第3話 サンシャインまみれ
どれだけ身なりを整えたところで、「人参特急」に座るネギとガリックは、どうしても浮いて見えた。
この列車は第1環——〈サンシャイン特区〉へ向かう特別路線。
通行許可証を持つ者だけが乗車を許される。
同じ都市に属してはいるものの、その境界を越える感覚は、まるで別の国へ入国するようだった。
車内の植物人間たちは、どれも艶やかで瑞々しい。
まるでワックスを塗られたかのように、葉は張りがあり、色も濃い。
エリートたちの話し方はゆったりとしており、所作の一つひとつから、生まれつきの自信と確信がにじみ出ている。
恒温の温室で生まれ育った者だけが身につける、特有の気品だった。
一方のネギとガリックは、必死に「透明」になろうとしていた。
肩をすぼめ、視線を落とし、存在感を限界まで削る。
だが、その努力は逆効果で、かえって異物感を強めるばかりだった。
本当は——顎を上げ、鼻先の延長線で周囲を見下ろすくらいの、堂々とした態度を取るべきだったのかもしれない。
そのほうが、よほど“それらしく”見えただろう。
昨夜のことを思い出し、ネギは未だに現実感のない気分に襲われる。
怒りと悔しさに突き動かされるまま、あの枯れ葉に書かれていた「ドリームホットライン」へ電話をかけた。
人は追い詰められたときほど、限りなくゼロに近い希望にすがるものだ。
まさか、その番号が本当に繋がるとは——しかも、相手はカラ・トウ氏本人のプライベート回線だった。
最初、ネギは自分を嘲笑していた。
ホームレスの稚拙な詐欺を信じるなんて、と。
だが、受話器の向こうの人物が「那須正太郎」という名を聞いた瞬間、声色が一変した。
そして、迷うことなく第1環への通行手続きを進め始めたのだ。
翌日。
ネギは人混みの中で背筋を伸ばしていた。
同僚たちの羨望の視線を浴びながら、久しぶりに口角が自然と上がる。
遅れてかけられた部長の祝辞にも、軽く頷くだけ。
その距離感は、彼がすでに「上の世界」の人間になったかのような錯覚を与えた。
「ネギ兄貴のおかげっす!第1環に行けるなんて、一生に一度ですよ!」
ガリックは満面の媚びた笑みを浮かべる。
ネギは軽く首を振り、「大したことじゃない」とでも言いたげな態度を取った。
だが内心では、ガリックのしつこい懇願を受け入れて正解だったと安堵していた。
少なくとも、この未知の旅路を一人で行かずに済む。
——そのとき。
車内に、甲高い叫び声が響いた。
「私のハンドバッグが……ない!」
上質な装いのセロリ紳士が、慌ててポケットを探る。
頭の上の葉がざわざわと音を立てた。
乗客たちは互いを警戒するように見回し、やがて、その視線は自然とネギとガリックに集まった。
「なんだよその目!濡れ衣はやめてくれ!」
ガリックが首を突き出して叫ぶ。
だが、その反応は、周囲にはかえって怪しく映った。
空気が張り詰めた、その瞬間。
ネギの視線が、窓の外の“ある色”に釘付けになる。
ホームの隅。
ゴミ箱の前にしゃがみ込んだ少女が、ハンドバッグの中身を一気にぶちまけ、その中から値段高そうな物だけを素早く選び、ポケットに押し込んでいた。
反射的にネギは窓を開け、身を乗り出して叫ぶ。
「おい——!」
少女はびくりと肩をすくめ、怯えた野良猫のように固まった。
だが、0.01秒だけ彼を見つめたかと思うと、ぺろっと舌を出し、悪戯っぽい顔で表情を崩す。
次の瞬間、空になったバッグをゴミ箱へ放り投げ、軽やかな足取りで人混みへと消えていった。
空中で揺れるしょうが色のドレッドヘアは、まるで得意げに振られる猫の尻尾のようだった。
ネギは衝動的に飛び降りかけた。
だが、すでにドアは閉まり、列車は静かに動き出していた。
「……逃がすんじゃなかった」
膝を強く叩き、歯を食いしばる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼が後悔していたのは、バッグを取り戻せなかったことだけではない。
いい歳をして、またしても“女の涙”を信じてしまった自分自身だった。
ガリックは状況を理解できず、ぽかんとしている。
ネギはため息をつき、これまでの顛末を簡単に語って聞かせた。
◆◇◆
純ガラス建築——それは第1環を象徴する、最もわかりやすいシンボルだった。
太陽光を最大限に享受するために造られた、建設費も維持費も桁違いの贅沢な建物。
そんなものが「当たり前」として許されるのは、この第1環だけだ。
「100%ピュアな天然日光!」
「24時間・無制限供給!」
ネギとガリックは列車を降りるなり、思わず両腕を広げて叫んだ。
くるりと回って、跳ねて、目を閉じる。
本物の陽光を、全身で浴びる。
本物の太陽は、自然そのもののエネルギーを帯びている。
光が降り注ぐたび、体内の細胞が一つひとつ目覚めていくようだった。
きらめく街区を抜け、二人は一棟のガラス張りのヴィラの前で足を止めた。
門を守る警備員は全員トウモロコシ人間。
頭上のヒゲは完璧に整えられ、サングラスの奥の表情は冷え切っている。
ぴったりとしたスーツは、内側のぎっしり詰まった粒の筋肉に今にも弾けそうだった。
重厚な扉がゆっくりと開き、正装の執事が姿を現す。
白い肌、細く整えられたへの字ヒゲ。
淡い緑の髪は地肌に沿うように巻かれ——典型的な白菜人間だった。
彼はわずかに腰を折り、白手袋の手で恭しく迎え入れる。
「お待ちしておりました」
低く、柔らかな声。
冷菜のような軽さではなく、春雨と豚バラ、豆腐を四十分じっくり煮込み(中国東北地方の家庭料理)、白米と一緒に口へ運んだような——重厚で、艶があり、層のある響きだった。
ホールに足を踏み入れた瞬間、ネギはこの建物の“仕掛け”に気づく。
透明に見えて、実際には「光だけを通し、景色は通さない」。
外から中は見えず、中から外は見える。
実用性と同時に、どこか歪んだ趣味をも満たす構造だ。
幾つもの扉を抜け、最奥の部屋へ。
巨大なテーブルの向こうから、小柄な緑色の人物が歩み出てきた。
「ようこそ!優秀な若者たち!」
ネギは一瞬、言葉を失った。
——まさか、カラ・トウ氏がこれほど“コンパクト”な体躯とは。
だが、その小さな身体の内に宿る資産価値は、誰よりも巨大だった。
ほどなくして、贅を尽くした宴が始まる。
「栄養肥料」と呼ばれる食材の数々は、トップシェフの手によって洗練された料理へと昇華される。
高級栄養剤は芳醇なドリンクに仕立てられ、配合は完璧。
口に含んだ瞬間、体内変換すら必要とせず、直接植物の樹液に溶け込んでいくようだった。
(これが……本物の光合成か)
ネギはそう思いながら杯を傾ける。
身体が少しずつ伸び、育ち、繁っていく感覚が、はっきりとあった。
カラ・トウ氏はグラスを掲げ、自身の成り上がりの物語を語り始める。
その内容はネギも熟知していたが、本人の口から語られると、なお胸を打つ。
そして、すべての話は一つの名に行き着いた。
——那須正太郎。
「彼が、私を闇から引き上げてくれた」
カラ・トウ氏は深く息をつき、遠い目をする。
「第5環で過ごしていた頃……彼から渡された、あの電話番号の紙切れが、私の人生を変えた」
成功の後、那須氏は姿を消したという。
どれだけ探しても、行方は掴めなかった。
その恩は、いまだ返せていない。
そこまで聞いて、ネギは顔を上げることができなかった。
脳裏に浮かぶのは、あの段ボールを被ったホームレスの姿。
カラ・トウ氏の執拗な探りに対し、ネギとガリックは慎重に、「第5環で一度見かけただけで、それ以上は知らない」と答えるしかなかった。
「……そうですか?」
カラ・トウ氏は微笑む。
目尻の皺が、光の加減で刃物の傷のように見えた。
宴の後も、彼の態度は終始穏やかだった。
「今夜はぜひ、ここに泊まっていきなさい。
出立は明日に」
そう言って、軽く手を振る。
執事が静かに頷き、警備員と共に二人を案内する。
重厚な扉が閉じるにつれ、室内の光は一段落ちた。
執事は身を屈め、カラ・トウ氏の耳元で囁く。
ピーマン人間は口角を引き、煙を一輪吐き出した。
白い輪が、空中でゆっくりとほどけていく。
「……またホームレスか」
彼は煙草を強く揉み消す。
執事は無言で頷き、その場を去った。
——上の意向は、すでに十分理解していた。
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