知らなければ、ここにいられた

深渡 ケイ

知らなければ、ここにいられた

 目覚ましが鳴る三分前に目が覚めた。

 もう何年も同じだ。驚きも焦りもない。天井を見上げながら、今日は何曜日だったかを考える。水曜日。契約更新の面談がある日だ。


 キッチンでインスタントコーヒーを淹れ、パンをかじる。味はしないが、不満もない。三十八歳になってから、生活の多くがそうなった。強い喜びも、はっきりした絶望もない。ただ、続いている。


 通勤電車は混んでいた。スマホの画面にはニュースが流れているが、頭に入らない。ドアのガラスに映る自分の顔を見て、少しだけ老けたな、と思う。致命的ではない。だが、若くもない。


 会社に着くと、いつもの席に座る。契約社員用の島だが、今では自分一人だけだ。ほかは正社員になったか、辞めていった。


 午前中は淡々と仕事をこなした。特別なスキルはないが、ミスもしない。頼まれたことは断らない。上司も同僚も、それを当たり前のように受け取っている。


 昼前、年下の正社員が異動の挨拶に来た。


「〇〇さん、長いですよね。ここ」


 笑顔で言われた言葉に、なぜか胸が引っかかった。悪意はない。ただの事実だ。長い。それだけだ。


 昼休み、人事からメールが来た。

《本日の更新面談ですが、時間を15分早めさせてください》


 理由は書かれていない。よくあることだ。そう思おうとしたが、心のどこかが落ち着かなかった。


 面談室は小さかった。机と椅子が二脚。人事担当の女性は、資料を揃えながら事務的に微笑んだ。


「今回も、契約は更新になります」


 その一言で、体の力が抜けた。よかった。いつも通りだ。ここにいられる。


 だが、彼女は続けた。


「ただ、正直にお伝えしておきたいことがあります」


 声の調子は変わらない。善意だと思った。


「〇〇さんは……辞めなさそうですよね」


 一瞬、意味が分からなかった。


「え?」


「いえ、悪い意味ではなくて。これまで十年以上、更新のたびに安定して働いてくださっていて。待遇についても、大きな不満を言われたことがない」


 資料に目を落としながら、彼女は説明を続けた。


「配置の調整や、突発的な業務が出たときに、とても助かっているんです。柔軟に動いてくださるので」


 褒め言葉のはずだった。だが、胸の奥で何かがずれた。


「正社員登用については……」


 彼女は一度、言葉を選ぶように間を置いた。


「正直に言うと、現状では予定はありません。〇〇さんは今の立場でいてくださることが、組織としては一番バランスが取れていて」


 緩衝材。

 その言葉は口に出されなかったが、意味ははっきり伝わった。


 面談はそれで終わった。更新書類が差し出され、サインを求められた。


 ペンを持つ手が止まった。


 頭の中で、過去の光景が次々と浮かび上がる。

 誰かが急に休んだ日。

 無理な締切を押し付けられた夜。

 評価面談で、曖昧な言葉だけをもらった時間。


 それらはすべて、「信頼されている証拠」だと思っていた。


 違った。

 動かないから、都合がよかっただけだ。


 ペン先が紙に触れた。サインをした。理由は簡単だった。


 ここを失ったら、自分には何も残らない。


 帰り道、電車の窓に映る自分を見つめた。朝と同じ顔だが、違って見えた。これまでの穏やかな日々が、薄い膜の上に乗っていたことに気づいてしまったからだ。


 部屋に帰り、スーツを脱ぐ。ハンガーに掛ける手が、少し震えた。


 あの面談がなければ。

 あの一言を聞かなければ。


 自分は、まだ「ここにいられる」と信じていられた。


 ――知らなければ、今も笑えていた。


 ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。明日も同じ時間に目が覚めるだろう。仕事もある。生活も続く。


 ただ一つ、違うことがある。


 この場所が、居場所ではなかったと知ってしまったことだ。


 知らなければ、ここにいられた。



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