前世の恋人は忘れている――だから私は、今世のあなたを選んだ

花火の子

第1話 記憶のない瞳で

 廊下の窓から差し込む午後の光が、制服の金ボタンをやけに眩しく光らせていた。

 その眩しさに目を細めた瞬間――私の世界は、ひとつの背中で止まった。

 レオン。

 呼びかけたくて、喉がひゅっと縮む。

 前世で何度も呼んだ名前。戦火の匂いの中で、愛しいと思った人。最期の瞬間まで手を伸ばした人。

 なのに、彼は振り返らない。

 正確に言えば、振り返っても、私を知らない。

 「……アリア?」

 隣でカイルが小さく私の名を呼ぶ。落ち着け、とでも言うみたいに。

 私は笑おうとして、失敗した。唇の端が引きつるのが分かる。

 レオンの腕には、見知らぬ女子生徒の手が絡んでいた。

 彼女は楽しそうに笑い、彼もそれに合わせて、自然に微笑む。あまりにも自然で、胸の奥が鈍く痛んだ。

 ――違う。

 頭の中の私が叫ぶ。

 その腕は、私のものだった。少なくとも、前世では。

 足が勝手に動き出しそうになるのを、カイルが袖を掴んで止めた。

 その指先の温度だけが、いまの私を現実に繋ぎとめる。

 「行くの?」

 彼は責めるでもなく、ただ確かめる声で言った。

 行って、何を言うの。

 “私たち、恋人だったの”って?

 そんな言葉を、記憶のない瞳に投げつけたら――私は、どんな顔をすればいい。

 レオンがふいにこちらを見る。

 視線が合った。ほんの一瞬。

 その瞳には、何もなかった。

 私を探していた熱も、守ろうとした決意も、名前を呼ぶ癖も。

 ただ、礼儀正しい無関心だけ。

 「……失礼。通してくれる?」

 そう言って、彼は私の横をすり抜けた。

 香りだけが、昔と同じだった。剣の柄に染みついた革と、風と、少しの鉄。

 涙が出るより先に、胸の奥が空洞になる。

 私はその空洞に、息を落としてしまわないように、必死で立っていた。

 「大丈夫?」

 カイルがもう一度言う。

 大丈夫なはずがない。

 だけど私は、唇を動かした。笑う形を作ってしまった。

 「うん。……平気」

 嘘だ。

 平気じゃない。

 あなたの温かさがなかったら、私はきっと、今ここで崩れてしまう。

 レオンの背中は遠ざかる。

 追わない――追えない。追って、何を言うつもりなのか自分でも分からないから。

 代わりに、私はカイルの袖を握り返した。

 指先に伝わる体温が、崩れそうな私をこの廊下に縫い留める。

 「……行こう。遅刻する」

 私は平気な顔を作って言った。喉の奥がひりついて、声が少し掠れる。

 カイルは頷くだけで、余計なことは言わない。私の嘘を暴かない優しさが、逆に痛い。

 アーデン魔法学園の午後の鐘が鳴る。

 白い石造りの廊下に、学生たちの足音と笑い声が反響する。そのどれもが遠い。私はガラス越しに世界を見ているみたいだった。

 教室の扉を開けると、すでに席は半分以上埋まっていた。

 ざわめきの中心に、当然のようにレオンがいる。

 彼は窓際の席に腰掛け、さっき腕を絡めていた女子生徒――セレナと名乗ったらしい――と顔を寄せ合って笑っていた。

 その距離の近さが、胸の奥の空洞に冷たい風を吹き込む。

 私は見ないふりをして、自分の席に向かった。

 視線が背中に刺さる。どこからか、ひそひそ声が追いかけてくる。

 「……ねえ、まただよ」

 「今度はセレナ? この前はマリンじゃなかった?」

 「でもさ、レオン様って“本気”っぽいの、いつも一瞬だよね」

 「女の子の方が本気になっちゃうの、可哀想……」

 噂は刃物みたいに薄くて、鋭い。

 レオンはその刃に慣れているのか、まるで聞こえていないふうに笑ったままだ。

 前世の彼は、こんなふうに笑わなかった。

 いつもどこか緊張を纏っていて、笑うときですら、私の無事を確かめるように目を細めた。

 ――違う。違う違う。

 頭の中で繰り返しても、目の前の現実は変わらない。

 私の中の“彼”は確かにレオンなのに、レオンの中に私の居場所はない。

 それが、こんなにも残酷だなんて。

 授業が始まった。

 黒板にチョークの音が走り、教授が呪文式の理論を語る。私は頷きながら、ひとつも頭に入ってこない。

 手元のノートに、無意識に書きかけた文字がある。

 ――レオン。

 慌てて線を引いて消す。消えるはずもないのに。

 前世の記憶が、ふいに喉元までせり上がる。

 燃えた木の匂い。血の鉄臭さ。濡れた土。

 そして――白い息の中で、私の手を握った男の手。

 『――生きて。頼む。俺の分まで』

 あの声。

 耳に残って離れない低い声。

 なのに今、同じ声で、他の誰かに甘い冗談を囁いている。

 授業の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間、私は椅子を引く音が怖くて立ち上がれなかった。

 周りが動き出す。椅子が擦れ、鞄が持ち上がり、廊下へ向かう流れができる。

 レオンはセレナと並んで立ち上がった。

 すれ違うときに、彼の肩が私の肩に軽く触れる。

 その一瞬、香りが鼻先を掠める。

 革の匂い、風、鉄――前世と同じ、あの匂い。

 私は息を止めた。

 レオンは振り向かない。振り向く理由がない。

 ――ねえ。

 私、ここにいるよ。

 あなたが探した私が、同じ顔で、同じ名前で、同じ場所に。

 言葉にできないまま、喉が詰まる。

 視界が滲む前に、私は机の角を握りしめた。痛みで現実に戻る。

 「アリア」

 カイルの声が、すぐ隣から降ってきた。

 彼はいつの間にか私の席の横に立っていた。人の流れが途切れるのを待っていたように。

 「……大丈夫」

 私はまた嘘をついた。

 嘘をつくのが、こんなにも上手くなってしまったのが悲しい。

 カイルは私の顔をじっと見た。いつもより長く。

 それから、小さく息を吐く。

 「昼、食堂。端の席取っておく」

 命令でも提案でもない。逃げ道を用意する言い方。

 私は頷いた。

 食堂は広い。天井が高く、窓から光が落ちて、騒がしさが反響する。

 いつもなら私も笑って話すはずの場所なのに、今日は全部が眩しすぎた。

 カイルが取ってくれた端の席は、柱の陰で少し暗い。ありがたい。

 私はトレーを置き、スープに手を伸ばしたが、指先が震えて匙を落としそうになった。

 「……寝れてないだろ」

 カイルが、パンをちぎりながら言った。

 私はスープの表面を見つめたまま、返事をしなかった。

 寝れていない。

 眠ると、前世の夢を見る。

 炎と悲鳴の中で、私は落ちていく。手が届く距離にレオンがいて、届かない。何度も何度も。

 「夢、見る?」

 「……うん」

 言ってしまうと、涙が一緒にこぼれそうで、私は唇を噛んだ。

 カイルはそれ以上聞かない。代わりに、制服の内ポケットから小さな布袋を出してテーブルに置いた。

 「安眠の香。嗅ぎすぎると翌朝ぼーっとするから、枕元にちょっとだけ」

 「……こんなもの、どこで」

 尋ねたら、カイルは目を逸らして、苦笑した。

 「前から用意してた」

 前から。

 その言葉が、胸の奥に静かに沈む。

 私が泣く日のために? 私が壊れそうな日のために?

 「カイル……どうしてそこまで」

 私は思わず言ってしまった。

 カイルの手が一瞬止まり、次の瞬間、何でもないふうにパンをちぎる動作が再開する。

 「……味方が必要だろ」

 それだけ。

 たったそれだけなのに、喉の奥が熱くなる。私は視線を落として、スープをひと口飲んだ。温かいのに、胸の中は冷たい。

 そのときだった。

 食堂の入口がざわめいた。

 遅れて入ってきた学生たちの視線が、一斉にある一点へ向く。

 レオン。

 彼が、今度は別の女子生徒――確かリディアだった――と並んで歩いている。さっきのセレナはいない。

 時間の流れが歪む。私の中の常識が追いつかない。

 「……早いな」

 私の口から、かすれた声が漏れた。

 カイルはその視線の先を一度見て、それから私を見ずに言う。

 「見なくていい」

 見なくていい。

 それは正しい。正しいのに、できない。

 私は自分の心がまだレオンを追っているのを、否定できない。

 レオンがこちらへ近づいてくる。

 違う、近づいているように見えるだけだ。たまたま、飲み物の列がこっち側にあるだけ。

 ――お願いだから。

 見ないで。見つけないで。

 見つけて、何も感じないで。

 矛盾した祈りが喉の奥で絡まる。

 レオンは列の横を通り過ぎる瞬間、私の方にちらりと目を向けた。

 また、何もない瞳。

 礼儀正しい無関心。

 それでも。

 その無関心の中で、ほんの一瞬だけ、眉が動いた気がした。

 “見覚えがある”と言いたげな、ほんのひとかけらの迷い。

 私の心臓が跳ねた。

 でも彼は何も言わない。

 そのまま飲み物を取り、リディアに笑いかけて、去っていく。

 私は息を吐くのも忘れていた。

 カイルが静かに水差しを持ち上げ、私のコップに水を注ぐ。音が優しい。

 「……ねえ、カイル」

 私は水面を見つめたまま言った。

 「私、いつまでこうなんだろう」

 “彼”を待って。

 “彼”の記憶が戻るのを待って。

 戻ったとしても、私が救われる保証なんてないのに。

 カイルは答えなかった。

 代わりに、私の落ちた視線の先――私の指先の震えを、黙って見守った。



 昼休みが終わり、午後の実技の時間になる。

 屋外演習場は風が冷たく、土の匂いがした。私は杖を握りしめ、深呼吸する。

 教授が声を張り上げる。

 「来週の“合同遠征試験”に向け、今週は班を固定する。班はくじで決める。文句は受け付けない」

 ざわめきが起こる。

 合同遠征試験――学園の中でも危険度の高い実地試験だ。森に入り、指定された魔獣の素材を回収し、帰還する。班の連携が合否を決める。つまり、くじ運が悪いと最悪だ。

 教授が箱を掲げ、学生たちが順に紙片を引いていく。

 私も引いた。紙片を開く。

 ――二班。

 カイルが隣で紙片を開く。

 ――二班。

 ほっとしたのもつかの間、次の瞬間、背後から聞こえた声が私の背骨を凍らせた。

 「二班だ」

 レオン。

 同じ紙片を掲げて、彼は何でもない顔で言った。

 班名簿が黒板に書き出される。

 二班:アリア、カイル、レオン――そして補助要員としてリディア。

 視界の端で、リディアが嬉しそうに頬を染めたのが見えた。

 レオンは気にも留めず、杖を肩に担ぐ。

 私は、紙片を握りしめた。

 来週まで、逃げられない。

 前世で、彼と並んで戦った。

 今世では、彼の中に私がいないまま、同じ班で森へ行く。

 神様がいるなら、性格が悪すぎる。

 私は笑ってしまいそうになって、笑えなくて、代わりに息を吐いた。

 カイルが私の肩の力を読むように、低い声で言う。

 「……大丈夫。俺がいる」

 それは慰めなのかもしれない――それでも、私の心を少しだけ温める言葉だった。

 レオンがこちらを見た。

 また無関心の瞳――のはずなのに。

 その視線が、ほんの一瞬だけ、私の首元に留まった気がした。

 そこには、前世の名残として残っている小さな痣がある。誰にも見えない場所に隠しているつもりだったのに。

 レオンの指先が、自分の手首を無意識に撫でた。

 まるで、同じ場所に何かがあるみたいに。

 そして彼は、何事もなかったように視線を逸らす。

 私の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

 希望なのか、罠なのか、まだ分からない。

 ただひとつ確かなのは――

 来週の森で、私の心はもう一度、壊れるかもしれないということ。


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