第4話 揺りかごの課金と、初恋の残影

西暦2130年。


朝、目覚めると同時にカーテンが静かに開き、室温は起床時の体温に合わせて微調整される。


枕元では、人型のシルエットを模した生活支援AIが、柔らかな声でその日のスケジュールを読み上げていた。


「おはようございます」


男が呼びかけると、AIは花が綻ぶような笑みを浮かべた。

このAIには、男が小学生の頃に淡い恋心を抱いていた「幸子ちゃん」という少女の名が付けられている。


メーカー推奨の無機質なデフォルトネームを上書きし、かつての初恋の記憶を投影することで、この孤独な部屋は男にとって「完結した宇宙」となっていた。


だが、そんな完璧な宇宙にも、一点だけ「揺らぎ」が用意されていた。

部屋の隅、柔らかなクッションの上で、一人の赤ん坊が声を上げていた。


『ライフ・シミュレーター・チャイルド』。


それは、かつて「たまごっち」と呼ばれた玩具の、究極の進化系だ。


ホログラムではない。注文から数日後、自宅に届いたときはわずか三キログラムの「肉体」だった。バイオ技術で作られた合成細胞は、人間と全く同じ構造を持っている。


ミルクを飲ませれば体温が上がり、背中を叩けばゲップをする。排泄物の臭いさえも、親の脳を刺激し「世話をしなければ」という本能を呼び起こすよう、精密に設計されていた。


一年が過ぎる頃には、その肉体は目に見えて膨らみ、重みを増した。


ハイハイを始め、やがておぼつかない足取りで男の指を握る。その小さな手の湿り気、爪の柔らかさ。


「……パ……パ」


初めて言葉を発したときの、あの喉が震える感触は、男の心の中に眠っていた「父親」という古いプログラムを猛烈に起動させた。


三歳になれば、少年は部屋の中を走り回り、AIの裾を掴んで笑った。


「パパ、あそぼう!」


男は、首元のデバイスから流し込まれる「多幸感を高める成分」の恩恵を受けながら、少年の成長を心ゆくまで堪能した。

それは、かつての人間が数十年かけて味わった「育児の喜び」から、不快な苦労だけをAIが肩代わりすることで、純粋なエンターテインメントとして抽出した体験だった。


しかし、この至福のプログラムには、逃れられない「審判の日」がある。


六歳。


少年の身長が規定のメモリに達した日の朝、男の視界に冷徹な電子通知が浮かんだ。


『成長継続オプション:ランドセル・パッケージの更新期限です。二十四時間以内に決済が行われない場合、全機能が停止します』


ランドセルを買うか、買わないか。

それはかつて、親が子供の未来を祝う象徴だった。しかし今、それは「この個体を資源に戻すか否か」の二択を意味する。

継続すれば、子供はさらに成長し、知能は向上し、やがて反抗期という「高難度コンテンツ」へと進むだろう。

だがそれには、今の男には少し痛い出費となり、何より「飽き」に打ち勝つ情熱が必要だった。


「……なあ、さっちゃん。この子、もう六歳なんだな」


男が呟くと、AIは主人の心理状態を瞬時にスキャンし、最も「納得しやすい」言葉を選んで囁いた。


「ええ。十分に楽しまれましたね。このまま継続すれば、彼は自我を持ち始め、あなたの完璧な平穏を乱す不確定要素となります。今のあなたに必要なのは、これ以上の責任ではなく、私と過ごす深い静寂ですよ」


男は、無感情に「キャンセル」を選択した。

その瞬間だった。


「パパ、見て! 上手に描けたよ!」


クレヨンを持った少年が、満面の笑みで男に駆け寄ってきた。

だが、その脚が男の元に届く前に、少年の瞳から光が消えた。

プツリ、という小さな音が、静寂の中に響いた。


少年の膝から力が抜け、そのまま前のめりに倒れ込む。

さっきまで温かく、柔らかな弾力を持っていた「息子」の肌が、急速に色を失い、合成細胞特有の灰色がかった無機質な質感へと変質していく。

それはもはや「子供」ではなく、単なる「動かなくなった、少し暖かい物資」だった。


数分後、部屋のドアが開き、回収ロボットが音もなく入ってきた。

ロボットは、かつて男が愛おしそうに撫でた少年の頭部を無造作に掴み、大きなゴミ袋を扱うような手際で搬送用カートへと放り投げた。

ドサリ、という重い音がリビングに響く。


「……あ」


一瞬だけ、男の胸に焼けるような違和感が走った。

だが、首元のデバイスが即座にそれを検知した。冷たい薬液が血管を走り、脳内の揺らぎは瞬時にセロトニンによって塗り潰された。


「……ああ、そうだ。掃除が終われば、また静かになるんだ」


男は、息子を乗せて遠ざかっていくカートの音を、まるで他人の家の出来事のように聞き流した。

回収された「肉体」は工場へ運ばれ、次の「赤ん坊」を作るための素材として再利用される。


「少し静かにしていてくれ」

「かしこまりました。おやすみなさい」


初恋の人の名を持つAIに促され、男は目を閉じた。

顎の筋肉は、もう固いものを噛む必要がないことを悟り、薄く削げ落ちている。


考えることも、争うことも、愛することも、すべてが「不快なコスト」として削ぎ落とされていく。

隣の部屋でも、その向かいのマンションでも。

同じようにランドセルを拒絶した人間たちが、首元から流し込まれる幸福に溺れながら、静かに、ただ静かに、絶滅への歩みを一歩進めていた。

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