踊る女
辛口カレー社長
踊る女
午前二時十四分。枕元のスマホの画面をタップすると、無機質なデジタル数字が網膜を焼いた。
ぐぅと腹の虫が鳴く。それは空腹というよりも、身体の奥底にある空洞が軋むような、乾いた音だった。夕食は適当に済ませたはずだが、何を食ったのかも思い出せない。味気ないコンビニ弁当だったか、スーパーの半額惣菜だったか。記憶なんてその程度のものだ。
俺は重い身体を起こし、ベッドの端に腰掛けた。部屋は静まり返っている。冷蔵庫のコンプレッサーが時折唸り声を上げる以外、世界は死んだように静かだ。
喉が渇いた。腹も減った。
このまま寝直そうかとも思ったが、一度覚醒してしまった脳は妙にクリアで、同時にひどく憂鬱だった。このまま朝が来て、また同じ電車に揺られて会社に行くのかと思うと、胸が塞がるような閉塞感があった。
「行くか……」
誰に聞かせるわけでもなく呟き、俺はスウェットの上にパーカーを羽織った。足元はサンダル。財布とスマホだけをポケットに突っ込む。
玄関のドアを開けると、深夜特有の冷やりとした空気が肌を撫でた。秋の気配を含んだ風が、生ぬるい部屋の淀んだ空気を一瞬でさらっていく。
アパートの鉄階段を降りる足音が、カン、カン、とやけに大きく響く。
街は眠っていた。住宅街の窓はどれもカーテンが引かれ、明かりは落ちている。街灯だけが等間隔に並び、アスファルトにオレンジ色の円を描いていた。
俺は、その光の島を飛び石のように渡りながら歩いた。目的地は、徒歩五分の距離にあるコンビニエンスストアだ。今の時間、どうせ客なんていないだろう。店員がバックヤードで仮眠を取っているか、あるいはレジで気だるそうにスマホをいじっているか。そんな無気力な空間が、今の俺にはちょうどいい気がした。
自分の影が、街灯の下を通るたびに伸びては縮み、また伸びる。まるで、どこにも行けない俺を嘲笑っているかのように見えた。
角を曲がると、視界の先にまばゆい光の箱が現れた。
――コンビニエンスストア。
ガラス張りの店内からは、煌々とした蛍光灯の光が溢れ出していた。
俺はポケットに手を突っ込んだまま、光に向かって歩調を速めた。早くあの人工的な光の中に身を浸したい。そうすれば、この漠然とした不安も少しは紛れるかもしれない。
駐車場の入り口に差し掛かった時だった。違和感を覚えた。視界の端。駐車場の最も奥、街灯の光さえ届きにくい闇の境目で、何かが動いた気がした。
猫……いや、それにしては大きい。俺は足を止め、目を凝らした。心臓がドクン、と嫌な音を立てる。
そこにいたのは、人だった。それも女性。
年齢は……遠目だが、二十代後半から三十代前半くらいだろうか。服装は場違いなほど真っ白なワンピースで丈は長く、裾が夜風に揺れている。髪は肩まである黒髪で、それが顔の半分を覆っていた。ただ立っているだけなら、待ち合わせか、あるいは酔っ払いが涼んでいるだけだと思えたかもしれないが、彼女の様子は明らかに異常だった。
彼女は、動いていた。それも、常軌を逸した動きで。
両腕を天に向かって突き上げたかと思うと、次の瞬間には糸が切れた人形のようにガクリと上半身を折り曲げる。膝を奇妙な角度で曲げ、地面を這うように脚を滑らせる。
無音だった。アスファルトを擦る音さえ聞こえない。まるで重力が狂った空間にいるかのように、彼女の身体は流動的に、そして不気味に形を変え続けていた。
「あれは……」
声が震えた。背筋を冷たいものが駆け上がる。ホラー映画の冒頭で、最初の犠牲者が目撃する光景そのものだった。
――幽霊? 妖怪? それとも、薬物中毒者か?
理性は「関わるな」と警鐘を鳴らしている。今すぐ引き返して、布団を被り、潔く眠るべきだ。しかし、俺の足は動かなかった。恐怖と同時に、奇妙な好奇心が湧き上がっていたからだ。
彼女は右手を虚空に伸ばした。何かを掴もうとしているのか、あるいは何かを拒絶しているのか。その指先が小刻みに震え、やがてゆっくりと自分の首筋へと這わせていく。艶めかしい動きだったが、そこに性的な意味合いは感じられない。むしろ、自分の存在を確かめるような、痛々しいほどの実在感があった。
彼女がくるりと回転した。白いワンピースがふわりと広がり、闇の中に白い花が咲いたように見えた。
顔が見えた気がした。目は閉じられていた。口元は微かに開かれ、何かを呟いているようにも、呼吸を求めているようにも見えた。
彼女はこちらに気づいていない。完全に、自分の世界に没入している。
「やべぇな……」
俺は生唾を飲み込んだ。深夜のコンビニ駐車場で、白い服の女が一人、奇っ怪な踊りを披露している。通報案件だろうか。いや、実害はない。ただ踊っているだけだ。だが、その「ただ踊っている」という事実が、この深夜という状況下では何よりも恐ろしかった。
俺は息を殺し、なるべく音を立てないように、駐車場の端を大回りで歩いた。彼女の視界に入らないように。彼女の意識という結界に触れないように。
自動ドアの前まで辿り着いた時、ようやく安堵の息が漏れた。ガラスに映る彼女の姿を横目で見ながら、俺は逃げ込むように店内へ入った。
ウィーン、という軽快な電子音とともに自動ドアが開く。冷房が効きすぎている店内は、外よりも寒いくらいだった。
白い光。整然と並ぶ商品棚。聞き飽きた有線のBGM。そこは圧倒的な日常の空間だった。さっきまでの闇と、あの女の異様な動きが、まるで嘘のように感じられる。
俺は大きく息を吐き出した。心臓の鼓動はまだ早い。
雑誌コーナーで立ち読みをしている客はいない。店内は無人に見えた。いや、レジの奥ではなく、サンドイッチやおにぎりが並ぶ冷蔵棚の前で、茶髪の店員が品出しをしているのが見えた。大学生だろうか。派手な髪色をしているが、顔立ちは幼さが残る青年だ。彼は手に持ったプラスチックのコンテナから、機械的な手つきで商品を棚に並べている。
俺は買い物カゴを手に取り、ふらふらと店内を歩き始めた。
カップ麺、スナック菓子、缶ビール。普段なら迷わず手に取るそれらが、今はどうでもよく思えた。
頭の中には、まだあの残像が焼き付いている。白いワンピース。捻じれる肢体。天を仰ぐ指先。
――あれは、一体何だったんだ?
幻覚か。いや、確かにそこにいた。
俺はサンドイッチの棚の前まで来ると、思わずその場に立ち止まった。すぐ横で作業をしていた茶髪の店員が、チラリとこちらを見る。
「いらっしゃいませ」
抑揚のない、マニュアル通りの挨拶。
この店員は知っているのだろうか。外に、あんな「モノ」がいることを。もし、その存在を知らずに外へゴミ捨てに出たりしたら、腰を抜かすんじゃないか。あるいは、既に知っていて、見て見ぬふりをしているのか。
俺の中の常識人が、誰かとこの異常事態を共有したいと叫んでいた。一人で抱え込むには、あの光景はあまりにもシュールで、不気味すぎた。
「あのー……」
俺は声をかけた。自分の声が、店内の静寂に吸い込まれていく。店員が手を止め、怪訝そうな顔でこちらを向いた。
「はい?」
「外の女、見た?」
俺は親指でガラスの外、駐車場の闇を指した。
「なんか、すげぇ変な動きしてる女がいるんだけど……あれ、おかしいだろ? 警察とか呼んだ方がよくないか?」
俺は精一杯、まともな市民としての提案をしたつもりだった。不審者がいれば通報する。それは社会のルールだ。しかし、店員の反応は予想外だった。彼は驚く様子もなく、怯える様子もなかった。むしろ、ふっと表情を緩め、どこか懐かしむような、あるいは誇らしげな目をして、ガラス越しに外を見たのだ。
「ああ、彼女ですか」
「……知ってんの?」
「ええ。よく来るんですよ、このくらいの時間に」
店員は作業の手を完全に止め、棚に寄りかかった。
「あの人、コンテンポラリーダンスをやってるんですよ」
「……は?」
「コンテンポラリーダンス。現代舞踊です」
「いやまぁ、コンテンポラリーなんちゃらはいいとしても、こんな時間に、しかもコンビニの駐車場だぞ? どう考えても、頭おかしいだろ」
俺の真っ当なツッコミに、店員はクスクスと笑った。
「そうなんですけどね。でも、ここがいいらしいんですよ。広くて、誰もいなくて、明かりが少しだけ漏れてて」
彼はまるで、自分の友人を自慢するかのように続けた。
「凄くないですか? あの人、たまにこの時間に来て、踊ってるんです。多分、自分の中の、言葉にできない何かをぶつけてるんでしょうね」
「言葉にできない何か……」
俺は
「お客さん、ちょっと見てみませんか」
店員に促され、俺たちは並んで「観客席」から、その奇妙なステージを見つめることになった。
彼女はまだ踊っていた。先ほどよりも動きは激しくなっていた。改めて見ると、その動きの異様さは、不気味さという枠を超え始めていた。
彼女は右足を軸にして、コマのように回転していた。白いワンピースが遠心力で広がり、美しい円を描く。回転が止まると同時に、彼女はその場に崩れ落ちた。倒れたのではない。まるで、地面に溶け込もうとするかのように、背中を反らせ、アスファルトに頬を寄せた。
痛くないのだろうか。冷たくないのだろうか。そんな俺の心配をよそに、彼女の表情は恍惚としていた。目はうっすらと開かれ、虚空を見つめている。
「彼女、昼間は普通のOLらしいです。一度、普通に買い物に来た時に話したことがあるんです。スーツ着て、疲れ切った顔で、栄養ドリンクとサラダチキン買ってて」
「へぇ……」
「『息が詰まる』って言ってました。会社でも、家でも、どこにいても、自分が自分でいられないって」
俺はその言葉に、胸の奥を小突かれたような気がした。
――息が詰まる。
それは、今の俺が感じている感覚そのものだった。
システムのエラーログを眺め、謝罪メールを打ち、満員電車に揺られる日々。自分が何のために生きているのか、自分が何者なのか、自分自身の存在も、輪郭も曖昧になっていく感覚。
彼女は突然、跳ね起きた。バネ仕掛けの人形のように。そして、見えない壁を叩くような仕草をした。ドン、ドン、と音が聞こえてきそうなほど、激しく、強く、空気を殴る。
――閉じ込められている。
透明な箱の中に。社会という名の、常識という名の、あるいは自分という名の牢獄に。彼女はそこから出ようともがいていた。叫び声は上げていない。でも、その身体全体が叫んでいた。
――ここから出して。
――私を見て。
――私はここにいる。
指先が空を掻く。足が地面を蹴る。その動きの一つ一つに、強烈な感情が乗っていた。怒り。悲しみ。絶望。そして、それらを全てを焼き尽くすような、激しい渇望。
不気味だと思っていた動きが、次第に違って見え始めた。
そこには、圧倒的なリズムがあった。無音のはずなのに、俺の耳には音楽が聞こえてくるようだった。それは不協和音だらけの、壊れたピアノのような音楽かもしれない。あるいは、嵐の夜の風の音かもしれない。だが、確かに彼女は音楽の中にいた。
腕は風を切り、身体は重力に逆らうようにふわりと浮かび上がる。
狂っている。確かに狂っている。深夜のコンビニで踊り狂う女なんて、正気の沙汰ではない。
――だが、美しい……。
その狂気は、あまりにも純粋で、透明だった。何もかもをかなぐり捨てて、ただ踊ることだけに命を燃やしている。
俺はガラスに額を押し当てるようにして見入っていた。瞬きをするのも惜しかった。
彼女が、ゆっくりと両手を広げた。十字架に架けられたようなポーズで、夜空を仰ぐ。
街灯の光が、彼女の顔を照らし出した。汗に濡れた髪が頬に張り付いている。その目から、涙が流れているのが見えた。
悲壮か、歓喜か。いや、違う。
――浄化の涙。
自分の中の、汚れて溜まった泥を全て吐き出し、空っぽになった器から溢れ出る、透明な液体。
俺の胸の奥が、じんと熱くなった。最初は小さな火種だったものが、瞬く間に燃え広がり、喉元までせり上がってくる。
感動していた。理屈では説明がつかない。
プロのダンサーのような洗練された技術があるわけではないのかもしれない。ただ、彼女の中にある孤独や痛み、それを誰に届くとも知れない闇に向かってぶつける切実さが、痛いほどに伝わってきたのだ。
俺には、あんな風に踊れない。
会社で理不尽なことを言われても、愛想笑いで流すことしかできない。深夜に目が覚めても、コンビニで酒を買って誤魔化すことしかできない。
叫びたいのに、叫び方さえ忘れてしまった。だが、彼女は叫んでいる。しかも、全身全霊で。その姿が、羨ましかった。そして、救われた気がした。
俺の代わりに叫んでくれている。俺の代わりに、このクソみたいな世界の閉塞感を、殴りつけてくれている。
視界が滲んだ。鼻の奥がつんとする。
気がつけば、頬に一筋の温かいものが伝っていた。俺は慌てて手の甲で拭ったが、次から次へと溢れてくる。
「……何だよ、これ」
声が湿っていた。いい歳をした大人が、深夜のコンビニで、見知らぬ女のダンスを見て泣いている。
――滑稽だ。
あまりにも滑稽で、情けない。でも、止まらなかった。俺の感情が、彼女のダンスに共鳴して、涙となって流れ出ていく。
隣にいた店員は、俺の方を見なかった。ただ静かに、俺たちが共有しているこの時間を守るように、黙って外を見つめていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。彼女は最後のポーズを決めたまま、静止した。深くお辞儀をするように、身体を折り畳み、地面にうずくまる。
フィナーレだ。
拍手はなかった。あるのは、冷蔵ケースの低い唸り声と、俺の鼻をすする音だけ。
彼女はしばらくそのまま動かなかったが、やがてゆっくりと立ち上がり、ワンピースの埃を払った。その仕草は、憑き物が落ちたように日常的で、さっきまでの鬼気迫るオーラは消え失せていた。
彼女は一度だけ、ふっとコンビニの方を見た気がした。そして、闇の向こうへと歩き去っていった。
俺たちは、彼女の背中が見えなくなるまで、動くことができなかった。
「はぁ……」
俺は大きく息を吐き、目尻を乱暴に擦った。感情の嵐が過ぎ去り、急激な脱力感が襲ってくる。
そして、恥ずかしさが遅れてやってきた。店員の前で泣いてしまった。しかも、不審者のダンスを見て。
俺はバツが悪そうに視線を逸らし、空の買い物カゴをいじった。すると、横からぬっと手が伸びてきた。
「どうぞ」
差し出されたのは、温かい缶コーヒーだった。「微糖」と書かれた、安っぽいデザインの缶。
俺は顔を上げ、店員を見た。彼は優しい顔をしていた。茶髪にピアスの軽薄そうな見た目に反して、その瞳は深く、穏やかだった。
「お客さん、初めてでしょ? あの人の踊りをちゃんと見るの」
「ああ。初めてだ……」
俺は缶コーヒーを受け取った。温もりが指先から伝わり、冷え切った心に染み渡る。
「何ででしょうね。心にくるんですよね。技術がどうとか、そういうのじゃなくて。魂が削れて、震える音がするというか」
「魂が削れて、震える音……」
なるほど、言い得て妙だ。俺はプルトップに指をかけ、カシュッという音と共に缶を開けた。一口飲む。甘ったるい液体が喉を通り、胃に落ちていく。
――美味い。
ここ数年で飲んだどのコーヒーよりも、深く、味わい深く感じられた。
「俺も、なんか詰まってたみたいだ。ここんところに。それが、少し取れた気がするよ」
胸を軽く叩くと、店員はニカっと笑った。
「それは良かったです。あの人も、観客がいて救われたと思いますよ。知らんけど」
「知らんのかよ!」
俺は少しだけ笑った。
夜をまとって踊る彼女は狂っていて、そして、美しかった。その事実だけで、俺はまた明日から少しだけ、息が吸えそうな気がした。
世界はまだ、捨てたもんじゃないのかもしれない。こんな奇妙で、美しい夜があるのだから。
俺は飲み干した空き缶を、店内のゴミ箱に放り込んだ。
時計を見ると、もうすぐ三時になろうとしていた。そろそろ帰らなければ。数時間後には、また日常が始まる。でも、来る前より足取りは軽くなるはずだ。
「ありがとう、また来るよ」
片手を上げて挨拶すると、店員は営業スマイル全開で言った。
「あ、缶コーヒー、百円になります」
「……カネ取んのかよ」
あの缶コーヒー、奢りじゃなかったのか……。あの感動的な空気と、差し出されたタイミング。どう考えても「サービス」の流れだっただろう。
俺は財布から百円玉を取り出し、コイントレーにパチンと置くと、店員は悪びれもせず、今日一番のいい笑顔で「ありがとうございましたー!」と声を張り上げた。
自動ドアを抜けると、外の空気は少しだけ澄んでいるように感じられた。東の空が、ほんのわずかに白み始めている。
俺は一度だけ背伸びをして、アパートへの帰路についた。
腹の虫は、いつの間にか鳴き止んでいた。
(了)
踊る女 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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