第2話 意識

 帰って来て家に入ろうとしたが、軒先の庭に生えている花が目に留まり、ボーっとしてしまった。お荷物でしかなく、いやいや抱えているじょうろに目を向け、また余計なことを考えてしまった。人から見れば滑稽なこと甚だしい、じょうろを試してやろうという魂胆だった。僕自身、自虐とかではなくおかしくなったのかもしれない。

 僕はその場所まで行き、じょうろからその花に液体を注いだ。じょうろには着色された緑らしき色の液体が満ちており、ほんの少し中身を掛けた。

「感情、感情か。人は、泣いたり笑ったりすることに、理由を付けるんだ。それを知って、感情と名付けて、意味を求める。僕らの周りには、沢山の認識があって…やめたやめた。ああ、惨めだ。」

 それとなく人について考え、知らない宇宙人に話すようにその花に向かって説法するが、当然反応があるわけはなく、僕の声だけが自分の耳に届いた。さっき出会った不思議な現象は、僕が理由を付けて不思議だと思ったに違いないのだ。

「今、何かが。」

 踵を返して家に戻ろうとしたところ、視界の隅でその花が動いた気がした。嘘かと思って振り返ったけど、やはり嘘だった。しかし、胸騒ぎがした。まるでその花に、じっと見つめられてるかのように感じてならないのだ。

「本当に?なんだ、「オモモ」か…きっとそうだよな。」

 僕の視界は行ったり来たりになった。家に帰ろうかと思えば花に振り返り、花に振り返ったと思えば、また家の方角に目を向けるのだから。後ろに時折きまぐれにここにやって来る三毛の野良猫が居て、こちらを見つめていたのだ。オモモとは古い仲ではないが、親しみを持っている。明らかにその視線ではなかったが、僕は恐ろしくなって彼の視線だと結論付けた。

「オモモ、僕の遊びに付き合ってくれないか?もし君と話せるなら、少しは意味を持てそうだ。」

 オモモは気まぐれやで、居酒屋みたいな感覚と頻度でこの家にやってくる。というのも、僕が一度餌を与えてしまってから、若干懐くようになったのだ。とは言え、飼い猫でもなければ、完全に僕を信用してる風合いでもなかった。僕は屈んで手で招いて、寄ってこさせた。

「ごめんな、今日は美味しいものをあげるからな。」

 人間の勝手な都合で、それも妄想に塗れた低俗な考えで、こんなおもちゃを使ってしまうなんて、倫理が欠損しているだろう。でもその日の空はやけに淡く、一人で居ることを痛烈に感じて、僕は自分の遊びに付き合わせてしまった。

「感情とは…」

 意外とオモモは大人しく、浴びせられる液体に抵抗はしなかった。彼はずっときょとんとしたような目で僕を見つめ、話し始めた御託に聞き入っているように感じた。

「…そう、だから人間って言うのは知識を付けて、それを経験と呼ぶ。でも知っていることと経験はまた別なんだ…何やってんだろ、僕は。」

 僕はまた、感情や知識について説明した。同じことの繰り返しだった。別に帰ってくる言葉は無いし、相槌も無い。このじょうろを作った方、見ていますでしょうか。僕はあなたのいかれたアイデアに踊らされ、信じてみようなんて申しています。とんだ皮肉だ。

 その後は、玄関でツナ缶を開け、オモモにご馳走してあげた。何の変哲もないことに、むしろ安心した。意識が芽生える云々は蒙昧にしろ、毒性のあるものであった場合のことを、後から気づいてしまったからだ。餌を与えると、オモモは玄関から出て行って、暫く庭でごろごろしていた。僕は僕で、日常に戻る。

 僕は家でも殆ど一人だ。母は軽い病気で入院しているし、父は仕事の虫で殆ど帰ってくることはない。親権を放棄するようなロクでもない大人ではないが、僕と居る時間を頑張って作ろうという気概も感じられなかった。父が家計を支えてくれているため、生活に不自由はないけど、はっきり言って寂しかった。でも、なんだろう、慣れたというべきなのか。胸を締め付けられるような感覚に直接的な要因になっているわけではないと知っている。僕は出来合いの晩御飯で腹を満たし、無駄に広く感じる自室に籠った。

「テスト…ったく。どうせ続けるんじゃないか。」

 夜にカバンから教科書類を取り出している際、一時の感情に身を任せてプリントをぐしゃぐしゃにしてしまっていたことを思い出した。あの時ばかりは本当にどうでも良かったが、明日が続く以上、取り組まなければいけないことになると知ってる。死んだ考えばかりしている僕だが、性根は真面目で、続いている限りは己のやるべきことをしなくては気が済まない。

 もう一度唾棄したくなるような気持ちを抑えて、プリントを広げ、やりたくもない日常を続けるために勉強をし、その日は眠った。

 明日の朝、事態は一変した。やけに体が重いと感じ、辺りがうるさかった。眠気眼のまま目を開けると、夢を疑うことが起きていた。

「起きろ、起きろ、人間。俺でも解るぞ、これは普通ではない。」

 誰かが僕の上に乗り、揺さぶっていた。意識がはっきりしてきて、気づいた。どう見てもオモモだ。僕は跳ね起き、情報を整理しようと思ったが、まずこれを現実だと認識することから始めなくてはいけなかった。彼は僕から離れると軽々と地面に足を下ろし、僕を見た。

「嘘だろ?」

 身に覚えしかなかったので、なぜかとは思わなかった。それでも、現実と掛け離れた出来事に、原因を疑うばかりだった。

「嘘なものか。お前が俺に何かをやったんだろう?おかげで訳の分からんことになっちまった。」

 オモモは俺より幾段も冷静で、たじろいて距離を取る俺に堂々と近づいてきた。 

「一先ず、落ち着こう。朝ごはんにするよ。」

 僕は目を逸らすようにしてキッチンへと向かい、トースターに食パンを雑に入れ、コップに牛乳を注いだ。如何にも忙しいという雰囲気を出しながら、今起こっている不可解極まりない現象について考えた。

 朝食の支度が済み、食パンと牛乳、それとツナ缶をテーブルに置いて座ると、オモモは飛んでテーブルに乗り、僕を見た。話さなければいつもと変わらないオモモだった。

「…どこまで伝わるかは分からないけど。まず、僕は君に意識を与える薬とかいうものを掛けたんだ。そしたら、君が話し始めた。オモモは前と変わりはない?」

 食パンを齧る気にもなれなかった。僕は状況を整理しながら、オモモに問いかけた。

「変わったさ。こんなにも何かを考えたのは初めてだ。意識、って言うんだろ?俺は今、意識しているよ。」

 反面、オモモはツナ缶の蓋を開けると落ち着いた様子でそれに近づき、食べながら僕の質問に答えた。

「君がそんなんなら、僕も落ち着いて話せるよ。昨日のことは覚えてる?僕が話したこと。」

 オモモが余りにも普通にしていため、僕も朝食を取る気分に成れた。僕も朝食を取りながら、彼と会話を始めた。

「感情って言ったか?いまいちわからんな。どんなものかは気になる。」

 どうやら彼には感情がないらしい。いや、正確にはあるのかな。人間は、自分が笑ったり泣いたりすることを認識して初めて、それを感情と知る。猫にだって気分の抑揚はあるはずだ。意識しない限り、感情は感情ではないのかもしれない。

「直に解るよ。そんなに順応してるなら。それよりも、どうしてそんなにも話せるの?人間の言葉なんか考えたこともない君が話せるのは変な話だと思うのだけれど。」

 深く考えを巡らせていたので、知的好奇心が湧いて来ていた。あり得ないことを認めつつあるのか、次の『理解する』という段階に僕は入っていたようだ。

「解らん。多くの言葉が俺の中にある。中には意味の解らないものも。例えば、そうだな、信じるってなんだ?」

 オモモに表情の変化は少なかった。なので目を見て話を聞いてると、本当に猫と話しているのか疑わしく思えてくる。しかし、こいつは僕に問うのだ。

「難しいな。何かをそうあって欲しいって言う感情に極限まで寄せること、かな?いや、それだと嫌な場合を説明し切れないな。例を出そう。例えば君が僕に何かを頼むとする、僕は君に対して…」

 僕は聞かれた言葉の説明を、頭を速く回転させながら話した。小難しく、専門的にも合っているとは言い難い話をする僕だったが、オモモは興味深く聞き続けてくれた。

「だから、信じるって言葉には沢山の感情があってだな…はっ!まずい、オモモ、僕は支度をしなちゃいけない!」

 オモモが嫌な仕草一つしないため、僕はつい話し込んでしまった。家を出る時間をとっくに過ぎていることに気づき、大慌てで自分の部屋に戻って着替え始めた。

「何を急ぐ?もっと聞きたい。」

 呑気な声でオモモは付いてきて、僕の視界に無理やり入って来た。気まぐれさは猫そのものだ。

「学校へ行くんだよ。遅刻したらまずいんだ。」

 着替え終わり、カバンも用意し、忘れ物が無いかを確認した。話しながらだと気が散って本当に必要なものが揃っているかの確認はできなかった。

「学校?」

 僕の焦りは全く伝わっておらず、部屋から駆けて出て行こうとする僕の進路をこいつは塞いだ。

「ああもう!何かを学ぶところだよ。ほら、こんな風にさ、教科書っていう本があって、沢山のことが学べるんだ。僕はもう行くからね?悪いけど、帰って来てからにしてくれ。」

 僕は前期で使っていた教科書を床に叩きつけるようにして広げ、本という存在を伝えた。怒っているからそうしたのではない。普通に急いでるからだ。

「へえ。必死だな。そこまでのものとは、めんどくさそうだ。」

 餌を与えたかのようにオモモは教科書を覗き込み、興味が移った。僕はそれを尻目に部屋から出て、学校へと向かうことにした。

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