第2話 全肯定の聖母(ギャル)と、公開処刑の教室

 昨夜は、一睡もできなかった。目を閉じれば、夕闇の中で「ATMにさせてください!」と叫んだ神城瑠奈の、あの狂気じみた、けれど宝石のようにキラキラとした瞳が脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。  


 「お試しで付き合う」という言葉の響きから連想される、甘酸っぱい放課後や、手を繋いで歩く初々しい登下校。そんなキラキラした青春の欠片は、彼女の「推し活宣言」によって木っ端微塵に打ち砕かれた。彼女にとって、俺は恋人ではない。崇拝の対象、あるいは課金対象なのだ。


 重い足取りで教室の引き戸を開けた瞬間、熱を帯びた視線が一斉に俺に突き刺さった。  


「おい、瀬戸……。お前、マジなのか?」


「神城さんと付き合ってるって、本当かよ?」


 野次馬根性丸出しの男子連中が詰め寄ってくる。その背後では、女子たちがヒソヒソと「ありえない」「罰ゲームじゃないの?」と冷ややかな視線を送っているのがわかる。無理もない。昨日まで空気と同化していた地味男が、学校の女王を射止めたのだ。平和な日常が、音を立てて崩壊していくのを感じた。


 だが、そんな喧騒は、彼女の登場によって一瞬で凍りついた。


「――おはよ、悠真くん。……あ、違う。おはようございます、悠真様」


 教室の入り口に立っていたのは、神城瑠奈だった。いつものように着崩した制服に、完璧なメイク。けれどその手には、明らかに場違いな高級デパートの紙袋が握られている。彼女は周囲の視線など一瞥もせず、一直線に俺の席へと歩み寄ってきた。その足取りは優雅だが、よく見ると膝が小刻みに震えている。


「神城さん、おはよう……。あのさ、朝からそんなに注目されると困るんだけど」


 俺が小声で告げると、彼女は「ひっ……!」と短く息を呑み、そのまま俺の机の前に跪いた。


「申し訳ありません! 尊き御身が発する朝の神聖な空気、その波動を乱すような真似をして……! でも、これだけはどうしても、朝イチで納品したかったんです!」


 そう言って彼女が紙袋から取り出したのは、重厚な三段重ねの重箱だった。


「……これ、何?」


「悠真くんの健康管理、および栄養バランスを完璧に掌握するための、自家製フルコース弁当です。昨夜、君の過去のSNS(鍵垢すら特定しかけましたが踏みとどまりました)から好物を徹底的に分析し、有機野菜と最高級の和牛を揃えました。あ、箸は私が一度洗浄して清めたものですが、もし不潔だと思われるなら、今すぐ新しいものを買いに走ります。それとも、指でお食べになりますか?」


 教室中が、静まり返った。あの神城瑠奈が、地味男に跪き、手作り弁当(というか供物)を捧げている。周囲の男子たちの目が、「羨ましい」を通り越して「何だあの宗教は」という困惑に変わっていくのがわかった。


「……神城さん、立ってくれ。みんな見てるから。あと、弁当はありがたいけど、多すぎるだろ」


「多すぎましたか……!? 愚かな私……推しへの愛が供給過多になってしまうのは、オタクの悪い癖です。ですが見てください、この白米。君の肌の白さに合わせて、日本一白いと言われる品種を炊き上げました。君がこれを咀嚼し、嚥下し、血肉に変えてくれる……。想像するだけで、今日一日、私は何も食べなくても生きていけます。はぁ、咀嚼する横顔、絶対にかわいい。世界遺産に登録すべき」


 彼女は頬を上気させ、うっとりと俺を見上げている。その目は、恋人のそれではない。大好きなアイドルの限定ライブで、最前列を勝ち取った熱狂的なファンの、それだ。


「神城さん……。君さ、昨日の『お試しで付き合う』って設定、忘れてないか? もう少し、普通に……こう、対等な感じで接してくれないと、俺がいたたまれないんだけど」


 俺がそう提案すると、彼女はハッとしたように表情を硬くした。


「……対等。そうでした。表向きは『恋人』というカモフラージュが必要でしたね。……わかりました。努力します。……ええと、では。ゆ、悠真……くん?」


 急に「くん」付けで呼ばれ、彼女の顔が、みるみるうちに沸騰したかのように真っ赤に染まっていく。


「……呼び捨てにするなんて、やっぱり無理! 私の汚れた声帯から放たれた振動が、悠真くんの鼓膜を汚してしまう! あああ、でも今、私の口が『悠真』という聖なる音を紡いだ! これだけで今日が私の命日になるかもしれない……! 尊い……尊すぎて酸素が足りない……!」


 ガタガタと椅子を鳴らして、彼女は自分の顔を両手で覆い、その場に突っ伏してしまった。隙間から見える耳まで真っ赤だ。


「……おい、瀬戸。お前、神城さんに何したんだよ」


「催眠術か? 宗教の勧誘か?」


 友人たちの追求は続くが、俺に言えることは何もない。ただ一つ確かなのは、学校一のギャルが、俺という「推し」を前にして、常に死の淵(尊死)を彷徨っているということだけだ。


 俺はため息をつき、三段重ねの重箱を見つめた。どうやら俺の平穏な日常は、この「重すぎる愛」という名の供物によって、完膚なきまでに塗り替えられてしまったらしい。


「神城さん、とりあえず放課後、屋上に来て。……二人で、話そう」


「二人きり……っ!? つまり、これは……公式の『オフ会』への招待ですか!? 了解しました、全身全霊をもって、這ってでも伺います!」


 元気よく(けれど腰は引けたまま)返事をする彼女を見ながら、俺は遠くの空を仰いだ。一ヶ月。この契約期間が終わる頃、果たして俺たちの関係はどうなっているのだろうか。

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