驟雨、リバーシ、無意識

坂本懶惰/サカモトランダ

驟雨、リバーシ、無意識(完結済み)

カクヨムコン短編11

お題フェス「天気」参加作品


 あいつは頭がいい。正直なところ、俺の完全な上位互換と言っても差し支えない。そして、あいつは仄暗い視線を無限遠へと投げながら、言っていた。頭のよさにも種類があるのだ、と。木雨がその長い睫毛に宿って、やがて彼女の頬を伝う。

 

 その日、俺は、珍しく早起きした。仕事のない日は必ず昼まで寝ているというのに、何かの間違いで、驚くほどすんなりと起床した。まだ八時半、これは間違いなく早朝だ。毎朝自動で起動するように設定したテレビは、つらつらと今日の天気を述べる。昼過ぎから雨が降るでしょう、と。そして、変な色のスーツを着た天気予報士が、お天気クイズを出題する。

 驟雨って、なんて読むでしょうか。

 シュウウだろう、と脳内で即答した。即答とも違うか、漢字がぱっと読めるというのは、いちいち回答しているのとも微妙に違う。ただ当然のようにニューロンが発火して、ゆえに意識に「シュウウ」が上ってきただけだ。それは多くの人間が当然のように無意識下で行う作業であり、そこにいちいち意識を割いていたら、ちょっと疲れるだろう。画面はスタジオに切り替わった。芸能人だか何だか知らないが、人間たちが談笑している。回答が表示されるまでがやけに長く感じる。寝起きの時間感覚の狂いは、時に心地いい。俺は上の空で枕元の氷砂糖をひとつぶ摘んで、口へと運んだ。

 すると、連絡があった。あいつからだ。あいつは変わっている。完全に変人だ。あの性格と世界観で、よく社会に馴染めているものだ、とつくづく感心する。きっと、そのためにすべき努力の全てを把握しているのだろう。

 メッセージのタイムスタンプは午前四時、たった一行、「今朝、飲みに行かないか」、と書かれていた。何もかもがおかしい。今朝、という言葉を未来のものとして使ってはいけない、というルールはない。ないだけで、けれど、誰もそうしない。それに、こいつは朝から酒を飲む気らしい。もちろん、朝から酒を飲んではいけない、というルールはない。ないだけで、もちろん、誰もそうしない。

 俺はそれに返信する。どこで飲む、とだけ返信する。ありえない速さで既読が付く。入力中になって、すぐに返事が返ってくる。最寄り駅前、と言われた。俺たちは奇妙な縁があるようで、大学で出会って意気投合してから、互いの就職先が取引先どうしだったり、家の最寄りが同じだったりしている。

 俺はパジャマを脱ぎ捨てて、暖かいだけのユニクロの服で身を包み、鍵と財布とイヤホンだけ持って、家を出た。


 駅前に、あいつは立っていた。俺より家は遠いはずなのに、そうだ、あいつは歩くのが恐ろしく早いのだ。100mを5秒フラットと言われても、そうでないと自信を持って言えないくらいに。

 駅前で、あいつはガードレールに臀を預けている。気取った濃紺のマリンハットを斜めに被り、細長い身体を隠すようにベージュのチェスターコートを肩にかけて、袖は通していない。例のごとく、コートに袖を通さなくてはいけないというルールはない。ないだけで、しかしながら、誰もそうしない。

 あいつはこちらを見つける。商店街のアーケードを抜けた瞬間には、もう既にこちらを見ていた。極めて高い洞察力と推測能力が組み合わされば、それは予知能力と見分けがつかない。きっと連絡の時間、俺の身支度がそこそこ早いという知識、家からの距離、歩く速度(俺はかなり歩くのが遅い。それをあいつは知っている。それでも今日は、楽しみで少し急いだのだ)、などからフェルミ推定じみて推理したのだろう。今更驚くほどのことではない。

 あいつは軽く右手を挙げて、こちらへと微笑む。昔、俺が、「お前は黙っている時の顔が怖い」と言ってから、あいつはいつもにこにこしているようになった。最初は無理して笑っているように見えたが、今はもうそうは見えない。適応したのだろう。それが心理的なレベルからなのか、それとも意志と表情筋だけが鍛えられたのかは俺にはわからないけれど。

 そして、左手には安いウォッカの瓶を持っていて、とことこ、と、こちらへ駆け寄ってくる。一歩進む度に、その透明な六角柱の中の透明の液体がちゃぷちゃぷと音を立てるのが聞こえてくるようだ。少し減っている。それとあいつの顔が軽く上気していることから、待ちきれずにひとくち飲んだのだと俺は理解した。

 

 午前中から酒を酌み交わすのであれば、そこに居酒屋の出番はなく、むしろ持ち込み可能なカラオケが最適であったりする。これは俺たちが大学生だった頃から変わらないので、不易の数多の真理のうちのひとつなのではないだろうか。

 大学、それに思いを馳せる。俺たちはいつの間にか大学を卒業して、必然、学割は剥奪された。今の俺たちは、当時よりちょっと高くなった代金を支払うことになる。俺たちは個室の中で、ドリンクバーで汲んできたコーラでウォッカを割りながら、そんな愚痴を言う。値上げ、それは成長するにつれて責任だけが増えていくようなもので、ほとんど不可逆だ。


 不可逆性。熱力学第二法則。すべての出来事はゆっくりと混沌へと向かっていく。

 最初は四つの白黒しかなかったリバーシの盤上の駒は、時の流れと共に幾度となく撃ち込まれ、増えては裏返りながら版図を拡大し、今まさに飽和して、もうほとんど黒に染まりきってしまった。思うに、四つ角を取られた時点で大勢は決していたのだろう。

 人生は何度でもやり直せる、などと無責任な他者は言うが、そんな主張の大人ふたりに挟まれたって、俺の意見が反転することはない。無意識に、そういう思想にしがみついている。容易に裏返らないのが人間の数少ない美徳のひとつであり、容易に裏返れないというのが人間を縛る数多桎梏のうちのひとつである。

 それでも、白がひとつでも残っているのなら、きっとまた俺の手番が来る。何を逆転と定義するかはさておき、そのチャンスはいずれ巡ってくる。と俺は信じて今日も生きているのだが、あいつは違うようだ。

 あいつは、オセロ盤ごとひっくり返そうとしている。あいつはいつも常識の外側を歩いている。世界を変えるんだ、などと恥も外聞もなく叫んでいる。

 ガリレオが天動説をひっくり返したように、わたしは駒を、オセロ盤を、卓袱台を返すんだ、と奇妙な裏返った声で鳴き、マイクを手に取る。ひどくハウリングしている。曲を予約する前から歌っている。歌詞を映すという仕事すらも奪われたモニターは、無職ながらも懸命にCMを流す。顔も名前も知らないアイドルが、声を合わせてニューリリースを宣伝する。そんなのは知ったこっちゃない、そもそも眼中に無い、といった調子で、あいつは歌い続ける。

 なぜだろう、今はただ、それが心地良かった。


 けれど、黒く染まりきったリバーシに未来がないように、白く染まりきったリバーシにも未来はない。溢れんばかりの才能が、あいつの首を絞めているように見える。何でもできるということは、何一つ「できないことを所有できない」ことでもある。誰よりも速く人生を駆け上がっていく。十三階段をホップステップして、ジャンプを待つだけのように見える。

 それとも、あいつはこのオセロ盤の8*8の64マスの中に取り残された、ひとつの桂馬だったかのようにも思える。

 相手の玉が存在しないからには、桂馬はどうやっても勝つことができない。

 桂馬は、最初から将棋の世界で生きるべきだった。俺と同じこの世界で生きていては、あいつは苦しむばかりだ。

 翼が溶け落ちて地上に墜ちた鳥か、あるいは声を失った人魚のようだ。しかし、どこへでも行けるだろう。目的地はないけれど。お前がいるのは、まだ、かつての描き込むべき余白に埋め尽くされた盤面なのだろうか。可能性溢れるお前は、その可能性の広さゆえに身動きが取れずにいるのではないのか。

 けれど、時間がすべてを狭めてお前を規定してしまった。というようにも感じる。

 あのころ、俺たちは何でもできたけど、今はもう、この盤上に余地はないんだ。少なくとも俺は、取り残されて、試合の終幕を待っているだけだ。世界という対戦相手はよっぽど俺たちより格上で、最初から勝ち目などなかったんだ。

 あと数手で、きっとゲームが終局へと至る。あいつの横顔は、そういう儚さを帯びていた。

 

 マイクをこちらに手渡す、あいつの細く骨張った手首が視界へと滑り込んでくる。その華奢な指が、小さな整った薄桃色の爪が、見える。

 そうして現実に引き戻される。あるいは、妄想よりも壊れた現実への思惟から、この小さな部屋という隔離された非現実へと引き戻される。

 ほら、歌いなよ。

 とあいつは言う。

 俺はマイクを受け取った。

 

 フリータイムで、俺たちは時間いっぱい、夕方まで歌っていた。


 帰路のはじめ、雨が降ってくる。予報通りの驟雨、柔らかな雨だ。そのとき、傘を差さなければいけないというルールはない。ないだけで、きっと、誰もが傘を差す。

 あいつは閉じたままの折り畳み傘を弄びながら、跳ねるように歩く。目深に被った帽子が、一滴二滴と雨を吸って、深海のような更なる濃紺に侵掠されていく。光が届かぬようにと、世界があいつを塗り替えていく。その栗色の跳ねた前髪を湿らせ、それがあいつの額に張り付く。

 今更、傘を差せよ、なんて言えないのだ。あいつは濡れることを選んだし、それによって出会う苦痛を愛している。この降り続く雨の世界で、苦痛を愛するしかなかった。自我の輪郭を際立たせるのは、いつの時代も苦痛の特権である。そうして雨は煌々とあいつを照らし、荒野にその影を落として、あいつの肉体は少しずつ冷えていく。

 あいつは、空を見上げた。その帽子が、後頭部を経由して地面へと滑り落ちる。俺もつられて、空を見上げる。

 なんにもないね。

 と、あいつは言った。天蓋は分厚い灰色に塗り潰されて、ああ、何も見えない。

 あいつの気儘なショートヘアーが、雨に濡れて枝垂れる。なぜか、あいつの最後の自由は、きっと今、失われてしまったのだろう、と感じた。静かに目を瞑って、ひとつ大きく息を吐いた。そしてあいつは言う。静かな独白だった。

 

 あたまのよさにも、種類があるんだよ。

 新しいものを創り出す才能、今あるものを組み合わせる才能、効率化の才能、見えないものを描き出す才能。人を導く才能。

 わたしはね、天才じゃん。きみも知っている通りに。ほとんどなんでもできるんだよ。

 でもそれは、どれも人間の条件じゃない。そんなものを持たずとも、みんな人間をやっている。わたしは、人間として生きるのが苦しいんだよ。なんでだろうね。

 みんなが持っていて、わたしに足りないもの。それが何かを考えたんだ。そして、ひとつの限りなく確からしい結論に辿り着いたんだ。

 この世界で、人間として生きていくための唯一の才能は、無意識という第六感に引っ張られて進むことなんだよ。つまり、見える世界を疑わないこと。現実を認めて、ただ次の呼吸に集中すること、それだけだった。

 その蒙昧さこそが、人間を人間たらしめる、いちばんのあたまのよさなんだよ。

 そして、わたしにはそれがなかった。わたしにはね、無意識がないんだ。脳内のすべてのことを意識が掌握している。苦しいことだよ。副産物で完全記憶や論理思考がついてきたけど、とても埋め合わせにはならない。

 すべてが疑わしい。

 今日まで日々が続いてきたことは、無意識に明日という日の存在を予測させるけど、同時に、明日が来ることの証明にはならない。信じることはできない。

 無意識がないから、あらゆることもわたしを安心させることはない。きりがないでしょ。わたしは無限にも等しいわたしの「負け筋」の、ほとんどすべてを想像できるせいで、いつも、未来はとっても暗い。

 この雲の向こうには今も太陽があると、今でも信じられないんだ。いま降りしきるこの雨がいずれ止むこと、次の呼吸が続くということ、明日も世界が存在し続けるということ。わたしには、それがわからない。納得できない。もし納得できても、実感できない。どうにも現実感がないんだ。盲信なんてできそうもない。信じられるものなんて何もない。日常は、前触れなく豹変するし、突然に終わったりしてしまうものだから。能力というものがどれだけあっても、進むべき方向がわからない。広大な草原の中央に、道はひとつも無いのだから。

 だから、わたしは普通の人間になれなかった。自分が明日も生きていくということを、信じられなかった。毎日が世界の終末の日のように思えて、いつ終わってしまうのかと恐ろしくてたまらない。

 普通に生きているやつが羨ましいよ。それに、美しいと思う。希望というものを本気で信じられるやつは、いつも輝いている。希望とまではいかなくとも、未来、ポジティブな変化に向かって動けるやつは、尊く気高いと思う。何が善なのかを無意識に感じ取って、光の射す方へとゆらゆら歩くという才能。走光性を持つ人間。例えば、きみのような、ね。

 だから、わたしは極端に客観的になっているんだ。善が相対的なものだとして、主観がなければ自分の内なる声に従うこともできない。離人症か、それとも、クオリアがない、と言えばいいのかな。あらゆる美徳や歓喜は他人事で、ただ不安と空虚だけしか、心から感じることができないんだ。

 社会で普通に暮らすことが、それすらも苦痛なんだよ。そんなだから、生きるのがつらいよ。

 ずっと眠れずにいるんだ。愛しいインソムニア。


 あいつはそう言って、少し怯えたような視線で俺の目を見て、困り笑いのような表情になった。それから目を伏せて、ぜんぶうそだよ、と冗談めかして微笑んだ。


 そして、突然ふらっと姿を消してはいけないというルールはない。ないだけで、誰もそうしない。本当は、そんなことはすべきではない。

 そうしないでほしい、と俺は願っている。

 駅前で別れる前に、あいつは、ちょっとトイレに行ってくるね、とだけ言って、そのままここへは帰ってこなかった。駅前のロータリーでは、送迎の車と細長いバスがゆっくりと循環している。止まっては人を下ろしてまた発進する。それを、俺はずっと見ていた。

 それでも、俺が待たなければ、あいつが帰る先がなくなってしまうのではないか、と柄にもなく思って、夜が明けるまでベンチであいつを待っていた。

 いつしか薄明が静かに駅舎を照らして、街灯は音もなく消灯した。

 

 あいつはなんでもできたし、なんでも考えることができたけれど、日常にありふれた「普通の人間」になることだけはできなかった。その矯正はひどく苦痛と労力、そして自己否定を伴うものであり、きっと、あいつにとっての唯一にして最大の挫折であったのだろう。

 お前は異端だった。異常だった。そして、特別だった。普通になることは、きっと一生できないだろう。けれど、いつかお前がそういう絶望を愛せるようになれれば、それがいい。

 そして、俺は、お前の努力を認めてやりたい。その結果である、確かな挫折のことも、認めてやりたい。

 お前は、ずっと往くべき道を知らないままだったのかもしれないけれど、それでもここまで確かに歩いてきたんだよ。

 振り返ってご覧、お前は、お前が愛する人間たちと同じ、人間なんだよ、と。

 俺がその言葉を届ける前に、お前は消えてしまった。俺の中に、矮小な後悔が残った。

 

 驟雨を齎す雲に風が空隙を作り出し、そこから僅かに光が覗く。また朝が来た。あいつの信じなかった朝が来た。

 もう、あいつとは会えないだろう。そう思った。

 

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