君の恋が壊れても、俺は君の味方でいる

浅霧 瀬智

第1話 君の恋が壊れても、俺は君の味方でいる

俺の席は、教室の一番後ろ、窓際から二つ目だ。

理由は簡単で、目立たないから。誰の視界にも入りにくく、誰からも期待されない。高校に入ってから、俺はずっとこの位置にいる。


朝のホームルームが始まる前、教室はすでに騒がしい。前の方では瀬尾たちが大声で笑っていて、その中心にいる瀬尾は、今日もやけに機嫌が良さそうだった。クラスの空気は、いつもあいつのテンションで決まる。


「なあ黒瀬、今日も地味だな。存在感ゼロ選手権でも出る?」


背中越しに投げられた言葉に、教室の何人かが笑う。

悪意があるかどうかなんて、もう考えなくなった。どうせ俺が何か言い返せば、  場の空気が悪くなるだけだ。


「……別に」


それだけ答えて、俺はノートを開く。瀬尾は満足したように笑って、すぐに別の話題に移った。


こういうやり取りは、もう日常だ。

俺はからかわれる側で、瀬尾はからかう側。クラスはそれを笑って消費する観客。 誰も本気で俺を嫌っているわけじゃない。たぶん。ただ、俺が軽いから、扱いやすいだけだ。


授業中、窓の外を見ながら考える。

もし俺が突然いなくなったら、この教室は何か変わるだろうか。答えは、たぶん「何も変わらない」だ。


昼休み、弁当を持って廊下に出ると、白石ひなたが声をかけてきた。


「黒瀬くん、今日も一人?」


「まあ……いつも通り」


「じゃあ、一緒に食べよ。屋上行こ」


彼女はそう言って、当たり前みたいに隣を歩く。

白石ひなた。学園のアイドル。誰にでも優しくて、誰からも好かれている存在だ。


不思議なことに、彼女は俺といる時だけ、少しだけ力を抜く。無理に笑わないし、周りを気にもしない。ただの「白石ひなた」になる。


「瀬尾くん、今日も元気だったね」


「……まあ」


「からかわれてたでしょ。ごめんね」


「謝らなくていいよ。慣れてるし」


 そう言うと、彼女は少しだけ眉をひそめた。


「慣れるの、良くないと思うけどな」


その言葉に、俺は何も返せなかった。

屋上で二人並んで弁当を食べる時間だけが、俺にとっての安全地帯だ。ここでは、 俺は笑われないし、無視もされない。


でも、その安全地帯が、永遠じゃないことくらい、わかっている。

白石ひなたは、俺と同じ場所にいる人間じゃない。


そしてその日、瀬尾が俺に声をかけてきた。


「なあ黒瀬。白石さんってさ、どんなタイプ?」


その一言が、俺の日常を静かに壊し始めたことを。



瀬尾が俺に声をかけてくるようになったのは、それから毎日のことだった。


「黒瀬、ちょっといいか?」


放課後、クラスメイトがまだ教室に残っている中で、あいつはあまりにも自然に俺の隣に立った。昨日までの軽口とは違う、妙に距離の近い態度だった。


「白石さんと、仲いいよな?」


その質問を聞いた瞬間、胸の奥が小さく沈んだ。

否定したい気持ちはあった。でも、事実として、俺と白石は一緒に昼食を食べたり、遊んだりしている。


「……まあ、話すくらいは」


「でさ、教えてほしいんだよ。白石のこと」


「……何を」


「全部」


 全部、という言葉がやけに重かった。


「好きなものとか、嫌いなものとか、そういうの」


俺は少し黙った。本能的に、これは踏み込んじゃいけない領域だと感じていた。


「なんで、俺に聞くんだ」


そう言うと、瀬尾は鼻で笑った。


「お前さ、自分の立場わかってる?」


その瞬間、空気が冷えた。


「陰キャで、友達少なくて、俺にからかわれても何も言えない。

 そんなお前が、白石と仲いいっての、正直ウケるんだよ」


言葉が、胸に突き刺さる。


「でもさ、便利なんだよ。ああいう女って、警戒心強いだろ?

 だから、安心させるためのクッション役が必要なんだ」


俺は、息がうまくできなくなっていた。


「クッション……?」


「そう。お前みたいな安全牌がいると、女は油断する」


瀬尾は笑った。下品で、軽い笑いだった。


「白石さ、顔もスタイルもいいじゃん。

正直、ああいうの、放っておけるわけないだろ」


その言葉で、すべてがつながった。

それでも、俺は断れなかった。断ったら、からかいが、いじめに発展すると思ったからだ。


数日後、白石と瀬尾が話しているのを見た。

廊下の向こうで、瀬尾が大げさに身振りを交え、白石が笑っている。


 ――ああ、そうか。


俺は、もう必要ないんだ。


昼休み、いつもの屋上に行くと、白石は少し遅れてやってきた。


「最近さ、瀬尾くんと話すこと増えたよ」


「……そうなんだ」


「黒瀬くんが教えてくれたこと、参考になったって言ってた」


胸が、ちくりと痛んだ。俺は便利だった。情報源として、踏み台として。


「瀬尾くん、面白くて素敵な人だね」


その言葉に、俺は曖昧に笑った。

本当は、面白いと思えなかった。でも、白石が楽しそうなら、それでいいと思ってしまった。


帰り道、少し後ろを歩きながら、二人の背中を見る。並んで歩く姿は、どう見ても お似合いだった。


俺は影だ。最初から、主役じゃない。


それでも、その時の俺はまだ信じていた。

白石ひなたは、ちゃんと人を見ていると。


最近、白石と二人きりで話す時間が、少しだけ減った。

完全になくなったわけじゃない。ただ、前みたいに「当たり前」じゃなくなった。それだけで、胸の奥に小さな隙間ができる。


それでもその日、昼休みの屋上に白石は来た。少し遅れて、息を切らしながら。


「ごめん、瀬尾くんに呼ばれてて」


「……大丈夫」


本当に大丈夫かどうかなんて、自分でもわからなかった。

白石は俺の隣に座り、フェンス越しに空を見上げる。


「ねえ、黒瀬くん」


「なに?」


「もしさ……好きな人ができたら、どうする?」


突然の質問に、俺は一瞬言葉に詰まった。


「俺は……何もしないと思う」


「即答だね」


「期待しても、疲れるだけだから」


白石は少しだけ笑って、それから真剣な顔になった。


「私はね、好きな人と一緒にいる時、安心したいんだ」


その言葉は、前にも聞いた気がした。でも、今回は続きがあった。


「ドキドキするのも嫌いじゃないけど、それだけだと長く続かない気がしてて。無理して笑ったり、相手の顔色ばっかり見るの、苦手なんだよね」


俺は黙って聞いていた。白石の声は静かで、嘘がなかった。


「一緒にいて、自分が自分でいられる人。ちゃんと怒れるし、ちゃんと嫌って言える人がいい」


その言葉を聞いた瞬間、瀬尾の顔が頭に浮かんだ。

クラスの中心で、空気を読ませ、笑わせ、支配する男。


「……白石は、瀬尾の前で、嫌って言える?」


気づいた時には、口から言葉がこぼれていた。

白石は少し驚いた顔をしてから、首をかしげる。


「うーん……あんまり、ないかも」


その答えで、俺の中の違和感は確信に変わった。


「ねえ、黒瀬くん。私って、恋愛向いてないのかな」


冗談っぽく言うその声が、少しだけ震えていた。


「そんなことない」


俺は即座に言った。


「白石は……自分を大事にできる人だと思う」


だからこそ、余計に言えなかった。この恋は、きっと歪む。

でも、それを指摘する権利が、俺にあるとは思えなかった。


屋上に風が吹く。白石は少しだけ目を細めて、微笑んだ。


「ありがとう。黒瀬くんと話してると、落ち着く」


その一言が、俺を縛る。


この場所は、もう安全地帯じゃない。

それでも俺は、白石ひなたが、自分を壊す恋を選ばないと信じたかった。同時に 自分の中で、覚悟が決まった。


文化祭の最後の日、校庭に組まれた特設ステージの前は、人で溢れかえっていた。

夕焼けに染まる空、スピーカーから流れる軽快な音楽。誰もが浮かれていて、この場で起きることは、すべて“青春”として消費される空気だった。


俺は人混みの後ろで、一人立っていた。白石ひなたは、ステージ袖にいる。

その隣には、瀬尾がいた。


嫌な予感は、ずっとしていた。でも、それを止める勇気はなかった。


「えー、少し静かにしてもらっていいですか!」


マイクを握った瀬尾の声が、校庭に響く。歓声が上がり、拍手が起きる。

瀬尾は慣れた様子で笑い、手を振った。


「今日は文化祭最終日で、みんなテンション高いと思うんだけどさ。ちょっと、俺のわがまま、聞いてほしい」


ざわつく空気。俺は、胸の奥が冷えていくのを感じていた。


「俺には、好きな人がいます」


その瞬間、歓声は悲鳴に近いものに変わった。誰もが次に出る名前を予想している。


「白石ひなたさん。ずっと前から、好きでした。付き合ってください」


ステージに呼ばれた白石は、驚いたように目を見開き、それから周囲を見回した。

無数の視線。期待。空気。


一瞬の沈黙のあと、彼女は小さく息を吸って、頷いた。


「……はい。よろしくお願いします。」


その一言で、世界が完成してしまった。拍手、歓声、冷やかし。

 “お似合いのカップル”という物語が、強制的に出来上がる。


俺は、その完成した世界を、壊す側に回るしかなかった。


気づいたら、足が動いていた。

ステージへ向かう通路を歩く俺に、周囲の視線が刺さる。


「ちょっと待ってください」


マイクを握った瞬間、空気が変わった。誰だ、という顔。

 ああ、そうだ。俺は、脇役ですらない。


「黒瀬?」

瀬尾が、困惑したように笑う。


「これは俺の……告白だ」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「恋の告白じゃない。……真実の告白だ」


俺はポケットからスマホを取り出した。

画面を操作し、ステージ横のモニターに映す。


「これは、瀬尾が俺に送ってきたメッセージだ」


そこには、はっきりとした言葉が並んでいた。

【黒瀬は便利だわ。白石の情報、全部吐くし】

【お前のような陰キャ、扱いやすい】

【白石の体に飽きたら、情報料として黒瀬にも分けたるからww】


ざわめきが広がる。瀬尾の顔から、余裕が消えた。


「冗談だろ? 切り取って――」


「他にもある」


音声データ。陰での嘲笑。俺を道具扱いする声。


逃げ場は、もうなかった。

瀬尾が口を開く。怒鳴るように。


「お前……ふざけんなよ! 俺は、俺は、白石が好きなんだ!」


「違う」

 

俺はきっぱり言った。


「お前は、白石が好きなんかじゃない。

 体だけの目当てで、安心させる道具を置いてるだけだ」


俺は白石を見る。彼女は、何も言えずに立ち尽くしていた。


「白石、お前は言ってたよな」


マイク越しでも、声は震えなかった。


「一緒にいて安心できる人がいいって。

 無理して笑わなくていい人がいいって」


そして、少しだけ、意地悪な言葉を続けた。


「正直に言う。それを聞いてて、こんな男を選んだのは……バカだと思った」


悲鳴のような声が上がる。俺は、完全に敵になった。


「でも、それでもだ」


言葉を止めなかった。


「それでも俺は、黙れなかった。

お前が、自分を削る恋をしてるのを、見過ごせなかった」


拍手は起きない。正義なんかじゃない。

視線が痛い。それでも、最後に言った。


「白石ひなたは、こんな嘘の上で幸せになる人間じゃないって、俺は知ってる」


静寂の中、俺はマイクを置いた。歓声はなかった。


ステージを降りる背中に、無数の視線が突き刺さる。



翌日から、教室の空気ははっきりと変わった。


俺が席に着くと、周囲の会話が途切れる。視線だけが残って、すぐに逸らされる。

正義を語ったつもりはない。だからこれは、当然の結果だった。


「空気読めよ」

「文化祭、台無しじゃん」


直接言われることは少ない。でも、聞こえるように言われる。

それが一番、効いた。


瀬尾の姿は、教室にはいなかった。しばらく休むという噂だけが流れていた。

誰も本当のことは知らないし、知ろうともしない。


白石ひなたとも、話さなくなった。


彼女が俺を避けているのか、それとも、俺が避けているのか。

たぶん、その両方だ。


屋上に行くのをやめた。あそこはもう、安全地帯じゃない。


 ――それでも、後悔はなかった。


あの日、あの場で黙っていたら、俺は一生、自分を嫌い続けていたと思うから。


数日後、放課後の校舎裏で、名前を呼ばれた。


「黒瀬くん」


振り返ると、白石が立っていた。

少し緊張した表情で、でも、逃げない目をしていた。


「話、してもいい?」


「……どうぞ」


一瞬の沈黙のあと、白石は深く頭を下げた。


「ありがとう」


その一言に、胸が詰まる。


「私、あの時……何も言えなかった。でも、全部聞いた」


彼女は顔を上げて、続ける。


「自分が、見たいものしか見てなかったって、やっとわかった。

 優しいふりをした空気に、流されてただけだった」


俺は、何も言えなかった。


「黒瀬くんが言ってくれた言葉、正直、傷ついたよ」


それでも、と彼女は続けた。


「でもね……

 あれは、私をちゃんと“一人の人間”として見てくれた言葉だった」


心臓が、大きく跳ねた。


「友達としてじゃなくて、

 男の人として、行動してくれたんだって、今は思う」


白石は、少しだけ照れたように笑った。


「だから……もしよかったら」


短い沈黙。彼女は、はっきりと言った。


「今度、一緒に出かけない?友達じゃなくて、デートとして」


世界が、少しだけ明るくなった気がした。


「俺で、いいの?」


情けない質問だった。でも、本音だった。


「うん。ちゃんと選びたいから」


その言葉で、すべてが報われた気がした。


教室では、俺はまだ孤立している。明日も、簡単には変わらないだろう。


俺は、自分で選んだ。そして、彼女も、選んだ。


それだけで、十分だった。

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