この地獄に飽きるまで

春野訪花

この地獄に飽きるまで

「死なないことって、そんなに重要かな」

 そう呟いた彼女の横顔は、夕陽に染まって真っ赤だった。黒目がちな瞳は凪いでいて、どこか遠くを見つめるともなく見ていた。

「重要じゃない? たぶん。少なくとも僕は君が死んだら悲しいよ」

 言いながら、彼女の視線の先を探すともなく探してみた。坂上のここからは、街並みがよく見えた。登下校の際によく見る光景だった。何も変わらない。

「ありがとう。でも、わたしには死ぬって救いだと思うの」

 彼女は華奢な手を空に向かって伸ばした。ちょうどその影が、僕の顔にかかった。

「いつか終わるから、生きていられる。なのに生きることが素晴らしいって誰もが言う。生きてさえいれば、幸せになれるって。死んだらなれないって」

 上がっていた手が下ろされる。それは静かに彼女の膝の上に乗った。傷一つない細い指。だけど、恐ろしいほど白くて、まるで死人のようだった。

「でも、ここが地獄だったら? それでも幸せになれるって? ……でも、この地獄はいつか終わる。そう思ったら、死ねることこそ幸運だと思わない?」

「……確かに、そうだね」

 死んで欲しくない。いなくならないで欲しい。行かないで。

 こんな地獄みたいな世界で生きて、なんて。

 きっとただのエゴだ。愛している、だから。なんて、言い訳にもなりはしない。

「でも……でもさ、それでも……」

 死んだ後のことなんて分からないから。その後もまた、君と過ごせるかなんて分からないから。

 風が吹く。涼しくなってきた風が、金木犀の香りを運んでいる。

「僕はまだ、君と生きていたいなって思うよ」

 彼女は街を見ていた。吹いた風が、彼女の長い黒髪を煽って顔を隠してしまう。

 彼女は何も言わなかった。

 僕もまた、街へと視線を落とした。

 赤は濃くなって、街が燃えているみたいだった。子どもに帰宅を促す町内放送が流れて、聞き慣れた童謡が流れる。

 不意に彼女が動いて、U字型の車止めから降りた。

「帰ろう」

「うん」

 彼女が手を差し出してくる。僕はその手を握った。指を絡めれば、応えるように彼女も。

 彼女が体を寄せてくる。

 金木犀の香りと、温もりが伝わってきた。

「『救われる』なら、あなたとがいいな」

 僕は握る手をさらに強く握って、空いている手で彼女を抱き寄せた。

「嬉しい」

 彼女が死ぬことが問題なんじゃない。

 遺されることが嫌なんだ。

 こんな世界に、独りにしないでって。

 だから行かないでって、彼女が地獄だと言う場所に留めてしまうから。

「君と居られるなら、僕はどこでもいいんだ。だからさ……この地獄に飽きるまでは、ここに居ようよ」

 このエゴと同じエゴを君が持っていてくれるなら。

 彼女の頬は赤く染まっていた。夕暮れか、それとも。

 どちらにせよ、彼女の瞳は優しく蕩けていた。

「ええ。地獄の果てまでも、一緒に」

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この地獄に飽きるまで 春野訪花 @harunohouka

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