うと、紬は一瞬だけ、まつ毛を震わせた。直す努力を放棄したわけではない。ただ、新しい生活に「二人の記憶」を持ち込むことは、お互いの未来に対する裏切りのような気がしたのだ。愛しているからこそ、次に進む場所には、相手の匂いを残してはいけない。
「そうだね。捨てよう。……その方が、いいもんね」
彼女は無理に作った笑顔を浮かべ、マグカップを新聞紙で包み始めた。カサカサという紙の音が、僕たちの思い出を窒息させていく。かつては、彼女のこういう「物分かりの良さ」に甘えてきた。僕が子供はいらないと言ったときも、彼女は何度も泣いた末に、「慧くんがいてくれれば、それだけでいい」と微笑んだのだ。その微笑みに隠されていた、彼女の磨耗に、僕は気づかないふりをしていた。
昼食は、冷蔵庫に残っていた端切れの野菜でチャーハンを作った。今までは「明日も使うから」と残していた食材を、今は「使い切る」ために鍋に入れる。生活が「足し算」から「引き算」へと変わっていく。調味料の残量を気にし、洗剤の詰め替えを買うのを躊躇う。この三ヶ月間は、僕たちがこの部屋の「主」から、ただの「滞在者」へと変わっていくための儀式なのだ。
食事中、ふとテレビから流れてきたオムツのCM。赤ちゃんの笑い声がリビングに響いた瞬間、僕の手が止まった。以前なら、僕は気まずさからチャンネルを変えていただろう。でも今は、変える必要もなかった。もう、そのことで争う必要はないのだから。
「……ねえ、慧くん」
紬がスプーンを置いた。
「私たち、どこで間違えちゃったのかな」
その問いに、正解はない。僕たちは何も間違えていない。ただ、愛しすぎたのだ。 自分の理想よりも相手を優先し、相手の希望よりも自分の限界を伝えられず、そうして少しずつ、心の薄皮を剥ぎ合うようにして生きてきた。生活の摩耗とは、互いを傷つけ合うことではなく、互いを思いやるあまりに自分自身を削り取ってしまうことだった。
「間違えてないよ、紬」
僕は彼女の視線をまっすぐに見つめて言った。
「ただ、僕の歩幅が、君より少しだけ狭かったんだ。君を広い場所へ連れて行ってあげられなくて、ごめん」
紬の瞳に、今日初めて、熱いものが溜まった。彼女はそれをこぼさないように上を向き、パタパタと手で顔を仰いだ。
「やめてよ。最後の日まで、格好つけないで」
外は、いつの間にか雨が止んでいた。雲の切れ間から差し込む午後の光が、半分空になった本棚を無慈悲に照らし出している。埃が舞う光の中で、僕たちはまた、静かに作業に戻った。ガムテープを引く、鋭い音が部屋に響く。バリバリ、というその音は、まるで僕たちの心臓の表面を剥がしているかのような、暴力的な響きを持っていた。あと、八十二日。 僕たちの「さよなら」は、まだ始まったばかりだった。
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