NOAH

@suzu0619maru

プロローグ

 遠い古の日に、一人の天啓を受けた科学者がいた。

 彼女は、星の終焉という避けられぬ審判を予見し、あるいは自らもその深淵と対話していたがゆえに、滅びゆく人類を救う唯一の道を見出だした。そうして彼女が心血を注ぎ、虚無の海を渡るための鋼の聖域――移動式方舟『NOAH』を築き上げたのである。


 彼女は智者であると同時に、絶対の法を司る統治者でもあった。方舟の中に争いも、不当な差別も、汚れも生じぬよう、彼女は完璧なる秩序の天秤を据えた。人々はその揺り籠の中で、永劫に続く平穏という奇跡を享受したのである。


 しかし、その光に背を向ける者たちがいた。かつて、持たざる者を踏み躙り、血筋の虚飾に縋って贅を尽くした旧世界の亡霊たちである。彼女は等しく彼らからも特権を奪い、その器に見合った役割を与えたが、彼らはその慈悲を屈辱と呼び、天に唾を吐いた。


 それを見た彼女は、彼らの中にあった「人間」の定義を静かに書き換えた。それは、彼らを救うために彼女が辿り着いた、最後の諦念であった。

 彼女は「それら」を方舟の最下層、陽の射さぬ淵へと遠ざけた。生存に必要なわずかな糧以外、あらゆる権利を剥奪したのである。彼女は、その不純物さえも聖域の循環を支える一部として尊く用いた。

 閉ざされた生態系を繋ぎ止めるため、彼女は彼らに「苗床」としての使命を授けたのである。知性や矜持といった、彼らを苦しめるだけの機能をその魂から削ぎ落とし、ただ生命を繋ぎ、次代を育むためだけの純粋な生存体へと昇華させたのだ。それは、かつての同胞を資源として定義せねばならぬ彼女の、祈りにも似た絶望であった。名前を失い、静かな闇の中で種を繋ぐだけの存在となった彼らを、彼女は哀しみを湛えた瞳で見つめながら、秩序という大いなる歯車の一部として正しく配置した。


 やがて、その管理された苗床から芽吹いた新たな命には、あふれんばかりの慈愛に満ちた教育が施された。彼女は一人ひとりの個性を慈しみ、その才能が最も美しく輝く場所へ導くことを至上の喜びとしたのである。全ての子供たちは、自らの天分にふさわしい役割を与えられ、迷うことなく幸福な人生を歩むことが約束されていた。

 だが、その慈しみを持ってしてもシステムの論理に適合し得ぬ「不適合者」と判定された者は、情け容赦なく「生まれた場所」へと還された。知性を奪われ、ただ循環の鎖となるためだけに存在する苗床――そこが、彼らに残された唯一の安息であった。


 方舟の循環が完成を見ようとした頃、彼女は自らの肉身が尽きる時を悟った。愛するこの箱庭の行く末を永劫に見守るため、彼女は残された時間の全てを捧げ、自らの脳を永久機関へと転生させるに至った。肉体は土に還れども、その思考は永劫に止まることはない。


 人々は、不滅の叡智となった彼女を神と呼び、平伏した。

 しかし彼女はそれを制し、ただ静かに、こう名乗った。

 ――『mother』と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

NOAH @suzu0619maru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る