第2話|動き出す原油
カリブ海の夜は、本来なら星々が海面に砕け散るような、静謐な美しさを持っているはずだった。
だが、ベネズエラのホセ・アントニオ・アンソアテギ港を出港した超大型タンカー『リバイアサン号』の周囲には、およそ自然界のものとは思えない「沈黙」が漂っていた。
「……なあ、ログがおかしい。計器の故障か?」
操舵室で、若手航海士のトーマスが震える声を出した。デジタルモニターに表示された速度計は、時速40ノットを超えている。数万トンの原油を腹に抱えた巨大タンカーが、レーシングボートのような速度で波を切り裂いているのだ。
「エンジン出力は定格の六割だ。それなのに、何かに引き寄せられるように加速している……。潮の流れだってこんなに速くないはずだ」
老練な船長のミラーは、握りしめたパイプを噛み締めた。窓の外、船首が切り裂く波飛沫は、白ではなく、どこか粘り気のある「暗い灰色」に見える。
「船長、見てください。海面を」
トーマスが指差した先。月の光が届かない船影の際で、黒い塊が海面から盛り上がっていた。 それは波ではなかった。 油だ。 積荷の原油が船底を透過して漏れ出しているのではない。海そのものが、船底に張り付いた巨大な黒い磁石に引かれるように、不自然な盛り上がりを見せている。
そして、その盛り上がりは、次第に「人の形」を成していった。
1
「……誰かいる」
甲板で監視にあたっていた一等航海士のサントスは、手すりを握る指先が凍りつくのを感じた。 海面に浮かぶ黒い影。それは一人ではなかった。数十、数百の「人影」が、船と同じ速度で海面を滑るように並走している。
彼らには顔がない。だが、粘着質な原油の身体から、無数の「声」が泡となって弾け、風に乗って甲板まで這い上がってくる。
『……管理して……』 『……私を……連れて行って……』 『……アラン……アラン・クロウ……』
「大統領の名前を呼んでいるのか?」
サントスは腰を抜かし、冷たい鉄板の上にへたり込んだ。鼻を突くのは、強烈な揮発油の臭いと、古い墓穴を掘り返した時のような、湿った土の匂いだ。 足元の鉄板を通して、船全体が「脈打って」いるのがわかる。ドクン、ドクンと、巨大な心臓が船倉(タンク)の中で動いている。
「サントス! 持ち場に戻れ!」
スピーカーからミラー船長の怒鳴り声が響くが、その声もどこか遠い。サントスは見てしまった。海面を走る黒い人影の一人が、こちらを見上げ、その「顔」があったはずの場所に、亡き自分の母親の輪郭が浮かび上がるのを。
「母さん……? なんで、あんな黒い泥の中に……」
影は答えず、ただ粘り気のある腕を伸ばし、船体を愛おしそうに撫でた。その瞬間、船内の重油パイプが激しく鳴動し、悲鳴のような金属音を上げた。
2
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。 深夜の執務室で、アラン・クロウは地図の上に置かれたチェスの駒のように、タンカーの現在地を示すGPS信号を眺めていた。
「予定より二日も早い。信じられない速さだ」
背後に立つ国家安全保障担当補佐官が、困惑気味に報告する。だが、アランには分かっていた。 あのアンスラサイト(無煙炭)のような冷たい感覚が、自分の血管を通じてタンカーと繋がっている。目を閉じれば、リバイアサン号の船底を叩く、あの「黒い手」の感触が掌に伝わってくるのだ。
「……彼らは、急いでいるんだ」
アランが掠れた声で呟く。
「彼ら? 船員のことですか?」
「いや。……原油だ。あの資源は、自分が何であるかを知っている。そして、誰のもとへ行くべきかも」
アランがデスクに触れると、木製の天板が微かに黒ずんだ。脂ぎった汚れではない。木目の奥に、影が染み込んでいくような変色だ。
そこへ、招かれざる客がドアを叩かずに現れた。経済学者のルシアだ。彼女の目は血走り、その手には古びた手書きの航海日誌が握られていた。
「アラン、直ちに船を止めなさい。あの資源は、ただの燃料じゃないと言ったはずよ」
「ルシア、また迷信の話か? 現実を見ろ。あの原油が到着すれば、わが国の電力コストは半分になる。ベネズエラの外貨不足も一晩で解決するんだ」
「その代償に、何が目覚めると思っているの!」
ルシアは机の上に日誌を叩きつけた。19世紀、ベネズエラの密林で失踪した探検家の記録だ。
「読んで。……『黒き水は、触れた者の記憶を吸い、愛した者の形を借りて現れる。それは富ではなく、過去の亡霊たちの集合体である』……アラン、あの船の周囲に現れているのは、かつてその土地で搾取され、捨てられ、死んでいった人々の執着なのよ」
アランは冷笑した。だが、彼の耳には、ルシアの声に重なるように、海の底からの囁きが聞こえていた。
『……アラン……私の利益に……使って……』
それは、かつて彼が選挙戦で握手した、名もなき工場労働者の声に似ていた。
3
再び、大西洋上。 リバイアサン号の機関室では、異常な事態が極限に達していた。
「燃料供給をカットしろ! エンジンが焼け付くぞ!」
機関長が叫ぶが、レバーは動かない。黒い、タールのような液体が計器盤の隙間から溢れ出し、機械の関節部をガッチリと固めていた。 それは機械を壊すためではなく、むしろ「加速」させるために、潤滑油として機能しているようだった。
「これを見ろ……」
若手航海士のトーマスが、機関室の隅にあるのぞき窓を指差した。 厚い強化ガラスの向こう側、本来は暗黒であるはずの原油タンクの中が、微かに発光している。
ドロリとした黒い液体の中に、無数の「顔」が浮かんでは消えていた。 笑っている顔、泣いている顔、怒りに歪んだ顔。 それらは皆、かつてベネズエラの油田で働いていた者たちや、その富の分配から漏れて死んでいった者たちの記憶の断片だった。
「原油が……誰かを覚えているんだ」
トーマスは、その光景に魅入られるように呟いた。
「この油は、ただ燃やされるためにここに来たんじゃない。……自分たちを捨てた世界に、自分たちの存在を刻み込むために来ているんだ。大統領の『管理』という言葉を、こいつらは『復讐の許可』だと受け取ったんだよ!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、船体が大きく傾いた。 前方の海域に、巨大な「黒い渦」が発生していた。それは嵐によるものではない。海底に眠る他の原油層が、リバイアサン号の運ぶ「意志」に共鳴し、海面へと一気に浮上しようとしているのだ。
4
ホワイトハウスの執務室。 アランは突如、激しい吐き気に襲われ、床に膝をついた。
「大統領!」
「来るな……!」
アランが叫ぶ。彼の口から、黒い、一滴の液体が滴り落ちた。それは血ではなかった。 紛れもない、原油だった。
「……彼らは、私を覚えている」
アランは、震える手で自分の胸を掴んだ。心臓の鼓動に合わせて、ワシントンの地下、張り巡らされた地下鉄の網よりも深く、巨大な「黒い大蛇」が蠢き始めたのを感じた。
「私が管理すると言った。だから、彼らは私の身体を、私の国を、新たな『家』に選んだんだ」
ルシアがアランの肩を掴む。その手を通じて、彼女にも伝わった。 海を駆けるタンカーの速度。 船員たちの恐怖。 そして、海面に浮かぶ無数の黒い影たちが、一斉に北の空を……ホワイトハウスの方角を見つめ、歓喜の声を上げている光景が。
「……原油が、上陸するわ」
ルシアの戦慄した声が、夜の執務室に響いた。
リバイアサン号は、もはや船ではなかった。 それは、数世紀にわたる人間の欲望と悲劇を詰め込んだ、巨大な「黒い棺」であり、アラン・クロウという受取人を待つ、呪われた贈り物だった。
水平線の彼方から、通常ではありえない速さで、黒い波が迫っていた。
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