駅に、言えなかった言葉が落ちている

かざみさん

駅に、言えなかった言葉が落ちている

 駅には、いろんなものが落ちている。

 改札の前にはよく、片方だけの手袋が落ちているし、ベンチの下には読みかけの文庫本が挟まっていることもある。朝のホームでは、急いで脱いだのか、マフラーがきれいに畳まれたまま忘れられていることもあった。


 そういうものに混じって、ときどき、言葉が落ちている。


 紙切れのようで、でも紙ではない。形は曖昧で、視線を少し外すと消えてしまいそうなのに、確かにそこに「ある」と分かるもの。人の流れの中で、それだけが静止して見える。


 最初に気づいたのは、何年前だったか。

 通勤途中、ホームの端でそれを拾った瞬間、胸の奥に冷たい水が流れ込んできた。誰かの後悔。言うはずだったのに、言えなかった感情。声にならなかった思いだけが、重さとして残っていた。


 驚いて周りを見渡しても、誰も気づいていない。人々はいつも通り、スマートフォンを見つめ、発車案内を確認し、電車に乗り込んでいく。落ちている言葉を踏みつけながら、何事もなかったように。


 それ以来、私は駅でそれを見つけてしまう。


 朝も、夜も。

 急行が通過するホームにも、終電間際の静かな改札にも。言えなかった言葉は、落とし物のようにそこに残されている。


 拾うと、数秒だけ感情が流れ込んでくる。

 具体的な文章ではない。誰が、誰に向けて、何を言おうとしたのかは分からない。ただ、「あのとき、言えなかった」という気持ちだけが、胸に引っかかる。


 私はそれを拾わずにはいられなかった。


 知らなければよかったと思うことは多い。

 他人の後悔なんて、知っても何もできない。ただ重さが増えるだけだ。それでも、見つけてしまうと、目を逸らすことができない。気づいてしまった以上、なかったことにはできない性格なのだと思う。


 拾った言葉は、しばらくすると消える。

 ポケットに入れて持ち帰ることもできないし、駅員に渡すこともできない。ただ、胸に残る感覚だけが、後を引く。


 「引き止めればよかった」

 「大丈夫って、言えばよかった」

 「本当は、まだ話したかった」


 そんな感情が、通勤電車の中で、私の一日を重くする。自分の悩みより、知らない誰かの後悔のほうが、よほど存在感を持ってしまう。


 ある朝、言葉を拾った瞬間、ふいに昔の声を思い出した。

 低くて、少しだけためらうような声。


 それが誰のものか、すぐには分からなかった。ただ、懐かしさだけが胸に広がる。コーヒーの苦味のような、もう戻らない時間の感触。


 それから、駅で言葉を拾うたびに、同じ声がよぎるようになった。直接的な記憶ではない。ただの連想。なのに、なぜか無視できなかった。


 別れた恋人のことを、私はあまり思い出さないようにしていた。

 終わった関係を、何度も掘り返すのは無意味だと思っていたし、そうすることが大人の態度だとも信じていた。


 別れの日、相手は何か言いかけていた。

 駅の改札前で、電車の時間を気にしながら、言葉を探しているようだった。


 私はそれを待たなかった。

 「言わなくていいよ」

 そう言って、話を終わらせた。優しさのつもりだった。これ以上、互いを傷つけないための判断だと、本気で思っていた。


 ある日、ホームの真ん中に、ひとつの言葉が落ちているのを見つけた。

 今まで見てきたものとは、どこか違う。重さが、私のほうを向いている。


 拾おうとして、足が止まった。


 それは、明らかに自分に向けられた感触を持っていた。

 拾ってしまえば、何かが終わってしまう気がした。知らなかったままでいたほうが、楽だと分かっていた。


 躊躇しているうちに、電車が入ってきた。

 人の足が、言葉の上を通り過ぎる。風にあおられて、それは形を失っていった。


 何もできなかった。

 ただ、胸の奥に残った空白だけが、しつこく痛んだ。


 その夜、帰りの駅で、私は立ち止まってしまった。

 拾えなかった言葉のことが、頭から離れなかった。


 ベンチに座っていると、駅員が近くを通った。落とし物袋を抱えた、疲れた顔の人だった。


 「落とし物って、全部返ってくるんですか」と、私は唐突に聞いていた。


 駅員は少し考えてから、首を横に振った。

 「持ち主が分からないものもありますし、返せないものもありますよ」


 それだけ言って、去っていった。

 説明でも慰めでもない、事実だけの言葉だった。


 私はようやく理解した。

 言葉も同じなのだ。落とした時点で、もう戻らないものがある。


 数日後の朝、ホームにまた言葉が落ちていた。

 今度は、逃げなかった。


 拾った瞬間、感情が一気に流れ込んでくる。

 怖さ。期待。終わっていないという感覚。あの日、言えなかった一言。


 それが、あの人の言葉だと、はっきり分かった。


 具体的な文章は、やはり聞こえなかった。

 でも、十分だった。何を言おうとしていたのか、もう想像できてしまった。


 私はその場に立ち尽くした。

 言葉はすぐに消えたが、重さだけは残った。

 

 改札を抜ける前、私は立ち止まった。

 胸の奥に溜まっていた言葉が、まだ形にならないまま、そこにあった。


 それでも、今は分かる。

 言葉は、落とすためにあるんじゃない。拾われなくても、踏まれても、それでも持  ち続けていいものなのだと。


 私は深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 誰にも聞こえない声で、短く、確かに言葉を口にする。


 それが駅に落ちたかどうかは、分からない。

 でも、少なくとも胸の中からは、消えなかった。


 ホームには今日も、人が行き交っている。

 急ぐ人も、立ち止まる人も、それぞれの言葉を抱えたまま。


 駅には、いろんなものが落ちている。

 それでも私は、もう知っている。


 言えなかった言葉は、いつか言い直してもいい。

 そして、次の言葉は――落とさずに、持っていけばいいのだと。

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