ep 自由
深い青に染まる水面に、コーヒー特有の豊かな香り。
試飲用の小さなカップでひと口含むと、突き抜けるような爽やかな味わい。ほのかに残る独特の苦みとコーヒーの香りが複雑な余韻を残す。
うん、これはなかなか。
めずらしいコーヒー豆を伝手で買い付けることが出来たので、試飲もかねて淹れている最中のこと。
ことさらにゆっくりと扉が開き、遅れてからんからんと音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
そっと開いた扉の隙間から伺うように顔をのぞかせる男性に、わかりやすいように手で店を示すように。恐る恐る入ってきた男性はお腹の辺りで何かを守るように抱えている。
「どうぞ、おかけください」
「あ、はい」
男性は大事そうに抱えたままカウンター席へと腰かけた。
近づくとその正体が分かった。カメラだ。
そうっと手で包むように抱えるそのカメラはかなり使い込まれているようだがきれいに磨かれていて、とても大切にされていることがうかがえる。
「どうぞ、よろしければこちらに」
「!…ありがとうございます」
とはいえ、そんな大事なカメラを抱えたままに飲食もしづらいでしょう。
たたんだブランケットをクッション代わりにカウンターに置くと、男性はカメラをひと撫でしてその上に置いた。
「僕の趣味を許容して下さる方はいますが、こんな風にカメラごと大切にしてもらったのは初めてです」
「おや。ふふ、わたくしにはお客様と一心同体の相棒のように感じられたものでしたから」
「…ありがとうございます。嬉しいです」
「ふふふ」
冷たそうな印象を与える表情が和らぎ、穏やかな雰囲気になる。
ぐっと寄せられていた眉間のしわがなくなると存外幼げな顔立ちをしている。
「どうぞ。本日のコーヒー、サファイアの目覚めでございます」
シンプルな白のボーンチャイナ。そこに文字通り色を添える一杯のコーヒー。
「え、これ、コーヒー…ですか?」
「ええ。とある農家さんでのみ扱っている特別な青いコーヒー豆を贅沢に使った一杯でございます」
「へえ。…わ、なんだこれ」
まずカップを染める美しい青に驚き、ついで口にしたコーヒーの味わいに驚く。立て続けにくらった2度の衝撃に思わず声が漏れ出る。
お顔立ちからうかがえる幼さといい、思っていたよりもお若い方なのでしょうか。
「いかがでしょう」
「はじめはびっくりしたんですけど…、うん、美味しいです。すごい、なんだろう、コーヒーであることは間違いないのに、もっと複雑で…」
「わたくしも先ほどいただきましたが、確かに味わい深いお味でしたね。この美味しさを的確に表現するには、恐れながらわたくしではまだ経験が足りず」
「そんな、僕こそすごいと美味しいしか言葉が出なくて。でも、本当に美味しいです。なんか悩みもすっ飛ぶような…」
確かめるように2口、3口と飲み進める。
来店時とは打って変わって晴れやかな表情だ。こころなしか声も明るくなったように感じる。
「お悩み、よろしければお伺いしても?」
「え、ええ、もちろん。まあ、大したことじゃないと言われればそうなんですが…」
ぽつぽつと話し始める。
どうやら自由にはばたくための一歩を求めてこられたよう。
「僕は趣味で写真を撮っているんです。普段はいくつかバイトを掛け持ちして生活をしていて、ある程度お金がたまったら旅行に行ってそこの風景や人の営み、料理なんかを撮ってブログにあげたりコンテストに出したり」
「なるほど、写真家さんでしたか」
「いえ!写真で生計が立てられるようなレベルではないので、僕なんてまだまだ…!」
「では、写真家見習いさん、ですね」
「そ、そうですね。はは、なんか気恥ずかしいですけど」
ごまかすようにコーヒーをすすって固辞する男性。
写真家、というプロフェッショナルへの憧れや意識は強そうだ。
「ええっと、それで、僕は学生時代からやっているブログがあって、そこにぽつぽつ反応してくれる人もいるんですが…」
「ふむ」
「その中のひとり、ずっと昔から応援してくれている方がいて。たまにコメントをくれたりして、ずっとありがたいなって思っていたんです」
「ファンの方、ということですね」
「そうなんです。いえ、そうだった、かな」
すっと声に滲むように影が落ちる。
「つい先日、その方からコメントがありました。あるコンテストに応募したけど残念ながら落ちてしまったという投稿をした時です。…何年も見ているけれどお前に才能がないのは明らかだ。そろそろ現実を見て就職でもすればいい。お前には向いていない。…そんな内容でした」
「…」
「それを読んでわかったんです。ああ、これは父だ。父のコメントだ、って」
「そう、でしたか」
ぽたり。
カウンターに雫が落ちる。
「父に見られていたことも、知らずに励まされていたことも、最後みたいにキツイ言葉を浴びせられたことも。全部全部、情けなくて恥ずかしくて悔しかった…!」
「…ええ」
「たしかに、たしかに僕には才能がないんでしょう。父からすればいつまでもフリーターのまま夢を追い続けているのは将来性がなくて不安で、僕にコメント主であることがバレたとしても、それで僕が傷つくことも恨まれることも承知で、それでも僕の為にキツイ物言いをしたんでしょう」
「…」
「わかっているんです…!だって、このカメラは父がくれたもので、僕の撮った初めての写真をとても喜んでくれて、いまも部屋に大切に飾ってくれているのも父で…っ」
ぼたぼたと机を濡らす粒が、嗚咽を含んで大きくなる。
哀しい、という文字を、アイ、と読むのはなぜだろう。ふとそんなことが頭をよぎった。
「はじめは恨みました。荒れて、飲めもしないお酒を流し込んだり…。バイトも、無理言って数日お休みをいただいたりして」
ごうと恨めしく燃え上がった火が、でも。と続く言葉にかき消された。
「それ以上に、僕をずっと応援してくれていた父にそんなことを言わせてしまった…!…なのに、それでも!僕は写真を撮りたい!趣味で、なんて予防線を張ってしまったけど、本当はプロの写真家になりたい…っ!」
「…」
「…そのためにできる事を、すべきことをずっと考えていました」
「…なるほど。そのご様子だと、もう決めていらっしゃるのですね」
「はい。このお店にたどり着いたときに」
そっとカメラを撫でる。
やさしい手に決意が満ちる。
「僕は夢を追います。今は父を悲しませることにはなるだろうけれど、きっと未来でいい思い出に出来るように、ただ頑張るだけです」
「では、」
「僕の記憶の買い取りをお願いします。…父を憎んだ記憶はこのまま、抱えていたいと思います。最初は、苦しい記憶だし父を恨みたくなるような記憶なんて無くしてしまいたいとも思ったけど、この気持ちが僕を駆り立ててくれると思ったので」
「ええ」
「まあバカやった記憶とか、探せばきっといろいろあるでしょうし、それで少し足しにして、思い切って海外にでも行こうと思います」
「そうですねえ。ええ、それもよろしいでしょう。環境を大きく変えると道が切り開かれる、という話は往々にしてありますから」
はいっ!と明るい声と共にあげられた顔は晴れやかで。少し不器用にゆがんだ、しかしたしかな笑顔に彩られていた。
◇
「それでは、受賞者のスピーチをお願いします!」
冴えわたる空の下。実家から遠く離れた異国の地で、僕は壇上に立ちマイクを握っていた。
僕の背には大きく引き伸ばされた1枚の写真。風を切り裂いて大空へと舞う小さな鳥の大胆な姿。
「この度は、こんなに素晴らしい賞を受賞できたこと。心より光栄に思います」
借りていた家で荷物を整理していた際に窓辺から入り込んできた小鳥が部屋へ飛び込んできて暴れたことがあった。
その時に落としてしまった缶から、ひそかにコレクションしていた様々な包装紙の切れ端が宙に舞って驚きつつも、その紙吹雪に見惚れた時のこと。部屋中を飛び回った小鳥が、色とりどりの紙吹雪を巻き上げて窓から部屋を飛び出した瞬間のこと。
「気づけばシャッターを切っていて。とっさのことで僕自身、カメラを構えた記憶もないくらいに…」
小さくとも力強く。
羽ばたく翼とその光景の美しさに、我に返った後確認してみたら、自分でもびっくりするぐらいいい写真が撮れていた。
ああ、思い切ってよかった。
あの鳥のように、飛び出してよかったと、心から思う。
「この感謝を皆さんに。そして何よりも僕にこの無二の相棒をくれた父に、感謝します。本当にありがとうございます」
わああ、と歓声と拍手が巻き起こる。通訳さん越しに司会者のコメントが温かく降り注ぐ。
たとえ言葉が通じなくても、写真という切り取られた一瞬の美しさが、僕の気持ちが伝わって、世界に響く。
この素晴らしさを、生涯忘れまいと心に誓った。
◇
どこかの星の青年が、海外で大きな賞を取ったと話題になった。
すべてが突然のことで奇跡の一枚だと彼は語ったが、その真摯で誠実な姿勢に多くの称賛の声が寄せられたという。
「めでたしめでたし」
磨かれたカウンターに空のコーヒーカップを置いて、パシャリ。
「うーん、わたくしの腕はまだまだですねえ」
すこし被写体のぶれた、ありふれた1枚を見てごちる。
バイトくんの端末を借りて取ってみたけれど、やはり本職には遠く及びませんね。
「まあ、これも味ってやつですよぅ!たぶん!」
「おや、ふふふ。ありがとうございます」
バイトくんに借りた端末を返し、今日のコーヒーの準備に取り掛かる。
「さて、本日もよろしくお願いいたします」
「は~い!」
向き不向きもありますし、何より好きこそもののなんとやら、です。
今日も最高の一杯をご提供できるよう、腕を振るうとしましょう。
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