忘却に立ち会う
板垣鳳音
忘却に立ち会う
深いため息が聞こえる。そのため息は、隣に座る男性から発せられていた。
50代半ばと思われるその男性の顔はやつれており、疲れ切っているように見えた。
冷たい風が吹き、雪がちらつきそうな季節。そんな季節でも私が座るこの場所は、ショッピングモールに設けられた屋上庭園だ。
アスレチックや大型滑り台が設置されているため、数年前は休日になるたびに幼い息子を連れて遊びに来ていた場所である。今はもう息子も進学し、親と遊ぶことはなくなってしまったが、ここに来るとその時の楽しかった日々を思い出す。
ふと、隣の男性のことが気になり、横目で様子をうかがう。先ほどため息をついた時より泣きそうになっている様子の彼を、なぜか放っておけなかった。
「大丈夫でしょうか?もしよければ話を聞きますよ」
「え、えっと、私ですか?」
男性は驚いた様子でこちらを見ている。それもそうか、突然声をかけられたら誰でもそのような反応をしてしまう。
「何か悩んでいるように見えてしまって……すみません、なんとなく放っておけなくて声をかけてしまいました」
私は前に向き直り、屋上庭園に咲くクリスマスローズを眺めた。しばらくすると男性はぽつりぽつりと話し始める。
「仕事ばかりで家庭を疎かにしてしまいまして、結果妻に離婚されてしまいました。そんな矢先に母が認知症と診断されてしまいまして、目が離せないので現在休職して介護しているのですが……」
「大変ですね。ちゃんと眠れていますか」
「いえ……夜中でも目を覚ますと外に出て行ってしまって、そのまま帰って来れなくなってしまうので」
「何か福祉サービスを利用してみては?」
「施設入所や老人精神科への入院も考えていましたが、なかなか空きがないんですよ」
「無理をしないでくださいね。あなたは優しそうだから。知らないうちに自分を追い込まないで」
そう言うと男性は、突然号泣し始めた。
私はその背中をただひたすらに撫でていた。
「今まで家族が楽して暮らせるように必死に働いてきました。少し寂しい思いをさせてるかと心配になって聞いたこともありましたが、そんなことはないと言ってくれました。結果、他に男が出来たと離婚し、娘を連れて出て行ってしまいました。母の認知症がわかったのも急だったので、仕事を休まないといけなくなり、今まで仕事で築いたポジションや信頼は一気になくなりました。正直、今後どうしたらいいかわからない」
「……」
そういえば、息子も就職した頃は熱意ややりがいに満ちていたな。あれ、まだ幼いのに、就職なんてしていたかしら。
「話を聞いてくれてありがとう。そうだ、あなたは優しい人だった」
そう言って男性はしばらくすると涙も収まり落ち着きを取り戻したように見えた。
空からはちらちらと小さな雪が降ってきた。
「雪が降って来たね」
呟いた男性は立ち上がり、深呼吸をしてこちらに向き直った。
「家に帰ろう、母さん」
私はその男性の手を取りゆっくりと腰を上げた。
了
忘却に立ち会う 板垣鳳音 @118takane
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