ルーメンポリス(光合成都市)

大蚊豪

第1話 調味料

もし人間が、光合成だけで生きていけるとしたら——

世界は、いったいどうなっていただろうか。


◆◇◆

◆◇◆


欠けた月が、ひとり夜空に浮かんでいる。


鋭い月光が斜めに差し込み、枕元の小さな目覚まし時計を照らしていた。


「シャイン、シャイン、シャイン〜♪」


午後七時三十分。軽快なアラーム音が、きっかり時間どおりに鳴り響く。

静まり返った部屋の中で、太陽の形をした目覚まし時計が、リズムに合わせてオレンジ色の柔らかな光を灯した。

カラフルな小さなランプが順番に点滅し、両脇の短い腕を機械的に振りながら踊っている。

文字盤の中央に描かれた笑顔は、やけに大きく裂けた口を開き、今にもこう宣言しそうだった。

——新しい一日が、始まるぞ。


「ザッ——!」


ベッドがあるはずの場所。

そこに口を開けていた四角い土の穴から、ひとつの人影が勢いよく起き上がった。

はね上げられた土が、ざらざらと音を立てて崩れ落ちる。

男は力いっぱい頭を振った。

顔に付着していた細かな土が、ぱらぱらと剥がれ落ち、ようやくその姿がはっきりする。


冷たいほどに白い、細長い顔。やつれた頬。

暗緑色の髪が、くるくると巻きつくようにして頬に貼りついている。

否応なく連想させられる——そう、ねぎだ。

それも、ずいぶん長い間放置されていた一本の長ねぎ。


◆◇◆


ここは「ルーメンポリス」。

光合成によって生きる〈植物の人間〉たちが暮らす街である。


◆◇◆


薄暗い部屋の中で、唯一の光源であるテレビが明滅し、「朝」のニュースを流していた。


『ナスビ開発』の新CEO、カラ・トウ氏は、最新の投資計画を発表しました。


「ルーメンポリス・第4環〈破土区〉において、新規開発プロジェクト『トワイライト・ニュータウン』の建設を開始し、長年にわたり無光環境で暮らしてきた第5環〈潜伏区〉住民の生活困難の緩和を目指すとのことです。」


そのニュースを背に、洗面所から水音が響く。

あの“ねぎ人間”が、コップを手にうがいをしていた。


「ごく……ごく……」


次の瞬間、彼はその水を、そのまま飲み干した。

すると、乾ききっていた顔にみるみる潤いが戻り、肌にはほのかな艶が宿る。

頭部からは新しい髪が伸び、再び大きく広がり、意地でも天を突くかのようにまっすぐ立ち上がった。

鮮やかな緑色は、光を弾くほどに瑞々しい。


クローゼットに取り付けられた小さな鏡の前で、彼は丁寧にネクタイを整える。

そこに映るのは、笑っているようで、どこか笑っていない顔。

——それは、彼が毎朝必ず確認する姿。

「ゴールドセールスマン」としての、完成された表情だった。


彼はカバンを手に取り、迷いなく夜の中へと踏み出す。こうして、今日も仕事へ向かうのだった。


◆◇◆


ねぎ人間——名前はネギ。


不動産業界で十年のキャリアを持つ営業マンであり、「ルーメンポリス(光合成都市)」における典型的な夜行者でもある。

夜に働き、昼は光を浴びながら眠る。

それが、この街での生活リズムだった。


もっとも、彼の住まいである第5環〈潜伏区〉は、永遠の夜に沈んだ土地だ。

一年を通して一切の光が届かない、貧民街——いわば“永夜の地”である。


午後七時四十五分。

電車は「極夜」駅を始発とし、第2環の「向陽広場」駅へと向かう。


ネギは時間きっかりに乗車し、長椅子の端の席を確保する。

それは毎日のことだったし、何ひとつ変わることはない。

続いて乗り込んできた植物人間が反対側の端に腰を下ろし、やがて中央の席も埋まる。


すると、両端に人が座る形となった座席が、一気に“争奪戦”の舞台へと変わる。

最終的に、わずかに残された隙間は宝物のような存在となる。

左右に誰が座っていようと関係ない。

ただ、尻を安心して預けられる場所を確保できた者こそが“幸運”なのだ。


——たぶん、これが残された「人間性」なのだろう。

身体が植物になっても、変わらないものは確かに存在する。


列車は「日暮西」駅へと滑り込む。

車窓の外は、漆黒から黄昏へと、ゆるやかに色を変えていった。


ドアが開き、新たな乗客たちが車内へと流れ込む。

うなだれた頭、わずかに揺れる身体、惰性に任せた足取り。

その姿は、夜の闇を彷徨うゾンビの群れのようだった。


列車がさらに進むにつれ、外の明るさは少しずつ増していく。

薄暗かった車内は、じわじわと光に侵され、乗客たちの表情も次第に和らいでいった。


一筋の陽光が、車窓を越えてネギの顔に降り注ぐ。

それはとても優しい光だった。ふわふわとした、わずかに温もりを帯びた感触。

ネギはそっと目を閉じる。

思わず酔いしれてしまいそうになる。


その光は、彼がずっと追い求めてきた夢を思い出させた。

第3環〈萌芽区〉に、自分だけの家を持つこと。


そこでは、人造の太陽灯が毎日決まった時間に降り注ぐ。

空気には光合成の甘い香りが満ち、人々の葉は肉厚で、身体は豊か。

もはや枯れることなどない。


長期間、光を浴びられなければ、植物人間はやせ細り、葉は黄色く変色し、呼吸さえ乾いていく。

栄養失調は病変を招き、病変はやがて凋亡へと至る。

しおれた影が、第4環や第5環の路上に転がっている光景は、すでに日常の一部だった。


現在、ネギは四年連続で「ゴールド不動産セールスマン」の称号を守り続けている。今年の年末までトップを維持できれば、第3環の居住資格を申請できる。


◆◇◆


終点——第2環「向陽広場」駅。

ここでは「朝の光」を再現した照明が街を包み込み、ただ呼吸するだけでも、光の甘さを感じ取ることができた。


駅の向かい側には、巨大なLEDスクリーンがまぶしいほどの輝きを放っている。

そこに映し出されていたのは、この都市屈指の不動産企業——「ナスビ開発会社」のCEO、ピーマン人間——カラ・トウ氏だった。


『私、カラ・トウは、新たな市長選への立候補を決意しました。すべての人々に、光を取り戻してみせます』


画面の中のカラ・トウ氏は、艶のあるオールバックに、隙のないスーツ姿。その眼差しは揺るぎなく、割れた顎の輪郭はくっきりと浮かび上がっている。

全身から漂うのは、上に立つ者だけが持つ“光沢”——生まれながらの上層の気配だった。


この“陽光の象徴”とまで称される男が、かつて第5環の闇に生まれたなど、ほとんどの者は想像もしないだろう。

同じ出自を持つその存在に、ネギは言い知れぬ親近感を覚えていた。

彼にとってカラ・トウ氏は、ずっと憧れの存在だった。


闇の土から芽吹いた、ひとつの伝説。

努力さえすれば、いつか自分も——彼のように、光の中に立てるはずだ。


ネギは無意識のうちにカバンを強く握りしめていた。

それは単なる仕事道具ではない。光へと至るための、最後の鍵のように思えた。


◆◇◆


広場の中心には高層ビルが立ち並び、その一角に「永遠大地不動産」という名の建物が控えめに佇んでいた。


ネギは扉を押して中へ入る。


いつものように、受付の女性たちへ軽く声をかけ、少しだけ調子のいい笑顔を向ける。だが、返ってきたのは不自然なほどの沈黙だった。


普段なら「ゴールドセールスマン」専用として用意されているはずの“グリーン・ライフ(栄養剤)”のドリンクも、今日は影も形もない。


「モモちゃん〜」


それでも諦めきれず、ネギは受付でいちばん目を引く存在

——もも人間のモモのそばへと歩み寄った。


最近まで、ネギとモモはかなり親しい雰囲気だったはずだ。

しかし今日の彼女は、完璧な営業用スマイルを貼り付けたまま、指先だけを忙しくキーボードの上で踊らせている。

視線は一度もこちらを向かない。

その笑顔はあまりにも丁寧で、同時に、ぞっとするほど距離があった。


ネギが違和感を覚えはじめた、そのとき——

奥の部屋のドアが勢いよく開き、ひとりの男が飛び出してきた。

にんにく頭の男が、息を切らしながら叫ぶ。


「ネギ兄ッ!——大変です!!」



ネギは呆然と、会議室前に置かれたホワイトボードを見つめた。

そこにあるはずの、自分の名前。

これまで不動の一位だったその数字は、いつの間にか別の名前に大きく引き離されていた。


——コショウ。


入社してまだ日も浅い新人社員。

にもかかわらず、まるで一夜にして会社上層部の寵愛を受けたかのような異様な伸び方だ。

いったい、どんな手を使ったというのか。


そのとき、背後から、とん、と肩を叩かれた。

あの、覚えのある、嫌悪感を伴う微かな痺れ。反射的に、ネギは眉をひそめる。


振り返るまでもなかった。

そこに立っていたのは、やはりコショウだ。


派手なストライプ柄に、目が痛くなるほど鮮烈な色合いのスーツ。

灰色基調のオフィス空間の中で、彼だけが悪目立ちしている。

頭の上では、茶色の爆発したようなカーリーヘアが不自然なほど膨らみ、その隙間に紛れ込んだ小さな胡椒の実が、動くたびにかすかに揺れていた。


「いや〜、今日も頑張らないとねぇ!」


コショウは“グリーン・ライフ”のドリンクを掲げ、どこか狡猾な笑みを浮かべる。


「じゃないとさ、今夜の……モモちゃんとのディナーに間に合わなくなっちゃうし…」


その瞬間、ネギの体内で血が煮え立った。

熱が一気に頭へと昇り、今にも破裂しそうになる。

同時に、叩かれた肩口から、じわりとした痺れが広がっていく。

それは細かな電流のようでもあり、あるいは

——何か植物の汁液が、体内へと染み込んでくるような感覚だった。


ネギは息を詰め、反射的にコショウの手をはねのける。


——次は、こっちの番だ。

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