第5話 忘れないはずなのに
――名前だけが、危うい
神崎大河には、ひとつ確信があった。
でも、それは確固たる根拠のないただの自信。
ただ、三秒ズレるたびに消えていく記憶の中で、
彼女の存在だけが、未だ沈まない
「神崎くん、おはよ」
朝の教室。
澪の声を聞くだけで、胸が落ち着く。
「おはよう」
名前を呼ばなくても、彼女には通じる。
(ほらな)
そう思っていた。
「忘れないように名前を呼びなさい」
「はい、西園寺」
「よろしい」
怒られた。
◇
その日、ズレは多かった。
廊下で佐藤たちに絡まれ、ズレる。
階段で誰かとぶつかりそうになり、ズレる。
体育でボールが飛んできて、ズレる。
(……今日は多いな)
頭が、じわじわ重くなる。
◇
昼休み。
「神崎くん、顔色悪いよ?」
澪が心配そうに覗き込む。
「大丈夫……たぶん」
「“たぶん”って事は危険信号だね」
「じゃあ、“まあまあ”で」
澪は小さく笑った。
(この笑い方……好きだ)
そう思った瞬間。
(……あれ?)
“好き”という感情はある。
でも――
(いつから、好きになったんだっけ)
思い出せない。
胸が、ひやっとする。
放課後。
校門前。
佐藤が立っていた。
「神崎、話がある、ちょっとこいや」
嫌な予感。
(使うな……)
後ろから中嶋がドンと肩を押す。
フラッシュバック。
「――っ!」
ズレる。
中嶋は勢い余って前に出て、バランスを崩した。
「……ぬおっ」
そのまま佐藤にぶつかり、地面に転がった。
大河は無事だった。
だが、頭の中が真っ白になる。
(……今、何を考えてた)
心臓が
「神崎くん!」
澪が駆け寄ってくる。
「大丈夫!?」
その顔を見た瞬間、安心する。
(……よかった)
だが。
「……」
口を開こうとして、止まる。
(……名前)
喉の奥で、引っかかる。
(
「……あれ?」
澪が、不安そうに眉を寄せる。
「神崎くん?」
「……ごめん…ごめん」
声が、震える。
(言えない)
ベンチに座る。
「……ねえ」
澪が、静かに言う。
「今日、何回ズレた?」
「……覚えてない」
「それが答えなんだね」
澪は、少しだけ笑って、そして真剣な顔になる。
「神崎くん」
「……」
「私の名前、言える?」
沈黙。
頭の中に、顔はある。
声も、仕草も、温度もある。
でも。
(……名前が、遠い)
「……ごめん」
それだけしか言えなかった。
胸が、締めつけられる。
(忘れないはずだったのに)
澪は、しばらく黙っていた。
そして、突然立ち上がる。
「よし」
「……え?」
澪は、腰に手を当てて言った。
「対策考えよ」
「対策?」
「名前が危ないなら」
彼女は、ぐっと顔を近づける。
「何回でも呼ばせる」
「……は?」
「呼ぶまで帰さない」
「スパルタすぎない!?」
少し、空気が軽くなる。
帰り道。
澪は、わざと距離を詰めて歩く。
「ほら、言ってよ」
「なに?」
「なまえ、わたしの」
大河は、必死に集中する。
「……み……」
喉が鳴る。
「……
言えた。
澪の顔が、ぱっと明るくなる。
「合格」
「……助かった」
「助かったってなによ!」
「いやぁ、ごめん」
大河は、心底そう思った。
助かったとは怒られずに済んだと言う意味じゃない。
(名前を忘れかけても)
(想いが削れても)
(この人は、自分から離れない)
三秒ズレる力は、
彼から“理由”を奪っていく。
だが。
「ねえ、神崎くん」
「なに?」
「忘れてもいいよ」
澪は、微笑んで言った。
「好きって気持ちだけ、残ってれば」
それが一番、厄介だと知らずに。
ラブコメは、
名前すら危うくなるところまで、進んでしまった。
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