第6話 治療院づくり:薬草と台所と居場所
村の井戸の前に大鍋が据えられ、朝から湯気が上がっていた。薪は貴重だ。だから村人たちは交代で火を守り、煮えた湯を桶へ移し、各家へ分けていく。昨日まで当たり前だった水が、今日からは警戒の対象になった。
「薪がもたねえぞ」
誰かがぼやいた。すぐ隣で別の誰かが言い返す。
「もたなきゃ死ぬ」
俺は鍋の縁に手をかざし、湯気の匂いを嗅いだ。木の煙と湯の匂いは、まだまともだ。黒祝の刺す臭いは混じっていない。煮沸が効いている証拠だった。
村長ゲオルグが鍋の縁を叩き、声を張った。
「煮た水しか飲むな。粥も、スープもだ。子どもに先に回せ」
不満は出る。薪が減る。手間が増える。それでも誰も逆らわなかった。首筋に黒い線が出た少年が、村の真ん中で呻いているのを見ているからだ。
俺は鍋から少し離れた場所で、木炭を握っていた。紙は村の帳簿の切れ端。薄いが、今はこれでいい。俺は左端を二度なぞり、印を付ける。奪われないための癖だ。
ミーヤが薬籠を抱えて近づいた。そばかすのある頬が、朝の冷気で赤い。
「グレイ先生。水を煮るだけで本当に変わるの」
先生、と付けたのはからかい半分だろう。だが俺は否定しなかった。呼び名は道具になる。道具は揃えるほど強い。
「変わる。媒介を細くすれば、黒祝は増えにくい」
「黒祝、黒祝って……村の人に聞かれたら怒られるよ」
「怒られても、死ぬよりましだ」
俺が言うと、ミーヤは口を尖らせたが、目は逸らさなかった。
「でも薪が足りないって言ってた。どうするの」
「各家で煮るから無駄が出る。治療院に台所を作る。そこでまとめて煮る。湯も粥も、薬湯も」
ミーヤが目を丸くした。
「治療院に台所?」
「治療は薬だけじゃない。温いものを腹に入れさせる。それが一番早い」
俺は鍋を見上げた。湯気は村の空へ消えていく。消えるなら、同じ火で多くを温めた方がいい。
村長が眉を上げた。
「今日は何する」
「治療院を作る」
◇
治療院に選んだのは、集会小屋の隣の使われていない倉だった。扉は歪み、窓は割れている。だが屋根はある。屋根があれば始められる。
村長は少し考え、頷いた。
「好きに使え。だが壊したら直せ」
「直す」
追放者の仕事は、壊されたものを直すことだ。俺は倉の扉を押し開けた。埃が舞い、古い麦の匂いが鼻に刺さる。床は湿り、壁の隙間から風が入ってくる。
ルゥが肩で鼻を鳴らした。
「ここ、寝るよりはましだけど、治療には臭いな」
「掃除する」
俺は箒を探し、ミーヤに布を頼んだ。村の女たちが古い麻布を持ってきてくれた。彼女たちは俺を信じていない。だが少年の息が少し楽になったのは見ている。信じる前に、結果に賭けている。
倉の床を掃き、壁の隙間に藁を詰め、窓に布を張る。やることは単純だ。単純なことを積み重ねるのが、命を守る一番の近道だ。
床を拭く水も煮たものを使った。汚れを落としても、汚染を塗り広げたら意味がない。ミーヤが面倒くさそうに言った。
「床まで煮た水?」
「意味はある。水の中に混じるものは、目に見えなくても人を弱らせる」
ミーヤは口を尖らせたが、手は止めなかった。
昼前、倉の中に粗い長机が二つ運び込まれた。片方は診察台にする。もう片方は薬草と湯の置き場だ。俺は棚板を拾い、釘を打ち、薬草置き場を作った。ミーヤが薬籠を置き、勝手に分類を始める。
「ヨモギはここ。スギナはここ。あんたの言う塩はここ。いい?」
「いい。だが匂いが混ざるから、乾燥薬草は布で包め」
「分かったよ、先生」
先生、と言いながら、ミーヤの手は早かった。口が軽いのは困るが、手が動くのは強い。弱みは強みに変えられる。口の軽さは、情報も早く集める。
俺は倉の隅に小さな火鉢を置かせ、鍋を吊れるようにした。台所だ。治療院に台所は必要だ。薬湯も粥も、体を支えるには温いものが一番効く。
「塩と油があるなら、灰も集めろ」
俺が言うと、村の女が怪訝な顔をした。
「灰?」
「手を洗う。灰と油で汚れが落ちる。傷を触る前に必ず洗え」
白耀教の祈りより、まずは手だ。祈りが効く時もある。だが手はいつでも効く。
◇
夕方、少年が運ばれてきた。家の寝台から降ろされ、毛布に包まれている。村人の顔がこわばっていた。ここに集めるということは、村が病を直視するということだ。
俺は脈を取り、呼吸の浅さを確認した。昨日より熱は下がっている。煮沸が効いている。だが黒い線は残り、枝が増えている。
「治療は続ける。蒸し薬を止めるな。水は必ず煮ろ」
村人が頷いた。頷き方が昨日と違う。命令ではなく、手順として受け取っている。
俺は鍋に刻んだ根菜を入れ、塩を少し落とした。薬湯だけでは腹が持たない。腹が落ちれば、祝福の流れも落ちる。
「臭いがいい」
村の子どもが鼻を鳴らした。母親が慌てて口を塞ぐ。だが俺は追い払わなかった。
「温いものを食え。病人に近づくな。近づくなら手を洗え」
子どもは頷き、母親は何度も頭を下げた。謝る必要はない。ここは治療院だ。謝罪より手順を守れ。
ミーヤが小さく囁いた。
「この子、治る?」
「治る。だが祠を封じるまで、完治はしない」
俺が答えると、ミーヤは唇を噛んだ。
「祠、怖い」
「怖いのは正しい。だから手順が要る」
手順を作るには、道具がいる。仮面がいる。祝福水がいる。俺は治療院の火の前で湯を沸かしながら、頭の中で必要物を並べた。
残り6日。成人式までの数字が、俺の喉の奥で乾いた。ここで一日潰せば、二度と追いつけない。
「ミーヤ。村に白耀教の小祠はあるか」
「広場の端に小さいのがある。昔、巡礼が置いていったやつ。今は誰も行かない」
「そこに祝福水が残っているなら、使える。夜に案内しろ」
ミーヤが頷いた。だがすぐに眉をひそめた。
「でも、教会にばれたら怒られるよ」
「怒られても、死ぬよりましだ」
同じ答えしか出ない。答えが同じなら、やることも同じだ。
俺は帳簿の切れ端を三枚に裂き、同じ内容を木炭で書いた。祠の試料、井戸水の煮沸、患者の症状。村長に一枚渡し、残りは梁の隙間と床板の裏へ隠した。証拠は一つにしない。俺が消えても残るように。
◇
日が落ちる前、俺は村の端の窯へ向かった。煤けた手の男が、薪をくべている。昨日、白い土を聞いた男だ。
「焼き物職人だな」
「だから覗くなって言っただろ」
男はぶっきらぼうだった。だが追い払わない。俺は薪を一本拾い、火口へ差し出した。
「仮面を焼きたい。白い土で、顔を半分隠す形だ」
男が眉をひそめた。
「なんでそんなもんが要る」
「俺は追放者だ。王都に戻るには顔が邪魔になる」
男は鼻で笑った。
「戻ってどうする。辺境で死ぬ方が楽だろ」
「楽じゃなくていい。間に合わせたい」
俺が言うと、男は一瞬だけ視線を逸らした。間に合わせたい、という言葉が何かに刺さったらしい。
「……土はある。だが窯の火は簡単には貸さねえ」
「手伝う。煙道が詰まっている。掃除すれば火の通りが良くなる」
男が驚いた顔をした。
「分かるのか」
「煙の匂いが重い。火は嘘をつかない」
男は黙って道具を投げて寄越した。俺は煙道に腕を突っ込み、煤を掻き出す。煤が落ち、空気が軽くなる。仕事の報酬は、ここでは信用だ。
男が言った。
「名は」
「グレイ先生でいい」
「変な名だな」
「忘れやすい方が都合がいい」
男は口の端を少しだけ上げた。
「仮面は二日で焼ける。割れたら知らん」
「割れないように形を作る」
俺は白い土の塊を受け取り、掌で重さを確かめた。土は冷たく、しかし生きていた。これで顔を守る壁を作る。
俺は土を小分けにし、半仮面の型を指で作った。口元と鼻を覆い、頬骨に沿う形。呼吸の穴は小さく、視界は塞がない。焼けば収縮する。だから少し大きめに。俺の指は、鑑定書を書くより先に、こういう作業を覚えていた。
ルゥが鼻を鳴らした。
「器用だな。ほんとに鑑定師かよ」
「鑑定師は細かい仕事が多い」
嘘ではない。嘘に見えない真実を積み上げる。俺はそういう仕事をしてきた。
◇
夜、ミーヤに案内され、広場の端の小祠へ向かった。祠は小さく、白い布が色褪せている。中に古い壺があり、底に少しだけ透明な水が残っていた。
ミーヤが息を呑んだ。
「これ、祝福水?」
「たぶん。だが確かめる」
俺は指先を水面に近づけ、触れずに見る。白い線が薄く揺れていた。黒い線はない。使える。
「これがあれば、祠の封鎖の第一段階ができる」
ミーヤが小声で言った。
「でも足りないよ。こんな少し」
「少しでも、無いよりはましだ」
俺は壺の水を小瓶に移し替え、布で口を縛った。証拠と同じだ。分けて守る。
治療院へ戻る途中、村の門の方で犬が吠えた。吠え方が違う。警戒だ。村人が松明を持って走り、門へ集まった。
俺も足を速めた。追放者が原因の騒ぎなら、真っ先に疑われるのは俺だ。
門の前に、馬が一頭止まっていた。騎士ではない。白耀教の紋が入った黒縁のローブを着た女が、馬から降りていた。黒髪の短髪。切れ長の目。表情が動かない。
村長ゲオルグが前へ出た。
「こんな夜に何の用だ」
女は淡々と言った。
「白耀教聖務官、ネルヴァ・カーティス。黒祝の噂を聞いた。ここに“仮面の治療者”がいるそうだな」
ルゥが俺の肩で毛を逆立てた。
「来た。面倒なのが来た」
俺は息を整えた。名も顔も捨てたはずなのに、追い詰めるものは追い詰めてくる。
残り6日。ここで止まれば、間に合わない。
【鑑定書】
対象:治療院設立と教会介入
分類:防疫拠点構築および監視リスク
症状:媒介遮断により患者状態は改善するが、噂が外部へ拡散する
原因:井戸水汚染と黒祝の存在、治療者の出現が注目を集めた
発動条件:白耀教が黒祝を疑い、聖務官が現地介入した場合
解除条件:治療院の正当性証明、証拠の分散保管、祠封鎖の準備完了
危険度:高
推奨処置:正体隠しを維持し、鑑定書で事実のみを提示する
備考:聖務官ネルヴァは規律優先。交渉は短く、証拠で通す
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