第5話 忘れないはずなのに

――名前だけが、危うい


神崎大河には、ひとつ確信があった。


西園寺澪さいおんじみおだけは、忘れない。


でも、それは確固たる根拠のないただの自信。


ただ、三秒ズレるたびに消えていく記憶の中で、

彼女の存在だけが、未だ沈まないうきのように残っていた。


「神崎くん、おはよ」


朝の教室。

澪の声を聞くだけで、胸が落ち着く。


「おはよう」


名前を呼ばなくても、彼女には通じる。


(ほらな)


そう思っていた。


「忘れないように名前を呼びなさい」


「はい、西園寺」


「よろしい」


怒られた。



その日、ズレは多かった。


廊下で佐藤たちに絡まれ、ズレる。

階段で誰かとぶつかりそうになり、ズレる。

体育でボールが飛んできて、ズレる。


(……今日は多いな)


頭が、じわじわ重くなる。



昼休み。


「神崎くん、顔色悪いよ?」


澪が心配そうに覗き込む。


「大丈夫……たぶん」


「“たぶん”って事は危険信号だね」


「じゃあ、“まあまあ”で」


澪は小さく笑った。


(この笑い方……好きだ)


そう思った瞬間。


(……あれ?)


“好き”という感情はある。

でも――


(いつから、好きになったんだっけ)


思い出せない。


胸が、ひやっとする。


放課後。

校門前。


佐藤が立っていた。


「神崎、話がある、ちょっとこいや」


嫌な予感。


(使うな……)


後ろから中嶋がドンと肩を押す。


フラッシュバック。


「――っ!」


ズレる。


中嶋は勢い余って前に出て、バランスを崩した。


「……ぬおっ」


そのまま佐藤にぶつかり、地面に転がった。


大河は無事だった。

だが、頭の中が真っ白になる。


(……今、何を考えてた)


心臓が早鐘はやがねを打つ。


「神崎くん!」


澪が駆け寄ってくる。


「大丈夫!?」


その顔を見た瞬間、安心する。


(……よかった)


だが。


「……」


口を開こうとして、止まる。


(……名前)


喉の奥で、引っかかる。


西さい……えっと……)


「……あれ?」


澪が、不安そうに眉を寄せる。


「神崎くん?」


「……ごめん…ごめん」


声が、震える。


(言えない)


ベンチに座る。


「……ねえ」


澪が、静かに言う。


「今日、何回ズレた?」


「……覚えてない」


「それが答えなんだね」


澪は、少しだけ笑って、そして真剣な顔になる。


「神崎くん」


「……」


「私の名前、言える?」


沈黙。


頭の中に、顔はある。

声も、仕草も、温度もある。


でも。


(……名前が、遠い)


「……ごめん」


それだけしか言えなかった。


胸が、締めつけられる。


(忘れないはずだったのに)


澪は、しばらく黙っていた。


そして、突然立ち上がる。


「よし」


「……え?」


澪は、腰に手を当てて言った。


「対策考えよ」


「対策?」


「名前が危ないなら」


彼女は、ぐっと顔を近づける。


「何回でも呼ばせる」


「……は?」


「呼ぶまで帰さない」


「スパルタすぎない!?」


少し、空気が軽くなる。


帰り道。


澪は、わざと距離を詰めて歩く。


「ほら、言ってよ」


「なに?」


「なまえ、わたしの」


大河は、必死に集中する。


「……み……」


喉が鳴る。


「……みお


言えた。


澪の顔が、ぱっと明るくなる。


「合格」


「……助かった」


「助かったってなによ!」


「いやぁ、ごめん」


大河は、心底そう思った。

助かったとは怒られずに済んだと言う意味じゃない。


(名前を忘れかけても)

(想いが削れても)


(この人は、自分から離れない)


三秒ズレる力は、

彼から“理由”を奪っていく。


だが。


「ねえ、神崎くん」


「なに?」


「忘れてもいいよ」


澪は、微笑んで言った。


「好きって気持ちだけ、残ってれば」


それが一番、厄介だと知らずに。


ラブコメは、

名前すら危うくなるところまで、進んでしまった。

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