第4話 視覚
最初に異常が現れたのは、距離だった。
廊下の端が遠い。遠いというより、引き延ばされている。床の模様が増殖し、同じ一片を何度も踏ませる。歩行距離と視覚距離が一致しない。私は足を止め、壁に手をついた。手応えは正しい。視覚だけが誤っているのではない。視覚が、独自の判断を始めている。
目を閉じると、距離は消える。開くと戻る。
私は理解した。異常は、視覚にあるのではなく、視覚が私を通さずに世界と直接やり取りしている。
輪郭の遅延は、数日後に始まった。
人の顔が、分解されて届く。骨格、皮膚、表情の順に読み込まれる。感情は最後だ。笑顔は遅れ、怒りは欠損する。私は相手の感情が完成する前に会話を終え、誤差だけを受け取る。誤差は溜まる。溜まった誤差は、私の体内に居場所を求め始めた。
鏡を見ると、右目の焦点が、私の意志よりわずかに遅れて動いた。
遅れは拡大した。瞬きが同期しなくなる。視界の左側だけが先に暗転する。暗転した側から、感覚が抜け落ちていく。
検査では異常なしとされた。
医師は私の目を覗き込み、ほんの一瞬だけ、視線を外した。
その一瞬で、私の視界に、医師の背中が裏返って映った。皮膚の内側、筋肉の並び、まだ温度を保った臓器の配置。私は叫ばなかった。叫べば、それは「見えたもの」になる。
夜、視覚は私を起こす。
目を閉じているはずなのに、見える。
天井の裏、配線の走り、建物の骨組み。さらに奥へ。視覚が、身体の内部に潜り込んでくる。肋骨の隙間を通り、肺の表面をなぞり、心臓の鼓動を裏側から観察する。
私は自分の心臓を、外側から見た。
翌朝、胸に違和感が残った。
触ると、肋骨の一本が、わずかに透けて見える。皮膚の色ではない。視覚が皮膚を薄くしている。私は布を重ねたが、透過は止まらなかった。
街では、見えていないものが増えた。
人が、途中で欠ける。肩から先がない。脚だけが通り過ぎる。誰も驚かない。欠けた部分は、最初から配布されていなかったように扱われる。
検査項目に新しい欄が加わった。
〈視覚侵食度〉
・自己像の欠損
・内部視認
・他者構造の誤読
・視覚による皮膚透過
私はすべてに丸をつけた。
看護師は用紙を見て、少しだけ安心した顔をした。
「進行は順調ですね。」
最後に消えたのは、背中だった。
私の視界から、私自身の背面が完全に削除された。振り返っても、そこに像は生成されない。背中は、見るための構造を失った。私は自分を最後まで確認できない。確認できないものは、管理できない。
その瞬間、侵食は完了した。
視覚は、もはや感覚ではなかった。
視覚は器官となり、私の内部に常駐した。私が見ているのではない。見られている。世界が、私の体内を通過していく。
異常は記録されなかった。異常は、正常の内部仕様に組み込まれた。
私は今日も目を開けている。閉じる必要がないからだ。
すでに、私の中で、視覚が世界を見続けている。
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