繭 <自書版>
ミスミ
第1話 Side.Kisaki
晴れた日の空に雲はなく、風が吹けば桜が舞う。
私は春の匂いが好きだった。少しだけじっとりとしたあたたかな空気が、草木や土の匂いを香り立たせる。桜の花弁は、強く吹く風に剥がされても、春の雨で色褪せてしまっても、何もなくても、静かに散っていくものだ。綺麗だった桜の花々も、一度散ってしまえば元の綺麗な花には戻れない。
それが儚く、美しいのだという人もいるが、私にはよくわからない。
昼の時間はとうに過ぎていても、学食のカフェテラスはいつも騒がしい。ぼんやり空を眺めていた私は、手元のスマホのわずかな振動で、すぐに現実に引き戻される。
『週末の新歓、予定大丈夫だよね?』
文字は良い。相手の顔が見えないし、自分の顔も見られなくて済む。気が緩んでいても、それを気取られる心配がない。
『うん、大丈夫だよ! 楽しみだよね』
私はほとんど無心で、そう打ち込んで送信した。
新入生歓迎会は、毎年二年生が新入生に向けて催すものだ。普段は交流のない他の学科と合同で行うから、二年生にとっても良い交流の場になる。しかしその分、色んな思惑を持った大勢の人が集まるということでもある。
アルコールの入る場だし、自分の身は自分で守らないといけない。かといって、その場の空気を無視するわけにもいかない。
それを思うと、今から憂鬱で仕方がなかった。
四限が空きコマで、五限の講義は国語教育科の授業論。
今日の講義では、隣の席同士でケースワークを行うことになっていた。この講義では席順は既に決められていて、隣の席には
「俺はここ、先に説明をしないで子どもたちに一度考えさせても良いと思うけどな。子どもたちの理解度を、教師の側が確認できるタイミングにもなると思うし。逆に、
彼は理知的で真面目。いつも冷静で、良くも悪くも感情を表に出しているところはあまり見たことがない、穏やかな人だ。
私のことは、本当に同じ学科のペアワークの相手くらいにしか思っていないのだろう。それ以上の“欲”を、視線や言葉に滲ませてくることがない。だから、彼が隣にいると気が休まる。必要以上の警戒はいらないのだと思える。
「たしかに、言われてみればそうかも……。でもここ、あまり時間をかけすぎると進み悪くなっちゃうかもと思って。この単元、そんなに時間使えないから」
彼にとってはたぶん、これで良かったはず。彼は私の顔などそもそも見ていないだろうから、同じように彼の顔を見ていない返しのほうが、きっと彼には合っているはずだ。
「それもそっか。なら、宿題を工夫すれば理解度を測れるかな。あ、いやでもそれだと負担になるか……」
良かった、合っていたみたい。
彼とのケースワークはいつも怖いくらいに順調に進み、時間が余ることが多い。今日も相変わらず予定時間よりもいくらか早く課題を終えた。
その空き時間を使って、今日は少し話をしてみることにした。
「あのさ、朝桐くん。週末の新歓、来るよね?」
「え、あー……行ったほうがいいよね、やっぱり」
その返しからすると、行くつもりではなかったらしい。
新入生歓迎会は参加人数が多いから、参加しない人が何人かいても運営上の問題はないし、そもそも強制参加というわけでもない。だから彼のように不参加を選ぶことも、別に珍しいわけではない。
「そりゃあそうだよ。私たちだって、去年は先輩に歓迎会してもらったんだから、今年は私たちの番でしょう?」
彼に参加してもらえれば、私の憂いも少しは晴れる。彼のような理性的な人間がその場にいれば、度を超えた盛り上がりにはならないだろう。私が同期に絶対参加してほしいと言われているように、私も彼には是が非でも参加してもらいたい。
「それはそうだけど、俺あんまり他の学科の人と関わりないしなぁ」
「ほら私、私もいるから」
「鷹条さんは、俺一人に構ってる場合じゃないでしょ。むしろ俺が話しかけてても邪魔じゃない? 楽しめないでしょ」
いや、むしろ邪魔してほしいから誘っているのに。
今はフリーの私は、絶対狙われる。これまでだって、彼氏がいたのに誘ってくる輩がいたくらいだ。しかも何人も。その気がまったくない彼が、そういう輩の邪魔をしてくれた方が、私としては気が休まるのに。
だけどそれを直接言うのは、あなたを利用していますと公言するようなものだ。あまり称賛された行いではない。
「いや、あの、楽しんでもらうのは私たちじゃなくて、一年生たちだから。人手は多いに越したことはないしさ。……そんなに嫌かな?」
「嫌ってわけではないけど……」
これでもまだ首を縦に振らない。今の上目遣いは大抵の相手には通用するんだけどな。私に下心がある相手にだけ通用するんだろう。だから彼にはあまり響いてないんだ。となると、彼に対しての効果的な餌は……。
「今度レポート手伝うから、今回は私を手伝うと思って。ね、ダメ……?」
そう言うと、彼は少しだけ思案するように視線を外して、また視線を私に戻す。そしてやはり、にこりと笑うこともせず、だけど少し諦めたような表情を浮かべて口を開いた。
「わかった。行くよ」
それを聞いて、私は思わず安堵のため息が漏れる。
別にデートの誘いでも何でもないのに、何をそんなに緊張していたんだか。我ながら呆れてしまう。だけどそれくらい、私は新入生歓迎会に参加したくなかったのだろう。
「ありがとう。約束だからね?」
私がそう冗談めかして微笑むと、彼も少しだけ、口元を綻ばせたように見えた。
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