ライラックの香る小径

藤森銘菓

ウィスティアの午後

木々に覆われた小径の上空には高く太陽が昇り、やわらかな光が葉の隙間から落ちていた。


静かな道を二人の旅人が並んで歩く。新緑の匂いが肺を満たし、そよ風が野花の香りを運んでくる。その流れに導かれるように、やがて小さな村が姿を見せ始めた。


「見て、もうすぐだよ!」


シネイルは茂みの向こうに見える藁葺き屋根を見つけ、ぱっと表情を明るくする。振り返った彼女の笑顔は、歩き疲れを忘れさせるほど眩しかった。


「ねえ、この道のり、歩いた甲斐はあったと思う?」


ケイルは使い古された旅の地図から視線を上げ、肩を軽く回した。

「それは……ちゃんとした食事にありついて、埃まみれじゃなくなってから答えよう」


そう言いながらも、声音はどこか穏やかだった。地図をしまい、彼は彼女の歩調に合わせて歩き出す。ウィスティアは穏やかそうな村に見えた。せいぜい厄介事といえば、家畜が逃げ出すくらいだろう。


――たいてい、そういう場所ほど面倒ごとが待っているのだが。


「とはいえ……」

煙突から立ちのぼる煙を指し示し、彼は笑った。

「いかにも“何の問題も起きない静かな村”って感じだ」


シネイルは声を上げて笑った。

「大丈夫だよ、きっと数時間は平和! それより、ウィスティアのライラックケーキは大陸一なんだから」


その言葉に、ケイルの眉がぴくりと上がる。

「……それを先に言ってくれてたら、もっと早く歩いた」


村に足を踏み入れる頃には、洗濯物が揺れ、鶏が地面をつつき、老犬が日向で眠っていた。


「よし、新しい計画だ」

彼は荷紐を直しながら言う。

「ケーキを見つけて、食べすぎて、普通の旅人を装う」


横目で彼女を見る。

「半日くらい“普通”でいられる?」


「ちょっと!」

シネイルは頬を膨らませた。

「前の村で光る虫をばら撒いたの、誰だっけ?」


「子どもたちが退屈してただけだよ。あれは演出の範囲内」


そう言った瞬間、彼の指先に光が揺れ、すぐに引っ込められた。


村の中心通りが見えてくる。宿屋、雑貨屋、そして――

「……あそこだ」


ケイルはパン屋を指し、挑戦的に笑った。

「競争だ。負けた方がケーキ代」


答えを待たずに駆け出す。


「ずるい!」

シネイルも笑いながら追いかけた。


角を曲がった瞬間、ケイルの足が石に引っかかる。

体勢を崩した拍子に、光が弾け――色とりどりの蝶が舞い散った。


「……参った」

地面に座り込み、彼は手を上げた。

「勝ちだよ。あの石畳は呪われてる」


蝶が消えゆく中、視線が集まる。


「もう普通じゃないね」

シネイルは肩をすくめた。

「……でも、ケーキは別」


パン屋の中は甘い香りに満ちていた。

紫色のケーキが、誇らしげに並んでいる。


「全部ください」

彼女は即答した。


噴水のある広場で、二人は並んで腰掛けた。


「……これは」

一口食べたケイルは、言葉を失う。

「全部に値する」


シネイルも頷いた。

「想像以上……」


静かな午後。

そこへ、先ほどの少年が近づいてくる。


「……魔法使いなの?」


「違うよ」

シネイルは優しく頭を撫でた。

「でも、笑顔を作るのは好き」


彼女の耳飾りが光り、噴水の音が澄んだ旋律へと変わる。

ケイルの幻の蝶と、光のライラックが空を舞った。


広場は小さな物語の舞台になる。


やがて夕暮れ。

魔法は静かに溶け、拍手が残った。


「歩いた甲斐は?」

ケイルが尋ねる。


「もちろん」

シネイルは空を見上げた。

「今日は、いい日」


宿へ向かう途中、パン屋の女主人が包みを手渡す。

「明日の分」


二人は何も言わず、受け取った。


夜。

静かな宿。


「おやすみ、ケイル」

「おやすみ、シネイル」


ウィスティアという、何も起こらない村で。

冒険者ではない二人は、満ち足りた眠りについた。


明日は、また別の道。

別の物語。


でも、それは明日の話。

今夜は――休息の時間だった。

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ライラックの香る小径 藤森銘菓 @fujimori-meika

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