第85話



ようやく病院から出て、宗一の車に乗った。助手席に乗り、ぼーっと窓の外に流れる景色を眺める。


また夜がくる。暗くて冷たい、暗澹とした世界。

宗一は運転してから一言も喋らなかったが、賑やかな通りに入ると、巨大な建物の地下駐車場に車を停めた。


「ちょっと気分転換でもしようか」

「……?」


彼に続いて車を下りる。どうやらオフィスビルと繋がったショッピングモールのようだ。たくさんの人が楽しそうに歩いていて、活気にあふれていた。

人を避けて歩くのも大変だ。身長的に宗一の方が歩幅が広く、ついていくのもやっと。距離ができそうになった時、彼は振り返らず後ろに手を伸ばしてきた。


「……っ」


思わず足がすくみそうになる。掴んでいいんだろうか。

彼が心から求めている相手は、私じゃないのに。


迷ってる間に人とぶつかり、バランスを崩した。反射的に宗一の手を掴み、彼の背に思いきり激突する。

「っと……。大丈夫?」

「……」

さっきから醜態ばかり晒している。いたたまれず、すぐに手を離した。

「大丈夫です」

「良かった」

宗一はにこっと微笑み、エレベーターへ向かった。最上階まで行くと、またショッピングフロアとは違う空気に包まれていた。

薄暗くてひんやりしている。でも、夜とは違う。賑やかで、小さな子どももいっぱいいる。

「水族館だよ。今日は本物の海は見せられないから……海の生き物でも見ていこう」

「水族館っ?」

もちろん知ってるけど、実際に来たのは初めてだ。

そうか、だからここにいる人達は嬉しそうなんだ。わくわくしてる感じが伝わってくる。


「ほら、おいで」


知らない世界……。

足元が覚束ない場所。でも、唯一知ってる人がいる。

今度は何の迷いもなく、彼の手をとっていた。



水族館の中はそれこそ本当の楽園みたいだった。巨大な水槽で魚が無数に泳ぎ、華やかにライトアップされている。


「綺麗……」


見蕩れてしまった。

やがて現れた水中トンネルは、まるで海の中にいるようだった。


「綺麗だよね。私も水族館は好きだ」


宗一は波紋が広がる近くのガラスにそっと触れ、上を見た。

その横顔はどこか寂寥感があり、目を逸らしたい現実を引き戻した。


「本当に……私を村に連れ戻さないんですか?」


知りたくないことを何度も訊くのは、苦しい。自ら傷口を広げることと同じだからだ。

でもこの景色が見られただけでも、充分過ぎる。


足元に視線を落とすと、額を指先で優しく押された。


「これからはずっ……と忙しいよ。君はまだまだ、私と色んな景色を見に行かなきゃいけないんだから」


相対する青年の繊細な表情に、目を奪われる。

笑ってるのに泣いてるみたいだ。……自分なんかよりよっぽど心配になる、儚さを秘めた瞳を揺らしている。


でも分かってしまった。

自分だ。自分が、彼にそんな顔をさせてしまっている。


開きかけた口から、なにか伝えないといけないと思った。だが同時に、愉快な音楽と館内アナウンスが流れた。


『館内の皆様にお知らせです。十八時三十分、Cフロアで魚達の餌やり体験が……』


大きな音声に掻き消され、口を閉ざした。

眉間を押さえて顔を背けると、宗一はころっと間の抜けた表情を浮かべ、首を傾げた。

「白希、餌やりしたいの?」

「違います。大体それ、子どもがやるやつでしょ」

「君だって今は子どもみたいなもんじゃない」


……。


確かにそうかもしれないけど、素直に頷くのは癪だった。彼の横を通り抜け、先を促す。


「それよりアザラシの方が興味があります。行きましょう」

「はいはい。行こうか」


宗一は可笑しそうに笑っていたが、無視して先へ進んだ。

涼しい館内、薄青の壁、滑らかな影。

来た時とはまるで違くて、怖いぐらい足取りが軽い。


────楽しい。


宗一より数歩先を行き、白希は密かに笑った。



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