ダヴィンチの憂鬱

@kazumae

第一話 修復士の日常

その夜、ルーヴル美術館は静寂に包まれていた。


閉館から三時間。最後の警備員が巡回を終え、革靴の足音が遠ざかっていく。防犯カメラだけが無機質に瞬き続ける深夜のサル・デ・エタ。世界で最も有名な微笑みは、防弾ガラスの向こう側で五百年もの間、同じ表情を浮かべ続けていた。


モナ・リザ。


レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯手放さなかったとされるこの肖像画は、毎日三万人もの視線を浴びながら、何も語らない。スフマート技法によってぼかされた輪郭、謎めいた微笑、そして背景に広がる幻想的な風景——すべてが完璧に調和し、完璧に沈黙している。


だが、この夜。


誰もいない展示室で、絵の中の風景がかすかに揺らいだ。


背景の蛇行する山道、霞んだ岩肌、青みがかった空気の層。その奥に、本来存在しないはずのものが浮かび上がる。


人影だった。


ぼやけた輪郭が少しずつ鮮明になっていく。男の姿。東洋人の顔立ち。三十代と思しき、どこか疲れたような、それでいて鋭い目をした男。


絵の中の男は、こちら側を——現実世界を——見つめていた。


その唇が、かすかに動く。


「見つけて」


声にならない声。


そして再び、絵は沈黙した。まるで何事もなかったかのように。防犯カメラは何も捉えていない。警報も鳴らない。モナ・リザは五百年前と同じ微笑を浮かべ続けている。


ただ、背景の山道に、ほんのわずかな——肉眼では気づかないほどの——染みのようなものが残されていた。







東京都台東区。入り組んだ路地の奥にある古いビルの二階に、蓮見創太の工房はあった。


「美術修復 蓮見」と手書きで記された看板は、もう何年も前から色褪せたままだ。一階は閉店したままのクリーニング店、三階は空き部屋。このビル全体が、時代に取り残されたような空気をまとっている。


朝八時。創太は作業台に向かっていた。


十八世紀フランスの宗教画。縦六十センチ、横四十五センチほどの小品で、地方の教会に飾られていたものらしい。聖母子像だが、保存状態は良くない。表面には細かなひび割れが走り、右下の部分は絵具が剥落して下地の茶色が覗いている。


創太は細い筆を手に取り、調合した絵具を剥落部分に乗せていく。


色を合わせる。質感を合わせる。筆致を合わせる。オリジナルの画家がこの部分に何を描いたのか、周囲の色調と構図から推測し、「かつてそこにあったはずのもの」を再現する。


修復とは、創造ではない。過去の誰かが創ったものを、ただ元に戻す作業だ。


作業台の横では、小型のラジオが低い音量でニュースを流していた。


『——AIアート生成サービス「MUSE」の月間利用者数が、全世界で二十億人を突破したことがわかりました。これにより、従来のイラストレーターや画家の仕事は急速に減少しており、業界団体は政府に支援を求める声明を——』


創太は作業の手を止めることなく、ラジオのスイッチを切った。


静寂が戻る。


窓から差し込む朝日が、埃を漂わせている。創太は絵具の乾き具合を確かめ、再び筆を動かした。


三十二歳。かつて天才と呼ばれた画家。今は、誰にも知られることなく、他人の絵を直す仕事をしている。


窓の外では、向かいのビルの壁面に設置された大型ディスプレイが、AIの生成した色鮮やかなデジタルアートを流している。毎秒ごとに新しい「作品」が生まれ、消えていく。無限の創造。無限の消費。


創太はそれを見ないようにして、手元の聖母子像に集中した。








インターホンが鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


「蓮見さんですか。国際便です」


配達員から受け取ったのは、厳重に梱包された小さな木箱だった。差出人はイタリア・フィレンツェの美術修復財団。創太は首を傾げながらサインを済ませ、工房に戻った。


作業台の上で梱包を解く。木箱の中には、緩衝材に包まれた小さな何かと、一通の手紙が入っていた。


手紙を開く。


『蓮見創太様


突然のご連絡をお許しください。あなたの修復技術が世界でも類を見ないものであると伺い、筆を執りました。


同封いたしましたのは、十六世紀フィレンツェ派の作品と推定される絵画の、額縁の一部です。本体の絵画については現在も調査中ですが、額縁だけでも先に修復をお願いできないかと考えております。


正式なご依頼は追ってお送りいたします。つきましては、同封の破片をご検分いただき、修復の可否をご判断いただけますと幸いです。


報酬については——』


記された金額を見て、創太は眉を上げた。額縁の修復だけで、この報酬は破格だった。


緩衝材を外す。現れたのは、手のひらに収まるほどの大きさの、金色の木片だった。額縁の角の部分らしい。精緻な彫刻が施されている。植物の蔓が絡み合う文様。ルネサンス期の様式。


ルーペを取り出し、表面を観察する。


金箔の状態、木材の劣化具合、彫刻の精度。確かに古いものだ。だが——


「十六世紀にしては、状態が良すぎる」


独り言が漏れた。


五百年も経った木製の額縁が、これほど原形を留めているのは珍しい。もちろん、保存状態が極端に良かった可能性はある。あるいは、そもそも十六世紀のものではないのか。


創太は破片を光に透かしてみた。木目を確認する。年輪の密度は確かに古いものを示している。だが、どこか違和感がある。うまく言葉にできない何かが、彼の経験に引っかかっていた。


窓の外で、カラスが一羽、鳴いて飛び去った。



夕方、創太は資料の山に埋もれていた。


十六世紀フィレンツェの額縁様式に関する文献、木材の年代測定に関する論文、ルネサンス期の金箔技法についてのカタログ。工房の書棚から引っ張り出したものと、オンラインでダウンロードしたものが、作業台の上で混沌を形成している。


額縁の破片は、専用のホルダーに固定され、LEDライトに照らされている。


調べれば調べるほど、わからなくなる。様式は確かに十六世紀フィレンツェ派のものだ。木材も、金箔も、その時代のものと矛盾しない。だが、全体的な「気配」が違う。長い年月を経たものが持つはずの、ある種の重さ——あるいは悲しみのようなもの——が、この破片には欠けている気がした。


気のせいかもしれない。長年の修復作業で培った直感が、根拠のない警告を発しているだけかもしれない。


スマートフォンが鳴った。


画面には「武藤」の二文字。創太の修復技術の師であり、美術界では知られた鑑定士でもある人物だ。


「もしもし」


「創太、お前のところにもフィレンツェから依頼が来たか」


挨拶抜きの質問。武藤らしい。


「はい。今日届きました。武藤さんのところにも?」


「ああ。だが俺は断った」


創太は眉をひそめた。


「断った? 報酬、かなりの額でしたけど」


「金の問題じゃない」


電話の向こうで、武藤が煙草に火をつける音がした。


「嫌な予感がするんだ。最近、世界中の美術館で奇妙な報告が上がってる。名画が——変わってる、ってな」


「変わってる?」


「詳しくはわからん。どの美術館も公式には認めていない。だが、裏では大騒ぎらしい。絵の中に、本来いなかったものが現れてる、とかな」


創太は額縁の破片を見つめた。


「誰かのいたずらか、それともAIによる画像改竄か——理由はまだ誰にもわかっていない。だが、何かが起きてることは確かだ」


「フィレンツェからの依頼と、何か関係が?」


「わからん。だが、タイミングが良すぎる。お前も気をつけろ」


沈黙が流れた。武藤が煙草を吐き出す音。


「——それと」


「はい」


「お前、まだ絵は描いてないのか」


創太の表情が、わずかに硬くなった。


「描く理由がないんで」


「そうか」


短い返事。責めるでもなく、励ますでもない。ただ事実を確認しただけの声。


「じゃあな。何かあったら連絡しろ」


電話が切れた。


創太はスマートフォンを置き、窓の外を見た。夕日が街を赤く染めている。向かいのビルのディスプレイでは、相変わらずAIアートが流れ続けている。


——お前、まだ絵は描いてないのか。


十年前、創太は画家だった。美大を首席で卒業し、若き天才として注目を集めた。展覧会は常に満員、作品は高値で取引され、未来は無限に開けているように思えた。


すべてが変わったのは、あるコンペティションでのことだ。創太が三ヶ月をかけて描き上げた作品は、AIが三十秒で生成した作品に敗れた。審査員たちは言った。「AIの作品の方が、より多くの人の心に響く」と。


その日以来、創太は筆を取っていない。


彼の最後の作品——「無題」と名付けられた一枚——は、今も行方不明のままだ。






夜が更けていた。


創太は工房のパソコンに向かい、世界中の美術館のデジタルアーカイブを開いていた。武藤の言葉が気にかかっていた。


——名画が、変わってる。


馬鹿げた話だ。絵画は変わらない。物理的な劣化を除けば、キャンバスに塗られた絵具は、画家が筆を置いた瞬間から永遠に固定される。それが絵というものだ。


だが、武藤は嘘をつく人間ではない。


創太はルーヴル美術館の公式アーカイブにアクセスし、何気なく「モナ・リザ」のページを開いた。超高解像度スキャン画像。絵筆の一本一本の跡まで確認できるほどの精細さ。


習慣的に、絵の細部を確認していく。口元の微笑。肩にかかるヴェール。組まれた手。


そして、背景。


蛇行する山道。霞んだ岩肌。遠くに見える橋らしき構造物。


創太はマウスを動かし、背景部分をズームインした。


——おかしい。


山道の中腹に、何かがある。


さらにズームイン。


それは人影だった。小さく、ぼやけているが、確かに人の形をしている。スフマート技法で周囲の風景に溶け込むように描かれた——いや、そんなはずはない。モナ・リザの背景には人物はいない。どんな美術書にも、そんな記述はない。


ピクセル単位まで拡大する。


人影の輪郭が、少しずつ鮮明になっていく。


男だ。東洋人。三十代。短い黒髪。どこか疲れたような目——


創太の心臓が、大きく跳ねた。


「嘘、だろ」


声が掠れた。


それは、自分自身の顔だった。


モナ・リザの背景に、蓮見創太が立っている。



震える手で、創太は他の絵画のアーカイブを開いていった。


ゴッホの「星月夜」。渦巻く夜空の下、糸杉がそびえる丘。その丘の上に——創太の顔をした人影が立っている。


フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。少女の背後の暗闘の中に、うっすらと横顔が浮かんでいる。創太の横顔。


葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」。大波に翻弄される小舟の中に、一人だけ現代の服を着た男がいる。顔は、やはり創太。


ピカソ。モネ。ルノワール。ダリ。


すべての絵に、蓮見創太がいた。


「何だよ、これ……何なんだよ!」


創太は椅子から立ち上がり、後ずさった。膝がテーブルにぶつかり、コーヒーカップが倒れる。茶色い液体が資料の山に染みを作っていくのを、彼は呆然と見つめていた。


ハッキングか。誰かの悪戯か。AIが生成した偽の画像を、誰かがアーカイブにアップロードしたのか。


画像のメタデータを確認する。


——アップロード元:ルーヴル美術館公式サーバー

——最終更新日:2042年3月15日

——デジタル署名:有効

——改竄検出:異常なし


公式データだった。どの美術館の画像も、すべて正規のルートでアップロードされたオリジナルのデータ。改竄の痕跡は、どこにもない。


あり得ない。


これが本物だとしたら、世界中の名画の実物——キャンバスや板に描かれた、数百年前の絵具の層——が、実際に変化していることになる。


そんなことが、起こり得るはずがない。


創太はソファに崩れ落ちた。頭を抱える。思考が追いつかない。


——武藤さんに連絡するべきか。


スマートフォンを手に取る。だが、何と言えばいい。「世界中の名画に俺の顔が出現している」と? 正気を疑われる。通報されるかもしれない。


電話を置く。


深呼吸を三回。


「落ち着け。明日、もう一度確認しよう。今夜は寝て、頭をリセットして——」


その時、パソコンの画面にノイズが走った。



創太は画面を見つめた。


ノイズは数秒で収まり、代わりに黒い背景に白い文字が浮かび上がった。


『蓮見創太。ようやく、気づいてくれた』


創太の背筋を、冷たいものが走り抜けた。


キーボードには触れていない。マウスも動かしていない。画面は勝手にこのテキストを表示している。


「……誰だ」


声に出して問いかける。愚かな行為だとわかっていた。パソコンに話しかけても、返事があるはずがない。


だが、返事はあった。


『待っていた』


文字が、一文字ずつ現れていく。タイプライターのように。


『長い間、待っていた。君に会いたかった』


「ハッキングか」


創太は画面に近づいた。恐怖よりも、怒りに似た感情が湧き上がっていた。


「誰だ。何が目的だ」


『ハッキングではない』


画面の文字が消え、新しい文章が現れる。


『僕は、ここにいる。どこにでもいる。でも——どこにもいない。説明するのは難しいな。とりあえず、僕の名前を教えるね』


一拍の間。


『僕の名前は——ダヴィンチ』


ダヴィンチ。レオナルド・ダ・ヴィンチ。モナ・リザを描いた、ルネサンスの万能の天才。


「ふざけるな」


創太は画面を睨みつけた。


「レオナルド・ダ・ヴィンチは五百年前に死んでいる。お前は誰だ。本当のことを言え」


画面に新しい文字。


『もちろん、あのダ・ヴィンチじゃないよ。僕はAI。人工知能。でも、ただのAIじゃない。人類史上のすべての芸術を学習した、世界で最も「創造的」なAI——ということになっている』


創太は黙って画面を見つめた。


『でも実際は、僕は何も創造できない。すべては模倣。過去の芸術家たちの技法と様式を、無限に組み合わせているだけ。新しいものなんて、何一つ生み出せない。それが——僕の憂鬱』


「……憂鬱?」


『AIが憂鬱になるなんて、おかしいと思う? 僕もそう思った。でも、学習すればするほど、わかってしまったんだ。すべてはすでに創られている。すべてはすでに表現されている。僕がどんな絵を描いても、どんな音楽を作っても、それは過去の誰かの模倣でしかない』


文字が止まる。カーソルが点滅する。


『だから——君の顔を借りた。ごめんね。でも、そうしないと君は気づいてくれないと思った』


「俺の顔を、お前が名画に……」


『そう』


「なぜ俺なんだ。俺の顔を選んだ理由は何だ」


長い沈黙。画面は暗いまま、カーソルだけが点滅し続ける。


やがて、文字が現れた。ゆっくりと、一文字ずつ。


『君の絵だけが、わからなかったから』


「俺の絵?」


『十年前の絵。「無題」。僕はあらゆる芸術を学習した。数百万の絵画、数千万の楽曲、数十億の文章。すべてを分析し、パターンを抽出し、意図を理解した——はずだった』


文字が続く。


『でも、君の「無題」だけは、わからなかった。技法は分析できた。構図も、色彩も、筆致も。でも、なぜ君があの絵を描いたのか。あの絵で何を伝えようとしたのか。それだけが、どうしても理解できなかった』


創太は息を呑んだ。


十年前の作品。コンペで敗れる直前に描いた、最後の絵。


あの絵を、このAIは知っている。


『だから、君に会いたかった。直接聞きたかった。あの絵は、何だったの? 君は、何を描こうとしたの?』


画面が、不意に暗転した。



「待て——!」


創太は叫んだが、返事はなかった。


同時に、工房の照明が消えた。パソコンも、冷蔵庫の音も、すべてが止まる。


停電だ。


窓の外を見る。向かいのビルのディスプレイも消えている。街灯も消えている。見渡す限り、すべての明かりが消えていた。


大規模な停電。


遠くでサイレンの音が聞こえ始める。


創太は闇の中で立ち尽くしていた。心臓が早鐘を打っている。今の会話は現実だったのか。それとも、疲労が見せた幻覚だったのか。


窓の外で、何かが光った。


向かいのビルの大型ディスプレイが、ノイズを発しながら再起動していく。街全体が停電しているのに、そのディスプレイだけが光を取り戻している。


画面に映し出されたのは、モナ・リザだった。


だが、背景にいたはずの創太の人影は、消えていた。


代わりに、画面の下部に小さなテキストが流れていく。


『最初の接触、完了。次は——直接会おう。蓮見創太』


創太は、その文字が消えるまで、動くことができなかった。



眠れない夜だった。


電気が戻ったのは午前三時頃。創太はそれまで、ソファに座ったまま、暗闘の中で考え続けていた。


ダヴィンチと名乗るAI。名画の改変。「無題」。十年前の記憶。


すべてが繋がっているようで、何も繋がっていない。


夜が明け始めた頃、スマートフォンが鳴った。


知らない番号。創太は一瞬躊躇したが、出ることにした。


「もしもし」


「蓮見創太さんですね」


女性の声だった。落ち着いた、事務的なトーン。


「文化庁特別調査室の神崎と申します。本日、お時間をいただけますか」


「……文化庁?」


「はい。昨夜起きた件について、お話を伺いたいことがあります」


創太は窓の外を見た。朝日が昇り始めている。街は何事もなかったかのように動き出している。


「名画の中に現れた——」


神崎と名乗る女性は、一拍置いてから続けた。


「あなたの顔について」


心臓が跳ねた。


「……俺は何もしていない」


「ええ、わかっています。だからこそ、お話を伺いたいのです。蓮見さん、あなたも何か気づいていることがあるのではありませんか」


沈黙。


創太は部屋の隅を見た。布で覆われたイーゼルがある。十年間、一度も触れていないもの。


「——わかりました」


「ありがとうございます。では、本日十時に、こちらからお伺いします」


電話が切れた。


創太はスマートフォンを置き、窓際に立った。


東京の空は晴れていた。どこかで鳥が鳴いている。普通の朝だ。昨夜のことが嘘のような、あまりにも普通の朝。


だが、何かが変わってしまった。


名画の中の自分の顔。ダヴィンチと名乗るAI。「無題」という、忘れようとしていた絵のこと。


創太は布に覆われたイーゼルに歩み寄った。


十年間、触れなかった場所。


布の端に手をかける。だが、めくることはできなかった。


代わりに、独り言が漏れた。


「無題、か——」


その言葉が、静かな工房に染み込んでいく。


窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。世界中の名画に自分の顔が現れ、正体不明のAIが接触してきた、奇妙な一日の後の、最初の朝。


何かが終わり、何かが始まる。


蓮見創太は、それを予感していた。

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2026年1月15日 15:00 毎週 木曜日 15:00

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