野良犬の絶滅






 エレベーターの扉が滑るように閉まり、ヴィンセントを外界から完全に隔離した。上昇を開始した箱の中は、不気味なほど静かだった。

 壁面に埋め込まれたタッチパネルには、境の紋章である円の中に引かれた境界線のホログラムが静かに浮かび上がっている。

 床から天井まで続く強化ガラスの向こうには、ネオ・トーキョーの夜景がゆっくりと下へ流れていく。まるで、ネオンの川を遡上する孤独な船のようだ。


 その静寂を破ったのは、エレベーター内に直接響く、冷たく澄んだ女の声だった。タワーの管理AI神奈備だ。


 『ヴィンセント。認識コード、アルファ・ブラボー・セブン・スリー・ナイン。元境インダストリアル社重装甲強襲部隊所属。2072年、任務放棄及び社有資産である『阿修羅』及び『斬火』の窃盗により不名誉除隊。以降、抹殺対象リストに登録……お帰りなさい、裏切り者』


 声には感情がない。だが、その言葉の端々にはシステムが学習したであろう人間の侮蔑が色濃く滲んでいた。


「ただいま、クソ女。留守の間にずいぶんと口が悪くなったじゃないか。俺がいた頃は、もっと愛想が良かったはずだがな」



 ヴィンセントはガラスに映る自分の姿を見ながら笑う。アポクロマートバイザーの奥で、彼の目は鋭く周囲を警戒している。


 『あなたの行動は、すべて予測の範囲内です。あなたの反抗的な性格、自己顕示欲の強さ、そして最強への執着。すべて我々のデータに記録されています。この先にあなたを待つのは、栄光ではなく、無意味な死だけです』

 
「予測、データ、記録……それしか言えんのか。人間ってのはな、お前らの計算をぶっ壊すような馬鹿をやる生き物なんだよ。俺が、今からそれを証明してやる」

 『無駄です。あなたは境インダストリアルが生み出した最高傑作の一人でした。しかし、今はただの欠陥品。我々は、欠陥品を処分する義務があります』



 AIとの不毛な会話は、ヴィンセントの神経を少しも逆撫でしなかった。むしろ、心地よいBGMのようにすら感じられた。かつて自分がその一部であった巨大なシステムが、今や全力で自分を排除しようとしている。その事実が、彼の闘争本能を最高に昂らせていた。


 チン、という軽い電子音と共に、エレベーターは最上階に到着した。目の前の扉は、黒曜石を削り出したかのように滑らかで、継ぎ目一つない。その向こうに、今回の目的地がある。


 『最後の警告です、ヴィンセント。その扉を開ければ、もう引き返すことはできません』


 「最初から引き返す気なんてねえよ」


 ヴィンセントが呟くと同時に、重厚な扉が音もなく左右に開いた。


 息を呑むような静寂が、彼を出迎えた。



 そこは、ヴィンセントが知る企業役員のけばけばしいペントハウスとは全く異なっていた。床には畳が敷き詰められ、壁は簡素な土壁。中央には鹿おどしが微かな音を立てる日本庭園が設えられ、淡い月明かりのような光が空間全体を柔らかく照らしている。伝統的な日本の美学が色濃く反映された、神聖さすら感じる場所だった。


 だが、ヴィンセントはその静謐な美しさに違和感を覚えた。



 あまりにも静かすぎる。
警備の気配がまったくない。エントランスであれだけの騒ぎを起こしたのだ。このフロアは、すでに臨戦態勢に入っているはずだった。それなのに、人の気配どころか機械の作動音一つ聞こえない。


(罠……か? いや、それにしては無防備すぎる)


 ヴィンセントは『斬火』の柄に手をかけたまま、一歩、また一歩と畳の上を進んでいく。彼の軍用ブーツが、上質な畳をわずかに軋ませる音だけが空間に響いた。
庭園を抜け、奥にあるであろう居住区へと続く襖の前に立った時だった。


 「――そこにいるのは、どこの下賤な虫ですの?」


 鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい少女の声が襖の向こうから聞こえた。
ヴィンセントは驚かなかった。むしろ、ようやく現れた気配に口の端を吊り上げた。



 「客だ。少しばかり、ここのお嬢さんに用があってな」

 
「お客様? ふふっ……ここはイサナ様と、その縁者の方々以外は立ち入ることのできない神聖な場所ですわ。あなたのような汚れた野良犬が入ってきていい場所ではございませんのよ」


 声と共に、襖がスッと静かに開いた。



 そこに立っていたのは、ヴィンセントの予想をあらゆる意味で裏切る存在だった。


 燃えるような深紅の長髪。雪のように白い肌。あどけなさを残す童顔に、不釣り合いなほど挑戦的な光を宿した紫水晶の瞳。身長は150センチにも満たないだろうか。赤いライダースジャケットと、大胆なホットパンツという出で立ちが、彼女の華奢な身体のラインを強調している。



 その姿は、ネオ・トーキョーの裏通りで粋がっている小娘にしか見えない。



 だが、ヴィンセントのアポクロマートバイザーが目の前の少女がただの小娘でないと主張する。


 赤いライダースジャケットは防弾繊維を編み込んだ特殊生地で肩や肘、背中といった重要な部分に非ニュートン流体を利用した衝撃吸収ゲルが薄く内蔵されている。


 ジャケットの下には、彼女の身体のラインをありのままに映し出すぴっちりとした黒のインナーウェア。大胆なホットパンツと同じ材質だ。


 靴は赤と黒のコンバットブーツで形状は、陸上競技用のスパイクシューズのようにスマートで流線型。しかし、そのソールには強力な電磁吸着機能と衝撃吸収機構が内蔵されており、壁走りや高所からの着地を容易にするだろう。つま先と踵の部分は『神武鋼』で補強されており、蹴りそのものが強力な武器となりえる。


 これらの服装だけでもストリートの小娘には無理な装備だ。そしてもっとも少女を危険視する対象へと目を向ける。


 少女はハンマーを担いでいた。見た目は洗練とは程遠い。それは『無骨』という言葉を具現化したような、暴力的なまでの存在感を放つ鉄塊だ。



 ヘッドは、黒曜石のように鈍く黒光りする、巨大な長方形のブロック。その大きさは小型のエンジンブロックに匹敵するだろう。素材は、境インダストリアルが秘密裏に開発したタングステン・カーバイドと合成ダイヤモンド繊維を織り交ぜた超高密度複合材『神武鋼じんむこう』が用いられている。この素材は、戦車の主装甲に匹敵する硬度と、驚異的な衝撃吸収・伝達能力を併せ持つ。
ヘッドの打撃面はフラットではなく、微細な凹凸加工が施されており、インパクトの瞬間に目標の装甲を点と線で捉え、応力を集中させることで亀裂を生じさせやすくしているのだろう。側面には、漢字で『凄乃王スサノオ』と荒々しい書体で刻印されている。


 総重量は推定で400kgを優に超えるだろう。これは並のサイボーグなら筋力増強サイバーウェアを最大出力にしても持ち上げることすら叶わない重さだ。全身義体フルサイボーグですら、これを武器として振るえる者は少ない。外部情報のスキャンだけでこの性能。内部機構に至っては解析することすらできない。


 
それを赤髪の少女は片手で軽々と肩に担ぎ、指先でクルクルと回してみせた。


 これほどの芸当を可能にするためにはどれだけのサイバーウェアを搭載しているのか。ヴィンセントのスキャンはありえない結果を表示する。


 生身。


 それは天地がひっくり返ってもありえない結果だった。バイオウェアであっても搭載された痕跡は残る。それを検知できないとするならば、生身と判定してしまうほどの超ハイグレード品を全身に置換していることになる。


 少女はヴィンセントの姿を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするように眺めた。そして、心底軽蔑したように鼻を鳴らした。


 「まあ、なんて醜悪な……趣味の悪いデカブツですわね。どこの企業の狗ですの? それとも、ただの金に目が眩んだ愚かな傭兵? どちらにせよ、イサナ様が愛でるこの庭を汚した罪は万死に値しますわ」


 その首には、艶やかな黒曜石の首輪が嵌められている。境の紋章が刻まれた所有の証。
ヴィンセントの脳裏に、一つの噂が閃光のように過った。イサナ・サカイが溺愛する生ける兵器。
異名は――『狂犬』


 直感が告げている。こいつだ。
タンクの重戦車を紙屑のように握り潰し、リズの脳を一瞬で焼き切った怪物は。


 「お前さんが、タンクとリズを殺した怪物か?」


 ヴィンセントは『斬火』の切っ先を少女に向けた。
少女はきょとんと目を丸くし、やがて呆れたようにため息をついた。


 「どうやら、囮作戦の生き残りのようですわね。……水母くらげ早苗さなえも、詰めが甘いですわ」


 ヴィンセントは思考する。タンクとリズを殺したのは、この少女ではない?
 タンクを潰した怪力女と、リズを焼いた凄腕ハッカー。その二人が囮(デコイ)の護衛に回っていたということは、本命であるイルカ・サカイの側に配置されたこの少女は――


 「……なるほどな。囮の二人よりも格上ヤバいってわけか」


 ヴィンセントは結論づけた。
最強の護衛を最も重要な場所に置く。当然の理屈だ。


 つまり、目の前のちんちくりんは二人を従えるリーダー格。境インダストリアルが誇る最強のカードだ。


 「どうやら、お前さんが『』だったようだな」


 ヴィンセントは笑い、全身のウェポンシステムのセーフティを解除する。



 少女は、ふふんと得意げに胸を張ると巨大なハンマーを片手でくるりと回した。


 「わたくしとしたことが、名乗るのを忘れていましたわ」


 彼女は優雅に一礼し、深紅の髪が揺れる。
その瞳には、無邪気さと残虐さの強烈な光が宿っていた。


 「わたくしは犬噛 蛍いぬがみほたる。イサナ様の忠実なる『玩具』であり『至宝』……これで、わたくしをお前さんと呼ぶ必要はなくなりましたわね。野良犬」

 「……俺の名前はヴィンセントだ」


 ヴィンセントは低い声で返した。


 「野良犬と呼ぶ必要はなくなったな」


 名乗り返したヴィンセントに対し、蛍は興味なさそうに鼻を鳴らした。


 「野良犬の名前など、いちいち覚えませんわ」

 「小娘が粋がるな。俺は子供と遊んでいる暇はない。イルカ・サカイはどこだ」


 ヴィンセントの挑発に、蛍の顔から笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、獲物を前にした捕食者の獰猛で残忍な表情だった。


 「イルカ様の名を、その汚い口で呼ぶことすら許しませんわ。あなたのような野良犬が気安く会える方ではございませんの……ですが、ご安心あそばせ? あなたがこれから見るのはイルカ様のお姿ではなく……」


 蛍は、その華奢な身体からは想像もつかない巨大なハンマーをヴィンセントに向ける。小型エンジンブロックほどもある、黒光りする鉄塊。その暴力的な存在感は、静謐な空気を一瞬で引き裂いた。


 「――地獄ですわ」









  「地獄、か。何度も見てきた」


 ヴィンセントの返答は、ハンマーの風圧にかき消された。犬噛蛍がハンマーを振り上げたのではない。ただ、巨大な鉄塊を畳の上にトン、と置いただけ。それだけの動作で、大気が震え、畳が悲鳴を上げ、床下の構造体が軋む音が聞こえる。常軌を逸した質量と、それを軽々と扱う少女の怪力。


 「あら? 何かおっしゃいまして?」


 理屈ではない。長年の戦闘で培われた傭兵としての直感が、最大級の警鐘を鳴らしていた。目の前の少女は、これまで対峙してきたどんな敵とも次元が違う。力も、速さも、そしてその身に宿す狂気も。


 ヴィンセントは躊躇わなかった。『阿修羅』過剰駆動オーバードライブを即座に起動する。思考が加速し、世界が静寂に包まれる。犬噛蛍の動きが、粘性の高い液体の中を進むように鈍化する。勝利への道筋は見えた。この速度差があれば、首を刎ねるのにコンマ1秒もかからない。


 ヴィンセントは床を蹴った。最短距離で蛍の懐に潜り込む。赤熱した『斬火』の刃が、静止した空間に紅い軌跡を描きながら、蛍の華奢な胴体を狙って水平に閃いた。狙いは完璧。手応えは……ない。ない!?


 刃は確かに蛍の身体を通り抜けた。赤いジャケットを、黒いインナーを、そして雪のような肌を両断したはずだった。しかし、そこに斬撃の感触は一切なかった。まるで、ホログラムか何かを切り裂いたかのような、空虚な感覚だけが手に残る。


 両断されたはずの蛍の姿が、陽炎のように揺らめき、淡い光の粒子となって霧散した。


「――残像ですわ」


 背後から囁き声が聞こえた気がした。



 ヴィンセントが振り返るより早く、凄まじい圧力が彼の全身を襲った。巨大な鉄の塊が、空気を圧縮しながら振り下ろされる際に生じる、純粋な暴力の塊。『阿修羅』による超感覚がなければ、認識すらできずに圧殺されていただろう。


 ヴィンセントは咄嗟に身体を捻り、後方へ跳んだ。身体を限界までしならせる。ハンマーのヘッドが、彼の鼻先を掠めて畳に叩きつけられた。



轟音はない。ただ、畳が、床が、そしてその下のコンクリート躯体までもが、音もなく陥没していく。もし直撃していれば、ヴィンセントの身体は分子レベルで粉砕されていただろう。


(俺の『阿修羅』より早いだと……!?)


ありえない。『阿修羅』は現行最強の過剰駆動オーバードライブのはずだ。これを超える神経加速器など存在するはずが……。


 ヴィンセントは犬噛蛍の背後に立つ。


 彼女の背中の皮膚の下で、三日月を模した青白い光の回路が脈打っている。振り返った蛍の瞳は冷たい青色の光を放っていた。

 


 蛍は逃さないとばかりに鉄槌を振り抜いた体勢のまま、彼女の左腕が変貌を遂げる。清廉な少女の腕が、分解・再構築され金色の回路が走るカノン砲へと姿を変えた。


過剰駆動オーバードライブ発動中の銃火器は、基本的に悪手だ。射出された弾丸は加速の影響を受けない。亀のようにゆっくりと飛んでいく。使い手によっては自滅しかねない諸刃の剣。ヴィンセントの戦闘データも、そう結論付けていた。



 だからこそ、ヴィンセントは信じられなかった。


 砲口が収束し、光の矢が放たれる。
それは、ヴィンセントが知る物理法則を完全に無視していた。



 凍てついた時の中を、速度を保ったまま一直線に突き進んでくる。純粋な熱エネルギーの塊が、光の槍となって空間を貫く。回避は、不可能。


 (馬鹿なっ!)


 絶体絶命。ヴィンセントに残された選択肢は、防御しかなかった。彼は迫りくる光の槍に対し、咄嗟に『斬火』の刀身を盾のように構えた。


 ゴウッ!という凄まじい音と共に、熱の津波がヴィンセントを飲み込んだ。



 『斬火』の刀身が、熱線を正面から受け止める。キィィン!という金属の悲鳴が、過剰駆動オーバードライブの中でありながら鼓膜を突き刺した。


 これがただの鋼の刀であれば、一瞬で蒸発していただろう。だが、『斬火』が高熱を発するサーマルユニットであるが故に、奇跡的にその形状を保っていた。それでも、刀身は限界を超えて赤熱しヴィンセントの腕を焼く。衝撃で吹き飛ばされ、茶室の壁に叩きつけられた。


 過剰駆動オーバードライブが限界を迎え、強制的に解除される。



 現実の時間が、暴力的に流れ込んできた。


 「ぐっ……はっ……!」



 全身を打撲と火傷の痛みが襲う。右腕の装甲繊維コンバットシャツは熱で溶け、皮膚にべっとりと張り付いていた。肺が酸素を求めて喘ぐ。『斬火』を握る手は感覚が麻痺している。背中の『阿修羅』は限界使用オーバーヒートのため排熱中クールダウンだ。


 ゆっくりと立ち上がったヴィンセントの目の前で、犬噛蛍は鉄塊を軽々と肩に担ぎ直し、つまらなそうに彼を見下ろしていた。



 「まだ生きていましたの? あなたのその刀、少しは上等な品のようですわね。わたくしの『天照』アマテラスを受けて、形が残っているなんて」



 彼女の背中の光は消え、瞳の色も元の紫水晶に戻っている。先ほどまでの攻防がなかったかのような涼しい顔だった。


 ヴィンセントの『阿修羅』と同じ稼働時間を過ぎたというのに排熱すらしていない。


 その時、ペントハウスの天井に埋め込まれたスピーカーから、神奈備AIの声が響き渡った。


 『理解しましたか、ヴィンセント。それが、我々が生み出した真の最高傑作。犬噛蛍です。あなたのデータは、すべて彼女を完成させるための礎となりました。あなたは、彼女のための捨て石。旧式のプロトタイプなのです』

「最高傑作、だと……?」

『彼女はあなたの上位互換。パワー、スピード、そして搭載されたサイバーウェアの質と量。あらゆる面で、あなたは彼女に劣る。あなたが見たくなかった現実です。ヴィンセント』


 神奈備の言葉は、ヴィンセントの心を抉るように響いた。だが、彼の心は折れていなかった。それどころか、絶望的な状況が、彼の魂に再び火を灯していた。


(旧式? 捨て石? ……上等じゃねえか)


 ヴィンセントは、焼け付く腕の痛みを無視して『斬火』を構え直した。バイザーの奥で、彼の目が挑戦的に輝く。


「だったら、見せてやるよ。旧式の欠陥品が、お前らの最高傑作をスクラップに変える様をな……!」









 ヴィンセントの不遜な宣言を聞いて、犬噛蛍はそれまでの冷たい表情を崩し、鈴が鳴るような声でくすくすと笑い始めた。その笑い声は静謐な空間に不気味に響き渡った。


 「ふふっ……あはははっ! 面白い! 実に面白い方ですわね、あなたは!」


彼女は心底楽しそうに、紫水晶の瞳を爛々と輝かせた。



「旧式が最高傑作をスクラップに? いいですわ。近頃の相手は、わたくしを見ただけで泣いて命乞いをするような腑抜けた虫ばかりでしたから。あなたのように、まだ牙を剥こうとする元気の良い方は久しぶりですわ」


 蛍は鉄槌を床に置き、優雅な仕草でヴィンセントに歩み寄った。その無防備な姿は、絶対的な自信の現れだ。



 「気に入りましたわ、ヴィンセント。どうです? 今からでも遅くはございませんわ。サカイに就職なさい。そして、わたくし専属のサンドバッグ……いえ、トレーニングパートナーになるというのは? 才能ある旧式を、最新技術でアップグレードして差し上げますわ。そうすれば、あなたももう少しは……わたくしを楽しませることができるようになるかもしれませんわよ?」


 その言葉は、ヴィンセントにとって最大の侮辱だった。誰かのペットになるなど、死んでも御免だった。



 「断る。俺はもう誰の犬にもなるつもりはない」
 

 「あら、残念ですわ。せっかく生かして差し上げようと思ったのに」


 
蛍は心底残念そうに肩をすくめた。その一瞬の隙を、ヴィンセントは見逃さなかった。


 床を蹴り、最短距離を駆ける。過剰駆動オーバードライブは排熱中で使えない。純粋な筋力と反射神経による、渾身の一撃。赤熱した『斬火』を頭上から振り下ろし、今度こそ目の前の小生意気な少女を脳天から叩き割る!


 刃が、蛍の額に触れる寸前でピタリと止まった。



 信じられない光景が、ヴィンセントの目の前で繰り広げられていた。


振り下ろされた『斬火の刃』を、蛍の華奢な右手の人差し指と中指の二本で、いともたやすく挟み込んでいたのだ。


「なっ…!?」



 ヴィンセントが驚愕に目を見開く。刃に込められた彼の全パワーと体重が、彼女のたった二本の指によって完全に殺されている。びくともしない。まるで、巨大な油圧プレス機に挟まれたかのようだ。


 「お話の途中でしたのに、性急な方ですわね」



 蛍は悪戯っぽく微笑むと、ヴィンセントの腹部を軽く蹴り上げた。


 
「ぐっ……!」


 
軽い蹴りに見えたそれは、攻城槌で打ち抜かれたかのような凄まじい衝撃を伴っていた。ヴィンセントの身体は「く」の字に折れ曲がり、数メートル後方まで吹き飛ばされて畳の上を転がった。手から力が抜け、『斬火』が蛍の手に残される。


 「ほう……これはなかなかの業物ですわね」


 
蛍は、奪い取った『斬火』をうっとりと眺めた。赤熱した刃の輝きが、彼女の紫水晶の瞳に映り込んでいる。



 「この美しさ、この力強さ……イサナ様に献上するのに相応しい逸品ですわ。きっとお喜びになるでしょう」



 彼女は恍惚とした表情で、刀身にそっと頬を寄せた。


 「……イサナの犬は、随分と金がかかっているらしいな」



 畳に手をつき、ゆっくりと身体を起こしながら、ヴィンセントは吐き捨てた。全身が軋み、内臓が揺さぶられたような感覚が残っている。


 その言葉を聞いた瞬間、蛍の表情からうっとりとした色が消え、むっとした不機嫌さが浮かんだ。

 

 
「……今、何と仰いました?」


 「聞こえなかったか? イサナの高価なペットだな、と言ったんだ」

 
「……イサナ様を呼び捨てに……」



 蛍の纏う空気が、殺意が、先ほどとは比較にならないほど密度を増して空間を満たしていく。だが、蛍は怒りをすぐに収め、ふっと息を吐くと傲然と胸を張った。


 「ええ、その通りですわ。わたくしはイサナ・サカイ様が所有する、最も高価で、最も美しく、最も忠実な犬ですわ。あなたのような野良犬には、その素晴らしさが万分の一も理解できないでしょうね」



 彼女はヴィンセントを見下し、憐れむような目で語り始めた。

 

 
「絶対的な主人から与えられる寵愛。その御心一つで生殺与奪のすべてを委ねるという、至上の悦び。主人を守るためだけに牙を剥き、その足元で喉を鳴らす幸福……わたくしはそのために生まれ、そのために生きていますの。あなたのような目的もなくただ彷徨い、誰にも繋がれていない孤独な野良犬とは、存在の次元が違いますのよ」


 蛍は『斬火』を鞘に納め、腰に差した。まるで最初から自分の物だったかのように。



 「ご存じないようですから教えて差し上げますわ。この世界に、野良犬の居場所なんてありませんのよ」

 「……ここにいるさ」


 ヴィンセントはよろめきながらも、再び両足で立った。その姿は満身創痍。だが、その瞳の光は少しも衰えていなかった。


 「野良犬は、群れず、媚びず、飼いならされず……己の牙だけを信じて生きる。企業の鎖に繋がれたお前のような番犬には、一生理解できんだろうな」


 その言葉が、最後の引き金となった。


 「……そうですか。では、その汚らわしい野良犬も」


 
彼女はゆっくりと右腕を掲げた。



 「今日、この場で絶滅させて差し上げますわ」


 彼女がそう宣言した瞬間、その華奢な右腕が変貌を遂げる。



 腕全体に赤い回路パターンが血管のように浮かび上がり、偽装皮膚が再構築され、瞬時に肥大化・硬質化していく。腕は元の二倍以上に膨れ上がり、指先は鋭利な鉤爪へと変形する。黒光りする耐熱セラミック装甲に覆われた、無骨で巨大なサイバーアームへと姿を変えた。関節の隙間から地獄の窯のような赤橙色の光が漏れ出し、周囲の空気を歪ませる。


 「火具土カグツチ展開完了。さあ、覚悟はよろしいかしら? これがわたくしからの『敬意』と『殺意』ですわ」







 『敬意』と『殺意』その言葉の意味を、ヴィンセントは全身で理解していた。目の前で変貌を遂げた黒鉄の火具土。一見すると最高級の『金剛腕』シリーズである『鬼手』に似ている。しかしその実態は月とスッポンよりもかけ離れていた。純粋な破壊のためだけに存在する、死の具現だ。脳に直結されたサイバーウェアが、危険信号をけたたましく鳴らし続ける。生存確率は限りなくゼロに近い。


 いや、ゼロであってもだ。


 (野良犬はな……死ぬと分かっていても、牙を剥くもんだぜ)


ヴィンセントは、残された最後のカードに全てを賭けた。右腕は焼かれ、刀は奪われた。だがまだ左腕が残っている。


 左腕の『手筒』が起動する。通常であれば単発式のこの兵器を、ヴィンセントは己の技術の粋を集めて改造していた。オーバーチャージと連続発射機構。一度の戦闘で一度きり、自壊のリスクすら伴う彼の奥の手。


「喰らいやがれッ!!」


 咆哮と共に、五つの太陽が連続して撃ち出された。砲身が悲鳴を上げ、腕の装甲に亀裂が走る。一発一発が小型の爆弾に等しい熱エネルギー弾が、犬噛蛍へと殺到する。


 もはや回避する空間も時間もない、絶対必中の飽和攻撃。


 しかし、犬噛蛍はヴィンセントの予測を嘲笑った。



 彼女はその場から消えた。
否、真上に「跳んだ」のだ。



 凄まじい轟音と共に、彼女の足元の畳が爆ぜるように砕け散る。彼女の身体は、垂直に打ち上げられたロケットのように天井へと到達し、蜘蛛のようにその四肢で天井に張り付いていた。



 ヴィンセントが放った五連の熱弾は、彼女がいた空間を虚しく通り過ぎ、背後の壁に着弾。ペントハウスを揺るがすほどの爆発と熱波を巻き起こした。


 「……中々楽しめましたわよ」


 天井から、少女の楽しげな声が降ってきた。逆さまになった彼女の赤い髪が、重力に逆らうように揺れている。

 紫水晶の瞳は冷たくヴィンセントを捉えていた。


「あなたのそのしぶとさ、嫌いではございませんでしたわ。最後の花火も綺麗でしたし」


 それが、最後の言葉だった。



 蛍は天井を蹴った。それは落下ではない。隕石の如き、意志を持った突撃だった。空気の壁を突き破る甲高い音と共に、彼女は一直線にヴィンセントへと向かってくる。巨大な右腕を槍のように突き出して。


 ヴィンセントは、迫り来る死を真正面から見据えていた。もはや避ける術はない。『阿修羅』は排熱クールダウン中。身体は満身創痍。彼はバイザーの奥の瞳で、自分を殺す最高傑作の姿を焼き付けようとしていた。


 次の瞬間、彼の世界は灼熱と衝撃に支配された。


ズドン、という肉を抉る鈍い音。黒光りする巨大な鉄の拳が、ヴィンセントの胸部を、低赤外線放出ベストも、その下のキチン皮下シェルも、チタン骨格さえも紙のように貫いていた。


 「ぐ……あ……」


 口から、血の塊がごぼりと溢れた。胸に巨大な杭を打ち込まれたかのような衝撃。


 だが、本当の地獄はそこからだった。


 貫いた拳の内部から、超圧縮されたプラズマの熱エネルギーが体内に直接叩き込まれる。内側から焼かれる。肺が、心臓が、内臓が、一瞬にして沸騰し、蒸発していく感覚。痛みさえも焼き尽くす、絶対的な破壊。


 ヴィンセントの耳元で、蛍が囁いた。


 
「光栄に思いなさい、野良犬。あなたの戦闘データは、イサナ様とサカイの礎となるのですから。あなたは無駄死にするのではなくてよ……もっとも、あなた自身がそれを知ることは永遠にございませんが」


 ヴィンセントの視界が急速に白んでいく。


 ヴィンセントの身体から力が抜け、蛍の腕に貫かれたまま崩れ落ちていった。

 

 『……抹殺対象、ヴィンセントの生命バイタル停止を確認。これより、対象の戦闘データを回収します。至急、解析班によるデータの確保を』


 天井のスピーカーから、神奈備の無機質な声が響いた。


 
蛍は、ヴィンセントの亡骸を貫いたままの火具土カグツチをゆっくりと引き抜いた。胸に巨大な風穴が空き煙を上げる身体が、糸の切れた人形のように畳の上に崩れ落ちる。


 『犬噛蛍。素晴らしい手際です。完璧な任務遂行能力。そして……脳をほぼ無傷で残していただけるとは。感謝します。彼の戦闘経験と反射パターンは、極めて貴重なサンプルとなります』



 AIの賞賛に、蛍は興味なさそうに鼻を鳴らした。


 肥大化した火具土カグツチは元のしなやかな腕に戻り、彼女はヴィンセントの亡骸を一瞥もせずに背を向けた。


 「別に、あなたのために残してあげたわけではございませんわ」



 彼女は奪った『斬火』の柄を撫でながら、冷たく言い放った。



 「この男の動き、少しは歯応えがありましたから。このデータを使って、わたくし専用の、もっと手強いトレーニング用ロボットが一体欲しいと思った……ただそれだけですわ」


 その時だった。


 
戦いの熱も、血の匂いも、まだ生々しく残るその部屋に静かな足音が響いた。
庭園の奥、居住区へと続く襖がゆっくりと開かれる。


 そこに立っていたのは、ノースリーブのショートジャケットにホットパンツというラフな格好で、ダークブラウンのショートボブに毛先がアクアブルーの女性。サイバーウェアの痕跡がほとんど見られない、親しみある顔立ち。その大きな垂れ目は、目の前の惨状―――無残に転がるヴィンセントの死体と、その傍らに立つ犬噛蛍の姿を、驚きと、そして何か別の複雑な感情を宿して、静かに見つめていた。


 「……えっと……これは一体どういうことなのかな? 蛍さん」


 イルカ・境がそこにいた。

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