推し活彼女は尊死したい

王堕王

第1話 高嶺の花の告白は、あまりに重すぎる愛の始まり

 窓の外では、午後の柔らかな陽光が校庭をオレンジ色に染め始めていた。放課後の喧騒が遠くで響く教室。俺、瀬戸悠真は、誰もいなくなった自分の席で、カバンに教科書を詰め込むという、なんてことのない日常の動作をこなしていた。


 俺という人間を端的に表すなら、「地味」という二文字に尽きる。成績は中の中。運動神経も特筆すべき点はなし。クラスの隅っこで、静かに波風立てずに過ごすことこそが、俺にとっての生存戦略であり、最も心地よい居場所だった。目立つことはリスクであり、平穏こそが至高。そんな哲学を持って、この十六年の人生を歩んできた。


 だが、その平穏は、唐突に現れた「異分子」によって、音を立てて崩れ去ることになる。


「――ねえ、瀬戸くん。ちょっと、いいかな?」


 かけられた声のあまりの透明感に、俺の背筋がわずかに跳ねた。ゆっくりと顔を上げれば、そこにはこの教室の、いや、この学校のスクールカーストの頂点に君臨する少女、神城瑠奈が立っていた。


 ゆるく巻かれた明るい茶髪が、傾いた陽光に透けて金色の粒子を撒き散らしている。短めに整えられたスカートから伸びるスラリとした足は、モデル顔負けのラインを描き、耳元で揺れる小ぶりなピアスが、彼女の持つ「ギャル」としての華やかさを強調していた。そして何より、見る者を惹きつけずにはいられない、意志の強そうな、けれど今はどこか不安げに揺れる大きな瞳。彼女は、俺のような日陰者とは決して交わるはずのない、太陽のような存在だった。


「神城……さん? どうしたんだ、俺に何か用?」


 動揺を隠しきれない俺の声に対し、彼女は一度、深く深呼吸をした。その際、彼女からふわりと漂ってきたのは、石鹸のような、どこか甘くて清潔感のある香りだった。その香りが鼻腔をくすぐるだけで、俺の心拍数は跳ね上がる。


「単刀直入に言うね。私と……『お試し』でいいから、付き合ってほしいの」


 ――え?  思考が完全に停止した。時計の秒針が刻むチクタクという音だけが、やけに大きく耳の奥で反響する。今、この美少女はなんて言った? 付き合う? 神城瑠奈が、この俺と?  脳内では、誰かが仕掛けた悪質なドッキリ番組のカメラを探す思考と、俺が重度の熱中症で都合の良い幻覚を見ているのだという自己完結が激しく火花を散らしていた。


「期間は一ヶ月! それだけでいいから! お願いっ!」


 彼女は、まるで一生のお願いでもするかのように、俺の前で両手を合わせた。その指先がわずかに震えていることに気づき、俺は言葉を失う。冗談で言っているようには見えなかった。むしろ、崖っぷちに立たされた人間のような、切実な必死さがそこにはあった。その圧倒的な熱量と美貌に押し切られる形で、俺は「あ、はい……」と、情けない返事をしてしまったのだ。


 それが、全ての始まりだった。


 ***


 数分後。俺たちは並んで校門へと向かっていた。隣を歩く神城瑠奈。学校一のギャルと、空気のような地味男のカップル(仮)という、天変地異でも起きない限り成立しない異様な光景に、校舎に残っていた生徒たちの視線がナイフのように突き刺さる。俺は居心地の悪さに、思わず俯き加減になった。視界に入るのは、彼女の履いているローファーと、自分の履き潰した上履きの対比ばかりだ。


「あのさ、神城さん……。なんで俺なんだ? 他にいい奴なんて、いくらでもいるだろ。サッカー部のエースとか、顔だけはいい生徒会長とか。俺なんかと付き合っても、君の評価を下げるだけだと思うんだけど」


 自虐的な問いかけ。それは俺なりの、現実逃避でもあった。だが、その問いを聞いた瞬間、彼女の歩みがピタリと止まった。


 彼女は顔を伏せ、肩を小刻みに震わせている。怒らせてしまったのかと、俺が謝ろうとした、その時。彼女は顔を真っ赤に染め、震える指先でスマホを全力で握りしめると、蚊の鳴くような、それでいて情念の籠もった声でこう言った。


「……無理。無理だよ、瀬戸くん。そんなの、解釈違いだもん」


「……はい? かいしゃくちがい?」


 聞き慣れない言葉に、俺は首を傾げる。だが、次の瞬間。彼女は我慢しきれないといった様子で、がばっと自分の顔を両手で覆った。


「あーっ! もう、無理! 近い! 物理的な距離感がバグってる! 今の『なんで俺なんだ?』って時の、ちょっと困ったような眉の下がり方! 謙虚を通り越したその自己肯定感の低さ! それに伴う憂いを帯びた瞳の角度! 声の低音成分に含まれる微かなビブラート! 控えめに言って……銀河一尊いんですけど……っ!」


「……神城さん?」


 俺が困惑して声をかけると、彼女は突然、地面に膝をつく勢いでその場に蹲った。  そのまま、周囲の目も憚らず、ブツブツと何事かを高速で唱え始める。


「やばい、供給が過多すぎる。脳のキャパシティが爆発しそう。今まで三年間、ずっと校舎の三階の窓から、あるいは渡り廊下の影から望遠レンズ越しに拝んでいた神が、今、私の真横で、私に向けて言葉を発した。これは奇跡? それとも死後の世界? 悠真くんの放つ聖なるオーラで、私の汚れた細胞が浄化されていく……。あぁ、今の瞬き、保存したい。脳内のHDDに一生刻み込んで、寝る前に百回再生したい……!」


「ちょ、神城さん!? 大丈夫か? 本当に体調悪いのか? 保健室行くか?」


 慌てて俺が手を差し伸べようとした、その瞬間。彼女は「ひぎぃっ……!!」という、女子高生が一生に一度も出してはいけないような、断末魔のような悲鳴を上げて後ずさった。


「さささ、触らないで! 滅相もない! 私のような不徳なオタクが、瀬戸悠真くんという聖域、絶対不可侵の領域に触れるなんて、そんなの宇宙の法則が乱れるから! 不敬罪で万死に値するから! ああっ、でも今の心配してくれた顔! 慈愛に満ちた聖母のような表情! 助けて、尊すぎて心臓が物理的に痛い……。脈拍がBPM180を超えた……」


 そこで俺は、ようやく察した。この学校一の美少女は、俺のことを「男」として好きなのではない。もっともっと、厄介で、純粋で、底なしの熱量を持った――『推し』として崇拝しているのだということに。


「神城さん。君、もしかして……」


「……はい。私、神城瑠奈は、高校一年の入学式、君が誰もいない教室で窓の外を見ていたあの瞬間から今日まで、一秒たりとも欠かさず君だけを追い続けてきた、瀬戸悠真ガチ勢です」


 蹲ったまま、潤んだ瞳で俺を見上げてくる彼女。その瞳には、恋する乙女の可愛らしさと、最前列のチケットを執念で手に入れた狂信的なファンの狂気が同居していた。


「お試し期間中は、全力で君を『推し』、そして全力で『養わせて』いただきます! 私に、君のATMになる権利をください……!」


 夕焼けに染まる校門前。俺は確信した。どうやら俺のこれからの日々は、平穏とは程遠い、とんでもなく騒がしいものになりそうだということを。


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