第3話 咀嚼すらも煩わしい

「サプリメントの究極形だよ。もう、咀嚼そしゃくなんて時間の無駄だ」


友人が首元に貼られた小さなデバイスを指して笑ったのは、ほんの数年前のことだった。

今や、街を行く人々の首元には一様に同じものが装着されている。


『バイタル・デバイス』。


それは睡眠中に、その日の活動量や血中成分をAIが計算し、ピアスをあける時のような小さな穴から最適化された栄養素を流し込む。

目覚めたとき、胃は程よい満腹感に満たされ、血糖値は完璧な安定を見せている。


かつて人々を悩ませていた生活習慣病は、またたく間に消え去った。


「病気」という概念は、この数年で急速に過去の遺物となりつつあった。


「……美味い、のかな」


ある男が、机の上に置かれた「味覚シミュレーター」を口に含んだ。

それは、かつて「ステーキ」と呼ばれていたものの電気信号を、舌の神経に直接送り込むデバイスだ。


脳が「脂の乗った肉の旨味」を感知する。

芳醇ほうじゅんな香り、焼き目の香ばしさ、溢れ出す肉汁。

その再現度は、本物の肉を凌駕していた。


だが、口の中には、何も存在しない。

ただの銀色の金属棒が、虚しく舌の上に乗っているだけだ。


「完璧だ。……完璧すぎて、吐き気がする」


男はデバイスをオフにし、ベッドに横たわった。

ふと、街に一軒だけ残っていた「定食屋」を思い出した。

自動化の波に抗い、今も生身の人間がフライパンを振っているという、時代遅れの店だ。

男は何かに突き動かされるように、外へ出た。

街は静かだった。

人々は皆、首元にデバイスを貼装着し、家の中でAIが提供する「完璧な体調」を享受している。



辿り着いた店の看板は、ひっそりと消えていた。

ガラス戸には一枚の紙が貼られている。


『本日をもちまして、閉業いたします。材料の仕入れが困難となりました』


この張り紙もいつ貼られたものか分からない。

雨染みもあって月日が経ってるように見える。


米作りは、三年前になくなった。

効率の悪い農業はAIによって管理された合成栄養素の生産に置き換わり、土を耕す人間はいなくなった。


「誰か、いませんか」


店の奥に声をかけると、腰の曲がった老人が出てきた。

この街で久々に出会った「不健康そうな人間」だった。


「……あんた、食べに来たのかい? 悪いが、もう何もないよ」


「何でもいいんです。何でもいいから、本物の、実体のあるものを食べさせてくれませんか」


老人は困ったように笑い、奥から小さな箱を持ってきた。

中には、ひび割れた黒い塊が入っていた。


「去年、趣味で植えたプランターから採れた、最後の一本だ」

「コレでよければ…。ホレ、食べなはれ」


それは、小指ほどの大きさしかない、痩せ細ったキュウリだった。

男はそれを手に取った。

冷たくて、ゴツゴツしていた。

一口、噛んだ。


パキッ、という乾いた音が、静かな店内に響いた。

強い苦味と、微かな青臭さが口いっぱいに広がる。

脳に送られる電気信号のような「計算された旨味」ではない。

不完全で、無骨で、生命の抵抗のような味がした。

男は、涙が止らなくなった。

顎を動かし、固い繊維を噛み砕く。

喉を通る感触、胃に落ちていく重み。


「食べる」という行為が、これほどまでに自分を「人間」だと実感させるとは思わなかった。


「……美味しいです。本当に」


「そうかい。だがね、もうすぐみんな忘れるよ。噛むことも、飲み込むことも。面倒なだけだからね」


老人の言葉通り、店を出る頃には、首元のデバイスが優しく振動した。


『異常な味覚刺激を検知。不純物の摂取を確認しました。解毒成分を増量します』


体内で、AIが静かに処理を開始した。

先ほど感じた苦味も、青臭さも、噛み砕いた感触も、すべては「エラー」として抹消されていく。

数分後には、体調は再び「完璧」に戻った。


街の向こうでは、巨大な輸送機が、味も素っ気もない合成栄養素のコンテナを運んでいる。

人間はもう、飢えることはない。

ただ、その代わりに、何かを決定的に失った。

「空腹」を抱え、「毒」を喰らい、もがきながら生きるという、生物としての特権を。


残されたのは、栄養を詰め込まれるだけの、静かな肉体の群れだった。

自宅に戻り、椅子に深く腰掛ける。

考える力が、少しずつ削ぎ落とされていく。

腹が満たされ、体調が整いすぎていると、人は怒ることも、戦うこともできなくなる。


「明日の献立データは?」


尋ねると、AIは優しく答えた。


『明日は、十九世紀のフランス貴族が愛したフルコースの神経信号をご用意します。あなたはただ、目を閉じて、横になっているだけでいいのです』


男は目を閉じた。

顎の筋肉が、わずかに退化し始めていることに、まだ誰も気づいていない。

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