賽は投げられた。だが、ルビコン川は渡れない
アイリッシュ・アシュモノフ
賽は投げられた。だが、ルビコン川は渡れない
令和八年一月五日、月曜日。仕事始め。
所長のありがたい訓示から、今年の業務が始まった。
ありがたいとは言うものの、話の中身は毎年ほとんど同じだ。
要するに「今年も頑張ろう」という話を、十数分かけて聞かされる。
いい加減、足がしびれてきた。
――こんな時間が、この先もずっと続くのだろうか。
物書きとして成功すれば、こんな話を聞かなくても済む。
そう思うと、やはり作家という生き方に、うっすら憧れてしまう。
だが、次の瞬間には現実が割り込んでくる。
固定給がなくなる。
家賃が払えない。
電気が止まる。
原稿用紙の代わりに、借金の督促状が積み上がる。
――無理だ。
結局のところ、僕は不安定な生活に身を投げられるほど、
肝が据わった人間ではない。
精神も胃腸も、そこまで丈夫には作られていない。
だからといって、今の自分に満足しているわけでもない。
所長の話を聞き流しながら、
僕は「自分はいったい、なにになりたいのか」を考えていた。
そのとき、『13歳のハローワーク』の一節が、
ふいに頭をよぎった。
__
13歳から「作家になりたいんですが」と相談を受けたら、
「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、
とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」と
アドバイスすべきだろう。
医師から作家になった人、教師から作家になった人、
新聞記者から作家になった人、編集者から作家になった人、
官僚から作家になった人、政治家から作家になった人、
科学者から作家になった人、経営者から作家になった人、
元犯罪者で服役の後で作家になった人、
ギャンブラーから作家になった人、
風俗嬢から作家になった人など、
「作家への道」は作家の数だけバラエティがあるが、
作家から政治家になった人がわずかにいるだけで、
その逆はほとんどない。
つまり作家から医師や教師になる人はほとんどいない。
それは、作家が「一度なったらやめられないおいしい仕事」だからではなく、
ほかに転身できない「最後の仕事」だからだ。
(中略)
作家の条件とはただ1つ、
社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、
伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。
伝える必要と価値のある情報を持っていて、
もう残された生き方は作家しかない、
そう思ったときに、作家になればいい。
__
出典:村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬舎)
知識として、作家という職業は、
行き着く先の「最後の仕事」らしい。
しかも、食えない。
楽をしてお金を稼ぎたい僕とは、
見事なまでに噛み合わない。
ここまで考えて、
普通なら「作家になるのは、やめておこう」で話は終わる。
そもそも、スケベな娯楽小説で一旗揚げようとしている僕が、
人生100年時代を最後まで生き残れるベストセラーを
書けるとは到底思えない。
冷静に考えれば、作家という道は、最初から詰んでいる。
結局のところ、
今の生活とは違う、なにか別の幻想を追いかけているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせて、
官能小説家という夢は「ただの憧れ」として棚に上げる。
今のように、
パチンコや競馬といった安い娯楽に日々溺れながら、
生活のための仕事を抱えたまま、
好き勝手に創作しているくらいが、僕にはちょうどいい。
少なくとも、失敗して路頭に迷う心配はない。
自分に才能がないことを、
ゆっくり確認しながら歳を取れる。
しかし、
このまま一生「趣味でポルノ小説書いてます」で終わるのは、
なんとも情けない話だ。
プロへの憧れは嘘ではない。
別にベストセラー作家になりたいわけではない。
ただ、何かしらの形で認められたいのだろう。
せめて一度くらい、
胸を張って「書いた」と言える場所に立ちたい。
もし本が一冊出せたなら、
それが人生のハイライトになっても、罰は当たらない。
だから、僕は書き上げたポルノ小説を
コンクールに投稿し続ける。
賽は投げられた。
評価されたら、どうしよう。
いや、今回も要らぬ心配だろう。
でもよく書けている。自信は、なくはない。
どうか今回も評価しないでくれ、
という祈りも、胸のどこかにある。
僕はまだ、ルビコン川を渡りたくない。
渡った先に、きっと破滅があることを知っている。
借金に追われ、締切に追われ、数字に追われ、
「好きで書いていたはずの文章」が
嫌いになる瞬間を、想像してしまうからだ。
今は、夢に身を焼かれるほどの覚悟はなく、
かといって、何もせずに老いる勇気もない。
中途半端で、臆病で、
それでも筆だけは置けない。
まぁ、結局のところ、
背中を押されたら進んでしまう程度には、
この夢を手放せずにいる。
だからせめて、
進むときは、ちゃんと自分の足で踏み出したい。
その時は、派手に失敗してみたいと思う。
賽は投げられた。だが、ルビコン川は渡れない アイリッシュ・アシュモノフ @ddd2000
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