『午前七時のスリーピング・ビューティ』 ~放置された男が床に書いた、最後の言葉~

ソコニ

第1話 午前七時のスリーピング・ビューティ

「もう一度聞きます。なぜ、救急車を呼ばなかったんですか」

取調室の蛍光灯が、瀬川誠の疲れ切った顔を容赦なく照らしていた。五十三歳のバーマスターは、両手を組んで机の上に置いたまま、刑事の目をまっすぐ見つめた。

「言ったでしょう。隆史のためだったんです」

岡崎刑事は呆れたように首を振った。

「『ためだった』? 神谷隆史さんは死んだんですよ。あなたが放置したせいで」

「違う」瀬川の声が震えた。「俺は、約束を守っただけだ」

岡崎刑事はファイルを開いた。監視カメラの時刻記録が並んでいる。

「十一月十五日、午前七時三十二分。あなたは店のシャッターを開けて入店。その三十分後、午前八時四分に一度外へ出て、コンビニでサンドイッチとコーヒーを購入。午前九時、常連客の江藤さんが訪ねてきたが、あなたは『今日は開けない』と追い返した。午前十一時、神谷さんの会社の同僚・須藤祐介さんが訪ねてきた。やはり追い返した。そして午後八時、ようやく119番通報。すでに神谷さんの心臓は止まっていた」

「だから、隆史が望んだことだったんだ」

「望んだ? 死ぬことを?」

「違う!」瀬川は拳で机を叩いた。「奴は逃げてたんだ。必死に。須藤から」




二日前——十一月十三日の深夜、瀬川が営むバー「マリンブルー」は穏やかな時間に包まれていた。尾道の坂の途中にある、カウンター六席だけの小さな店。常連しか来ない、隠れ家のような場所だ。

「マスター、もう一杯」

神谷隆史は三十八歳の銀行員だった。痩せ型で、いつも少し猫背。妻に先立たれてから、週に三回はこの店に来るようになった。

「お前、最近顔色悪いぞ」瀬川はウイスキーを注ぎながら言った。

「ちょっと、トラブルがあってさ」神谷は苦笑した。「同期の須藤が、やらかしちまった」

「何を」

「横領だよ。三千万。俺が気づいたとき、奴はもう証拠を俺の端末に植え付けてた。警察が来たら、俺が犯人にされる」

瀬川は息を呑んだ。「それ、会社には?」

「言えない。須藤が『お前が横領した証拠を消してやる代わりに、俺が逃げる時間をくれ』って脅してくる。でも、俺が本当に犯人だと思われたら……」

神谷の声が震えた。「マスター、俺、死ぬしかないのかな」

「馬鹿言うな!」瀬川は怒鳴った。「そんなこと言うな」

「ごめん。でも……」神谷は目を伏せた。「頼みがあるんだ」

「何だ」

「もし、俺が朝まで飲んで、店で寝ちまったら……誰かが俺を探しに来ても、追い返してくれないか。俺が酔い潰れて、死んだように寝てるって言って」

「なんで」

「須藤が、俺の行動を監視してる。でも、もし俺が『動けない』状態なら、少なくとも直接手は出せない。時間稼ぎになる。その間に、弁護士に相談できるかもしれない」

瀬川は長い沈黙の後、頷いた。「わかった。お前を守る。絶対に」

「ありがとう。お前だけが、最後の砦なんだ」




十一月十五日、午前七時三十分。

瀬川が店のシャッターを開けると、神谷が店の奥、トイレへ続く廊下の前に倒れていた。

「隆史!」

駆け寄ると、神谷は床に横たわり、目を閉じていた。呼吸はある。脈もある。でも、起きない。

瀬川の頭に、二日前の約束がよぎった。

(死んだように寝てる、か)

神谷の服には嘔吐した跡があり、顔色は悪かったが、瀬川は神谷を起こそうとした。しかし、びくともしなかった。

そのとき、神谷の右手の指が、床の埃の中で何かを描いていることに気づいた。

よく見ると、それは「×」のような、いや……ひらがなの「ス」のような。

(須藤のスだ。奴が来る前に、こうやって警告してくれたんだな)

瀬川は決意した。約束を守ろう。神谷を守ろう。

午前九時、常連の江藤が訪ねてきた。

「瀬川さん、今日開いてる?」

「悪い、今日は休みだ」

「珍しいね。体調悪いの?」

「ちょっとな」

午前十一時、スーツ姿の男が来た。

「すみません、神谷隆史を探してるんですが。この店の常連だと聞いて」

須藤祐介だ。神谷が恐れていた、横領の犯人。

「知らねえな」瀬川は冷たく言った。

「昨夜、この店に来たはずなんですが」

「見てねえ。帰ってくれ」

須藤は食い下がった。「中を見せてもらえませんか」

「客でもねえ奴に、店の中を見せる義務はない」

須藤は一瞬、瀬川の目を見て、何かを悟ったように笑った。

「そうですか。わかりました」

須藤が去った後、瀬川は店に戻り、倒れたままの神谷を見た。顔色は明らかに悪化していた。唇が紫色になっている。

(まずい……でも、約束だ。もう少し待てば、奴も諦めるはずだ)

午後二時、神谷の呼吸が浅くなっていた。

午後五時、瀬川はついに不安に駆られた。

(いや、これは……普通の酔いじゃない)

午後七時、瀬川は震える手で携帯を握った。でも、踏み出せなかった。

(もし今呼んだら、須藤が来るかもしれない。救急車が来たら、騒ぎになる。奴に居場所がバレる)

午後八時、神谷は動かなくなった。

瀬川が119番通報したとき、すべてが遅かった。




「それが、あなたの言い分ですか」岡崎刑事は冷ややかに言った。「友人を守るために放置した、と」

「そうだ」

「では、なぜ午後になって、明らかに容態が悪化したのに、救急車を呼ばなかったんですか」

「……約束だったから。それに、須藤に居場所がバレたら——」

「馬鹿げている」岡崎は言った。「あなたは神谷さんを見殺しにしたんだ」

そのとき、取調室のドアが開き、若い刑事が入ってきた。

「岡崎さん、検視の結果が出ました」

岡崎は書類を受け取り、目を通した。そして、顔色を変えた。

「……急性薬物中毒?」

「はい。胃の内容物から、大量の睡眠薬と、致死量に近い抗不安薬が検出されました。摂取時刻は、死亡の約二十四時間前と推定されます」

岡崎は瀬川を見た。「十一月十四日の朝……神谷さんは、あなたの店に来る前に、薬を飲まされていた」

「そんな……」瀬川は青ざめた。

「これは殺人事件です。瀬川さん、神谷さんを毒殺した人物が別にいる」




その夜、岡崎刑事は須藤祐介を任意同行で署に呼んだ。

「須藤さん、あなたは十一月十四日の朝、神谷隆史さんと会っていますね」

「ええ、出勤前に」須藤は落ち着いていた。「彼が体調不良だというので、栄養ドリンクを差し入れました」

「その『栄養ドリンク』に、睡眠薬と抗不安薬を混入させましたね」

須藤の表情が凍りついた。

「あなたは銀行で三千万円を横領し、その証拠を神谷さんの端末に植え付けた。でも、神谷さんは気づいた。だから、彼を始末する必要があった」

「待ってください、僕は——」

「しかも、あなたは巧妙でした」岡崎は写真を出した。「これは、神谷さんが倒れていた場所の床です。指で何かを描いた跡があります。我々は当初、これを『ス』、つまりあなたの名前だと考えました」

須藤は黙っていた。

「しかし」岡崎は別の写真を出した。「鑑識が床を詳しく調べたところ、この指跡には続きがありました」

写真には、かすかに残る文字が写っていた。

「ス・マ・ナ・イ」

瀬川は息を呑んだ。

「すまない……?」

「そうです」岡崎は静かに言った。「神谷さんは、自分が毒を盛られたことに気づいていた。でも、証拠を植え付けられた以上、生きていても横領犯として逮捕される。会社も、社会も、彼を許さない。だから……」

「だから、何だ!」瀬川は叫んだ。「隆史は、何を考えてたんだ!」

「神谷さんは、死を受け入れたんです」岡崎の声は重かった。「須藤さん、あなたは神谷さんに『バーのマスターは、約束を守る男だ』と事前に吹き込んでいましたね」

「それは……」

「神谷さんが『死んだように寝てる』と頼めば、瀬川さんは必ず守ると。そして、放置してくれると。あなたはそれを計算して、神谷さんに薬を盛った。瀬川さんの善意を、凶器に変えたんだ」

須藤は崩れ落ちた。

「僕は……逃げたかっただけだ。神谷が自殺したことにすれば、僕への追及も止まる。完璧な計画だった……」

「計画?」瀬川は震えながら立ち上がった。「お前は……お前は隆史を、俺を——」

「落ち着いてください」岡崎が制止した。

須藤は連行される直前、瀬川を見て、冷たく笑った。

「感謝してくれよ、マスター。俺が毒を盛ったのは十四日だ。でも、あいつを殺したのは、十五日の間ずっとあいつの隣で、死んでいくのを楽しそうに眺めていた『あなた』だろ? 午後五時には気づいてたくせに。午後七時には携帯を握ってたくせに。お前も、俺と同じ殺人者だよ」

瀬川は何も言えなかった。




三日後、瀬川は釈放された。保護責任者遺棄致死の容疑は、「被害者本人の強い意志による依頼」と「殺人犯による計画的な善意の利用」が認められ、不起訴となった。

バー「マリンブルー」に戻ると、店の前に人だかりができていた。

「え、何これ」

店のシャッターには、落書きがされていた。

『人殺しの店』『ここで死んだ』

瀬川が呆然としていると、スマートフォンを構えた若い女性が近づいてきた。

「あの、瀬川さんですよね? 真実知りました! 本当は友達を守ろうとしてたんですよね? 感動しました! 写真いいですか?」

「は……?」

次々と人が集まってくる。

「ニュースで見ました! 須藤ひどいですよね!」

「瀬川さん、頑張ってください! 応援してます!」

「ここで亡くなった神谷さんに、お花を供えていいですか?」

瀬川は震えた。

彼らは、わずか三日前、この店を「殺人現場」として糾弾していた人々だ。SNSで拡散し、誹謗中傷を浴びせていた。

そして今、彼らは「感動の物語」として、この店を聖地にしようとしている。

「やめろ」瀬川は低い声で言った。

「え?」

「やめろって言ってんだ!」瀬川は叫んだ。「ここは、お前らの遊び場じゃねえ! 隆史が死んだ場所を、勝手に——」

「ちょっと、何怒ってるんですか」女性が不満そうに言った。「こっちは応援に来てるのに」

「応援?」瀬川は笑った。「お前ら、三日前は『人殺し』って書いてたじゃねえか。今度は『感動』か? どっちも、同じだ。お前らにとって、俺も隆史も、ただの消費物だ」

群衆がざわついた。スマートフォンのカメラが、瀬川を捉える。

「最低」

「せっかく応援に来たのに」

「やっぱり変な人だったんだ」

人々は去っていった。また、SNSで新しい「炎上ネタ」として拡散されるだろう。

瀬川は静かに店の前に立った。

ポケットから鍵を取り出し、それをシャッターの鍵穴に差し込んだ。

そして、思い切り、鍵を折った。

金属が壊れる音が、静かな坂道に響いた。

もう誰も、この店には入れない。

瀬川は壊れた鍵を握りしめたまま、坂道を下っていった。

神谷が最後に書いた文字が、頭の中でずっと響いている。

「ス・マ・ナ・イ」

すまないのは、どっちだ。

お前が俺を信じすぎたのか。

俺が、お前の死を見抜けなかったのか。

それとも——俺が、午後五時のあの瞬間、電話をかけなかったことか。

瀬川は立ち止まった。

尾道の坂道の途中で、海が見えた。

神谷が、いつも「この景色が好きなんだ」と言っていた場所。

「隆史」瀬川は海に向かって呟いた。「お前の『すまない』は、受け取らねえ。お前が謝る必要なんてなかった」

でも、俺の『すまない』は、もう届かない。

風が吹いた。冷たい、冬の風。

瀬川誠は、その日から、二度とバーを開くことはなかった。

そして、二度と、誰かの「約束」を信じることもなかった。


【完】

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