虹の朝
たなかみふみたか
虹の朝
陽が傾くのが少し遅くなった。
それでも青空の下の陽射しは暖かさではなく光だけを届ける。落ち切らなかった銀杏の葉が西日として差し込むその光を、やわらげるように揺れていた。
チャペルの高い鐘の音を背に、みのりは校門をくぐった。
鞄に触れると、その革の手触りの下から白い封筒が友人たちの声で微かに笑っているように感じた。
内部進学の内定通知書。
顔を上げると、青空と陽射しが自分の将来を照らしているように、みのりには思えた。
姉のみさえが息子の智則を抱いて帰って来た。
憔悴したその顔に、母は何も言わずにかつての姉の部屋を開けると、孫を抱きとめた。
姉は黙って部屋に入ると、そのドアを閉めた。ガチャリ、と重い音がした。
みのりは落ち着かなく母の周りをうろうろしていたが、やがて母から促され、おそるおそる甥を抱き渡されると、その軽さと重さに少しだけ体が震えるのを覚えた。
母は、姉が下げてきた鞄の中身を広げながら、
「布のおむつ…… 今どき」
一言だけ呟くと、紙になにやらメモを書き、
「近くのドラッグストアで買ってきて」
と、みのりに指示を出した。
『紙おむつ Mサイズ』と書かれた紙と財布を渡され、
「わからなかったら店員さんに聞くんだよ」
と、告げられ、わけもわからないまま家を追い出された。
普段なら暗くなってからの外出には煩い母が、使いに出すのだからよほどなのだろうと、みのりは自転車を飛ばした。
ドラッグストアに着くと、想像以上に大きな四角い商品を両手に抱えながらレジに向かい、念のためメモを店員に見せてからお金を払った。
意外に高いものだなと思いながら、
「甥のなんです」と、思わず口に出てしまった。
家に戻る途中も、その大きな荷物が転げ落ちないように片手で支えながらの運転になったので、次からは通販で買うべきじゃないかと自転車を漕ぎながらごちた。
まったく重くはないが、ただ大きくかさばった。
父が居れば車で、と思うが、残念ながら夏までトルコから帰って来ない。
帰り着くと、智則は母にあやされながら機嫌よく笑っていた。リビングの隅に買って来たものを置くと、みのりは智則の側に寄った。
智則はみのりの顔をまじまじと見つめると、少し笑った。嬉しくなったみのりは両手で「いないいないばあ」としたら、智則はまた笑った。
それをしおに母は立ち上がると、キッチンで夕食の準備に取り掛かった。みのりは智則の小さな手を握りながら何度も「かわいい」を繰り返した。
「みのり、鞄の中から哺乳瓶を出して。ミルクの用意の仕方、教えてあげるからしっかり覚えなさい」
キッチンからの母の言葉にみのりは嬉々として立ち上がった。
「ともちゃーん、ちょっと待っててねえ。お姉ちゃんがミルク作りますからねえ」
みのりは哺乳瓶を出すと母親のもとに行き、渡した。チラリとそれを見た母は、
「新しいのね…… 使わせてもらってないのか」
と、小さく呟いて鍋に水を張った。力が入ったのか水流が飛沫となって散った。みのりが慌てて水の量を抑えた。
「煮沸消毒して。それからやかんにお湯を沸かして、少し冷ましておきなさい」
いつもより硬い声の母に、思わず不安な顔を向けて、みのりは頷いた。
姉が二階から降りてきたのは二十時を過ぎた頃だった。
少し慌て気味に階段の途中まで降りてきたところで、息子がすやすやと妹に見守られながら眠っているのを見ると、安心したようにその場に崩れた。
驚いたみのりを制するようなしぐさの後で、母は姉に向かって、
「大丈夫だから、ご飯食べなさい」
と、だけ言った。
階段の手すりの陰で、姉のすすり泣きが聞こえてきたので、みのりはまた驚いて顔を上げたが、母が黙って姉の頭を撫でているのが見えた。
母と姉だけにわかる言葉があるようで、少しだけ胸に痛みを覚えたが、視線を甥に戻すと、またその手に軽く触れて微笑んだ。甥も笑ってくれた。
翌日は土曜日なので、みのりは遅くまで甥の傍らで過ごした。
姉は息子を挟んだ反対側で既に眠りに落ちており、母も時折様子を見に来ていたが、やがて「あんたも今日はここで寝てあげなさい」と言って、布団を持ってきてくれた。
甥は終始にこやかで、早い時間に一度だけおむつの交換を手伝ったが、嫌悪感は感じなかったので、こんなものかと拍子が抜けた。
紙おむつは楽だ、と言いながら鼻をすすった姉に、「布おむつ、やめたら?」と言ったみのりに、姉は軽く睨んだが、やがて大きな溜息をひとつ吐いて、「そうね」とだけ言った。
いつの間にかうつらうつらしていたみのりが目覚めると、姉が息子を抱いて乳をあげていた。
生まれて初めて見た母としての姉の姿に、みのりは声をかけることもできないほど心の震えを感じてしまい、『お姉ちゃん』との距離が取り返しのつかない距離に感じられて、訳もなく寂しくなってしまい、そのまま目を瞑った。
翌朝、にこやかな甥と布団の中から指先だけで遊びながら、起きる気配のない姉に少し心配になったが、それでも母が来て「ばあばと遊ぼうか」と、孫を抱き上げたタイミングでみのりも起きた。
姉はそのままにしておいた。起こさないようにそっと部屋を出た。
顔を洗い窓から外を見るとぐずついた天気だったので、土曜日で良かったと思いながら着替えを済ませてリビングへ入った。甥がにこやかな顔で犬のぬいぐるみで遊んでいたが、それは甥が生まれた時にみのりがプレゼントしたものだったので、驚くと共に、姉が持ってきてくれたことが嬉しく、昨夜に感じた姉との距離は勘違いだったのだと反省もした。
「お姉ちゃんはどうしちゃったの?」
気になっていたことを母に聞いたみのりだったが、母は溜息をひとつ吐いたきりだった。それでも少しして「今日、もし智一さんが来たら、そっちに聞いてみたら良いわ」と義兄の名を言ったが、母のその顔は、なにかを諦めたような表情に見えた。
少しだけ胸にざらつきを感じたみのりは、
「なんだか子ども扱いされてるみたい」
と文句を言ってみたが、母はただ笑うばかりだった。
雨が降りだしたころ、義兄が訪ねてきた。母の言ったとおりになったのでみのりは少し驚いたが、母は口数少なく義兄をリビングに通した。
そしてみのりは促されて、二階の姉のもとへ行った。階段の途中でリビングを振り返ると、智則が嬉しそうな顔で父親に抱かれていた。
「お父さんなんだ」と妙な安堵を感じたが、ふと母親が複雑な顔で孫を見ていることに気がついて、胸がざわついてしまった。
二階の部屋のドアをノックして、
「お姉ちゃん、お義兄さん、来たよ」
と、言ってみたが返事はなく、寝ているのかと思ってそっとドアを開けたら、姉は布団の上で泣きそうな顔になっていた。
昨夜見た母親としての凛々しい姿とはかけ離れた、幼子のような姿にみのりは驚き、喉まで出かかった「どうする?」という言葉が出なくなってしまった。
姉のその顔には見覚えがあった。いたずらをしてお父さんに怒られる直前の顔にそっくりだった。
なにか言おうと思ったが、やめてドアを閉めた。
「もうちょっとかかるみたい」
そう言いながらみのりは階段を下り、リビングの義兄を睨んだ。
「お義兄さん、何があったの?」
みのりは義兄に向かって問い詰めようとした。母はキッチンで洗い物を始めた。そんな母をちらりと見ながら義兄はみのりをリビングの隅に誘い、智則を抱きながら小声で話し始めた。
「俺の仕事って、コンピューターを扱う仕事なんだよ。言ったことがあると思うけど」
みのりは黙って頷いた。
「だからミスが許されなくてさ。ミスをしたら大勢の人に迷惑がかかるんだ」
また頷いてみのりは続く言葉を促した。
「夜はぐっすりと寝なきゃいけないんだ。だけど智則が夜に泣くから良く起こされるんだ…… 寝不足になるよ」
昨夜の甥は全く泣かなかったが、それは珍しい事だったのか、とみのりは考えながら聞いていた。
「だから、みさえにお願いしていたんだ。夜に泣かさないようにしてくれと…… ほら、みさえは一日中家に居るからさ、智則の世話をきちんとしていたら、夜泣きの回数も減るはずなんだ」
姉が息子の世話をしていないと、義兄は言っているのだろうか? みのりは返事に困った。
「うちの母さんもさ、気にして毎日様子を見に行ってくれてるんだよ。だのに少しも変わらない。母さんも愚痴ってたんだ、みさえが言うことを聞かないって…… そのことを言ったら喧嘩になってさ」
みのりは何か姉のために弁護をしたくなった。先ほどの怯えたような姿の姉を思い浮かべながら、
「お姉ちゃんがサボっているっていう事?」
と、尋ねてみた。義兄は慌てて首を振って、
「そうじゃないよ。ただ子育てって手を抜いちゃ駄目だろ? 智則のためにならない」
「手を抜くって……」
みのりの困惑した顔に義兄は、
「母さんが言ってたんだ。子供はミルクじゃなく母乳で育てなきゃ健康に育たないって。それから……」
リビングの隅に置かれた紙おむつの袋を見ながら、
「紙おむつは高いだろ…… もったいないよ。布なら洗えばまた使えるしさ。俺もそうやって育てられたんだ。つまり手をかければかけるほど子供はまっすぐ賢く育つんだ。親の愛情をそれだけ感じるからさ」
それらを聞いているうちに、よくわからないけれど、筋は通っている気がした。
確かに紙おむつは思っていたより高かった。あれを毎回買っていたらお金がいくらあっても足りないような気がする。それに洗濯すればまた使える布おむつの方が環境に優しいだろう。
でも…… と思う。
「お姉ちゃんと私は…… うちのお母さんに育てられたけれど、お母さんのことが大好きだよ。まっすぐに育ったつもりだよ」
その言葉に義兄は少し詰まった。
「いつも紙おむつじゃ確かに高くつくかもしれないけれど、たまには良いんじゃない? お義兄さんもおむつを替える時、楽な方が良いでしょ?」
義兄は首を振った。
「おむつの交換は母親の役目なんだ。子供は小さなときほど母親の愛情を必要とするもんだよ」
みのりにはよくわからない理屈だった。
「じゃあ、父親は子育てには参加しないの? 今どきなのに?」
義兄は、
「子育ては流行り廃りでやるもんじゃないってうちの母さんが言ってたんだ。父親の役目は、子供が中学に入ってから始まるのさ」
と、胸を張った。
「やっぱり良くわからない。でも紙おむつは使わせてあげてよ。お姉ちゃんにはお姉ちゃんのやり方があるんだと思うから」
義兄は大げさなほど大きな溜息を吐いた。
「みさえはもう、うちの家族なんだ…… ああ、でもわかったよ、紙おむつの事は俺から母さんに言っておくよ」
キッチンで茶碗が一つ割れた音がした。母が手を滑らせた、と怖い顔で言った。
「明日は智一さん、お休みなんでしょ。うちに泊まっていきなさいな」
母が固い声で言った。
「私もそれが良いと思う。お姉ちゃんとゆっくり話してみたら……」
そこまでみのりが言いかけた時、キッチンの方から割れた茶碗をごみ箱に投げ入れる音が響いた。
みのりは立ち上がって、「お義兄さん、珈琲でも淹れるね」と言った。
義兄は居心地が悪そうに、それでも黙って頷いた。
今まで経験したことのない雰囲気での夕食だった。
誰も喋らない。
姉はゆっくり食べていた。食が進まない、というわけではないだろう、昼食はみのりの知っている姉らしく、次から次へ箸を口に運んでいた。
そう言えば昨夜遅くの夕食も、母に見守られながら「美味しい」を何度も繰り返しながら食べていた。
今夜の姉は幾度も、布団で一人遊びをしている智則と、そして黙って食べている義兄の顔を窺がうように見ていた。
義兄は、表情を変えずに黙々と食べていたが、早々に食べ終わると「ご馳走様でした」と、一言だけ言って箸を置いた。
そしてすぐに席を立つと智則と遊び始めた。
「お粗末様でした」
と、母がまた硬い声で言った。
楽しいはずの食卓が空虚な空間になって、皆が皆、味のしないものを機械的に食べているようで、みのりも早々に席を立つと食べた食器をキッチンへ運んだ。
風呂が沸いたという姉の言葉に、義兄はさっさと風呂に向かった。
義兄が居なくなったリビングで、姉がぽつりと「ごめんなさい」と呟いた。
「何がだい?」
洗い物をしていた母がそう聞いた。
「……私が帰って来たから」
消え入りそうな声で話す姉の言葉に、母は手を止めた。
「ここはみさえの家じゃないか。普通の事だよ」
そう言う母に向かって、姉はゆっくり頷いてから顔を上げた。その目に涙が光っていたが、それでも笑おうとしながら息子の傍らに向かい、その手を取って明るい声を絞り出していた。
義兄は姉の部屋に泊まった。
家族三人でゆっくりできればいいな、とみのりは思い、
(姉の家族に幸がありますように)
と、祈った。
翌朝、昨日の雨が嘘のように晴れ上がった青空に、みのりは良いことが起こりそうな予感で胸が膨らんだ。
朝食も摂らずに帰ると言う姉夫婦に、もう少しゆっくりして行けばどうだい、と母が言ったが義兄が首を振った。
「これ以上、ご迷惑はおかけできませんから」
と、言って。姉もその隣で息子を抱きながら頷いた。
母はそれ以上、何も言わなかった。
義兄の車が去った空に虹が円弧を描いていた。
「虹よ、お母さん」
みのりの弾んだ声に、母も空を見上げた。
「お姉ちゃん、きっと大丈夫だよ。虹は神様からの平和の約束なんだよ、だからきっと仲直りできたのよ」
そして乾きかけた地面を見やると、
「『雨降って地固まる』っていうしさ、お義兄さんも悪い人じゃないんだから、お姉ちゃんが好きになった人なんだから」
と、元気よく付け加えた。
母は低い声で言った。
「ぬかるんだ地面はね、雨が降るたびぬかるむもんだよ。覚えておきなさい」
そしてまた、空の虹を見上げて、
「平和の約束ね…… 『水』では、ってだけでしょ」
と、吐き捨てるように言ったが、みのりは意味が分からずあいまいに笑った。
そんなみのりを優しく見つめると、母は背を向けて玄関へ向かいかけたが、ふと立ち止まった。
「次は夏か…… お父さん帰って来てるだろうから……」
そう呟くと、
「みのり、夏休みは友達と旅行にでも行きなさい。大学生ならバイトも出来るでしょ」
と、言った。
「良いの? お母さん、嬉しい!」
みのりの朗らかな声が虹の下に響いた。
虹の朝 たなかみふみたか @-tanakamiF-
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