吸欠鬼

砂戸 圭

 泣かなくなったのは、いつからだっただろう。祖母の葬式でも、目は乾いたままだった。

 母は泣き崩れていて、親戚も嗚咽を漏らしていたのに、私だけが取り残されたみたいに、ただ立っていた。

 誰かが肩を叩いて「無理しなくていいのよ」と言ったけれど、無理も何も、最初から出てこなかったのだ。


 それ以来、私は「そういう人」になった。


 悲しい映画を見ても、喉が少し詰まるだけ。

 腹が立っても、熱は上がらない。

 流れるはずのものが、私の人生から抜け落ちてしまったようだった。泣けないことに、私は長いあいだ縋っていたのだと思う。

 感情がないわけじゃない。壊れているわけでもない。

 ただ、流れない。それだけで、自分は大丈夫だと信じられた。


 ある夜、仕事帰りに路地を通ったときだった。街灯の下に、黒いコートを着た女が俯いている。泣いているのかと思ったが、肩は震えていなかった。


「ずっと、溜めてきたでしょう」


 知らない声だったが、否定しようとしてみると何故かできなかった。


「少しだけでいい」


 距離が縮まる。

 その瞬間、胸の奥が嫌な音を立て、頬に冷たい指先が触れた。


 ――止まらなくなった。


 祖母のこと。

 言えなかった言葉。

 ちゃんと悲しまなかった後悔。


 抑え込んできたものが、一気に溢れ出す。

 視界が滲み、息が乱れ、膝が崩れた。


 苦しい。

 なのに、女は離れない。


 流れる。

 出る。

 まだ、出る。

 胸の奥が空になるまで。


 女は、ゆっくりと息を吸った。

 何度も、何度も。そして言った。


「……ありがとう」


 その声は、どこか満ち足りていた。

 私は地面に手をつき、呼吸を整えようとした。

 けれど、まだ涙が止まらない。女は話し続ける。


「やっぱり、手放せなかったのね」


「……な、何を」


「自分が、泣けないってこと」


 意味が分からなかった。

 問い返そうとした、その瞬間。

 女の輪郭は、夜に溶けるように薄れていった。


 翌日、私は何も感じなかった。悲しさも、後悔も、懐かしさも。祖母の写真を見ても、胸は静かだった。

 不思議と、つらくはなかった。泣けないことを気にする理由も、もうなかった。


 が、数日後に違和感に気づいた。


 人混みを歩くと、胸の奥が疼く。

 堪えている人を見ると、喉が渇く。

 夜、鏡の前に立つと際立つから分かる。目は乾いている。

 今までより、ずっと。


 そのとき、理解した。


 あの夜、私は与えられたのではない。

 全部、出させられたのだ。


 溜めてきたもの。縋ってきたもの。

 自分を保っていた最後の部分まで。

 空になった場所が、今も、何かを欲しがっている。

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吸欠鬼 砂戸 圭 @Hourglass_4

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