昼が夜を忘れた日
天野 つむぎ
プロローグ
夜の国では、生まれた瞬間から空が暗い。
それは不幸でも、悲劇でもなく、ただの事実だ。
私が物心ついた頃から、月はそこにあり、星はいつも瞬いていた。
昼という概念は知識としてしか知らない。
本で読んだことはあるし、語り部の老人が話してくれたこともある。
太陽は世界を照らし、影をつくり、人の輪郭をはっきりさせるのだと。
けれど私にとって、世界はいつも曖昧だった。
建物の角も、人の表情も、感情さえも、夜の中では境界が溶ける。
それが夜の国の在り方で、
私たちは皆、その曖昧さの中で短い命を生きている。
夜の国では、誰も未来の話をしない。
約束は「またね」で終わり、
夢は「今夜のうちに」叶えられるものだけを指す。
長く生きられないことを、私たちは知っているからだ。
私はそれを、理不尽だと思ったことはない。
生きる時間が短いなら、その分、感情は濃くなる。
喜びも、悲しみも、誰かを想う気持ちも、
一瞬で燃え上がり、消える。
それが夜の国の正しさだった。
ただ一つ、不思議に思っていたことがある。
――なぜ、この世界は二つに分かれているのだろう。
夜の国の地図には、描かれていない場所がある。
同じ道のはずなのに、
同じ塔のはずなのに、
そこには「何もない」と記されている。
境界、と呼ばれていた。
近づいてはいけない場所。
理由は誰も説明しない。
ただ、「昔からそうだから」と言われるだけだった。
私は、境界が嫌いではなかった。
夜の国のどこよりも、静かで、
どこよりも、世界の息づかいを感じられる場所だったから。
境界に立つと、ときどき空気が変わる。
夜の色が薄くなり、
見えないはずの光が、そこにある気がする。
まるで、もう一つの世界が、すぐ隣で呼吸しているみたいに。
その年、境界の揺れは、いつもより長く続いていた。
年に一度だけ起こるはずの現象が、
何日も、何夜も、収まらなかった。
大人たちは不安そうな顔をし、
古い言葉を口にした。
――予言の年だ。
「世界を変えるものが現れる」
その言葉は、昔話のように扱われていたはずなのに、
その年だけは、誰も笑わなかった。
私自身、その言葉を深く考えたことはなかった。
世界が変わる、という発想が、
夜の国ではあまりに遠いからだ。
変わる前に、私たちは終わってしまう。
そう信じていた。
だからあの夜、
境界に足を踏み入れたのは、
運命でも、使命でもなかった。
ただ――
いつもより、空が明るかった。
夜の色が薄く、
影がはっきりして、
自分の輪郭が、確かにそこにあると感じられた。
その光の中で、
私は、彼を見た。
夜の国には存在しない色を持つ人。
光の中に立っているのに、
その光に溶けない人。
彼がこちらを見た瞬間、
私は初めて、自分が“見られている”と感じた。
それは、怖くて、
同時に、どうしようもなく――
温かかった。
その時はまだ知らなかった。
この出会いが、
世界の形に触れてしまったことを。
ただ一つ、確かだったのは、
夜の国で生まれ、夜の国で生きてきた私が、
初めて「終わりたくない」と思ってしまった夜だった、ということだけだ。
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昼が夜を忘れた日 天野 つむぎ @tumugi0919
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