私を元の世界に帰さないで

中尾みな

私を元の世界に帰さないで

魔王討伐の祝勝会が終わり、王城が深い静寂に包まれる頃。

私は一人、あてがわれた居室のバルコニーに出ていた。


夜風が頬を撫でる。その冷たさは、ここが日本の秋よりもずっと寒い、北の大地であることを思い出させた。

頭上には、私の故郷には存在しない二つの月が、凍てつくような青白い光を放っている。


「・・・綺麗なお月様。でもこれで見納め、か・・・。」


手すりに身を預け、私は小さく呟いた。明日の正午、王宮の儀式の間で「帰還の儀」が執り行われる。

聖女召喚の魔法陣を逆回転させ、私ーリナを、元の世界である日本へ送り返すための儀式だ。


部屋の隅には、私がこの世界に喚ばれた時に着ていた安物のスーツと、擦り切れたパンプスだけが置かれている。身につけた物しか転送できないので、こちらの世界で得たものはほとんど置いていくことになる。魔王を倒した報酬や名誉や爵位も絵に描いた餅だ。それどころか、想い出さえも、次元の狭間で風化してしまうかもしれない。


「・・・帰りたく、ないなぁ」


本音が、夜風に溶ける。日本に帰れば、待っているのは殺風景なワンルームと、ブラック企業の激務だけ。 誰も私を待っていない。誰も私の名前を呼んでくれない。 それに引き換え、この世界は。命の危険はあったけれど、私の魔法を必要としてくれる人々がいた。そして何より・・・。


「荷造りは、済んだか?」


背後からかけられた低い声に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。 振り返ると、闇に溶け込むような漆黒の騎士服を纏った男が立っている。王宮騎士団長、レオ。 私の護衛として、この過酷な旅を最初から最後まで守り抜いてくれた人。そして、私が密かに心を寄せている、たった一人の人。


私は慌てて表情筋を総動員し、いつもの「能天気な聖女様」の仮面を被った。


「レオさん! こんばんは。うん、ばっちりだよ。そもそも持って帰れるものなんて、着てきた服くらいだしね」


努めて明るい声を出す。レオは眉間に皺を寄せ、痛ましげな目で私を見た気がした。けれど、月明かりの逆光でその表情はよく見えない。


「・・・そうか。明日の儀式まで、ゆっくり休むといい」


事務的な言葉。ああ、彼はもう騎士団長の顔に戻っている。聖女を無事に元の世界へ送り返すまでが、彼の任務なのだ。私の胸の奥が、ずきりと疼く。


(早く行って、レオさん。これ以上優しくされたら、私、笑ってさよならが言えなくなる)


けれど私は、これまで続けてきた役を演じるきるために、内心とは裏腹に唇の端を持ち上げて笑った。


「ありがとう。やっとお寿司が食べられると思うと、興奮して眠れないかも! あーあ、早く日本に帰って、温かいお風呂に浸かって、溜まってるアニメ全部見たいなあ!」


嘘だ。お寿司なんてどうでもいい。アニメなんてどうでもいい。ただ、あなたと一緒にいられるなら、泥水だって啜れるのに。


レオの肩が、微かに揺れた。彼は何かを堪えるように拳を握りしめ、それから短く息を吐いた。


「・・・そうか。向こうの生活が、恋しいか」


「うん、すごく! だってほら、ここは便利だけど、やっぱり故郷が一番だしね」


私の言葉に、レオは一瞬だけ、世界が終わったような顔をしたように見えた。けれど、すぐに無骨な騎士の顔に戻り、私の隣に並んでバルコニーの手すりに手を置いた。


「少しだけ、風に当たる。・・・邪魔か?」


「ううん、全然! レオさんとこうして話すのも、最後だもんね」


最後・・・自分で言った言葉が、喉に刺さった小骨のように痛かった。




二人の間に、沈黙が降りる。 気まずい沈黙ではない。

焚き火のそばにいるような、不思議と落ち着く静けさ。旅の間、私たちは何度もこうして並んで夜を明かした。 言葉少なな彼と、お喋りな私。 水と油のようでいて、背中を預け合う時だけは、呼吸がぴたりと重なった。


ふと、レオが夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「・・・≪腐食の沼≫を、覚えているか」


不意に出た地名に、私は目を丸くした。


「覚えてるよ。魔王城へ向かうルートの中で、一番きつかった場所だもん」


あれは旅の中盤。 毒の瘴気が立ち込める沼地で、私は無理をして浄化魔法を使い続け、高熱を出して倒れてしまったのだ。


「・・・すまない、リナ。俺が不甲斐ないばかりに」


高熱でうなされる私の耳に、絶えず謝罪の言葉が聞こえていた。 野営用のテントの中、氷魔法で作った氷嚢を私の額に当て、彼は一晩中、私の手を握り続けてくれた。 レオの手は剣ダコでゴツゴツしていて、冷たい鎧の感触がしたけれど、そこから伝わる体温だけが、凍えるような悪寒の中で唯一の救いだった。


意識が混濁する中、私は彼の指を握り返して、うわ言のように繰り返していたらしい。「行かないで、一人にしないで」と。その度に、彼は不器用な手つきで私の汗ばんだ髪を撫で、 「どこへも行かない。俺がここにいる。必ず守る」 そう、一晩中囁き続けてくれたのだ。


翌朝、熱が下がった私が目覚めた時、彼は「おはよう」と言って、泥だらけの顔で笑った。 あの時の笑顔を、私は一生忘れないだろう。でも、彼はきっと、あの夜の私の弱音を病人の戯言として聞き流しているはずだ。


「あの時、お前は死にそうな顔をしていた」


彼は手すりを握る手に力を込め、悔しげに言った。


「俺は無力だった。聖女であるお前に負担ばかりかけ、傷つけ、汚泥にまみれさせた。・・・お前が、平和で清潔な日本を恋しく思うのは当然だ」


「えっ・・・?」


違う。そうじゃない。私は慌てて否定しようとした。あの沼地で、あなたが背負って歩いてくれた背中の温かさが、どれほど嬉しかったか。あなたが作ってくれた不格好な焼き魚が、どんな高級料理よりも美味しかったか。


けれど、言葉に詰まる。もしここで「この世界は辛くない」と言ってみても、「じゃあ残ればいい」という話には・・・ならないだろう。 彼は真面目すぎる。

国のために聖女を利用しようとする上層部から私を守るため、あえて「帰還」を急かしているのだから。


(私が「残りたい」と言えば、レオさんは困るんだ。騎士としての忠義と、私への情の板挟みになって)


だから私は、言葉を飲み込んで、別の嘘を吐き出す。


「まあねー。あそこは臭かったし、虫もすごいし! 日本のフカフカベッドが夢に出てきた時は、泣きそうだったよ」


レオが、ふっと自嘲気味に笑う。


「・・・そうだろうな」


その笑顔がひどく寂しげで、私は胸が張り裂けそうになる。訂正したい。「でもね、レオさんがいてくれたから、あの場所でさえ幸せだったの」と叫びたい。


もう一つ、忘れられない記憶は《幻惑の森》での出来事だ。心の闇を映し出す幻術にかかった私は、孤独な日本のワンルームに一人で閉じ込められる幻を見た。誰にも必要とされず、ただ消費されるだけの日々。幻覚の中で私は泣き叫んでいた。『帰りたくない! あんな寂しい場所に戻りたくない!』


その幻を打ち破ってくれたのも、レオだった。彼は私の肩を掴み、力づくで現実へ引き戻してくれた。「リナ! 俺を見ろ! ここは日本じゃない! お前は一人じゃない!」

あの時、彼に抱きしめられた強さと、鼓動の早さ。 それが私の恋心を決定づけた。


けれど、幻術から覚めた後、レオは一度もその内容に触れなかった。きっと、錯乱した私が口走った「帰りたくない」という言葉は、恐怖から出たパニックだと思っているのだろう。あるいは、私のプライドを傷つけないように、聞かなかったことにしてくれているのか。


(・・・もしあの時、素直に相談していれば、未来は変わったのかな)


いや、今更だ。明日の正午には、すべて終わる。


「リナ」


レオが、改まった声で私を呼んだ。 彼が懐に手を入れる。取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな小箱だった。彼はそれを、無造作に私へ差し出す。


「これを受け取ってくれ」


「え・・・何?」


「・・・向こうの世界で、金に換えれば生活の足しになるだろう。王都でも最高級の宝石だ。お前が日本で、苦労しないように」


小箱が開かれる。そこには、夜空を凝縮したような、深く青い輝きを放つ大粒の宝石が収められていた。月光を浴びて、星のように煌めいている。息を呑むほど美しい。けれど、レオの言葉が、私の心を抉る。


金に換えれば・・・生活の足しに。


(・・・ああ、そうなんだ)


私の中で、何かがぷつりと切れる音がした。これは、手切れ金だ。彼は、私が日本に帰ってから金銭的に困らないようにと、この高価な宝石を用意してくれたのだ。どこまでも優しくて、どこまでも残酷な人。早く行けと、もう関わるなと、この宝石が告げているようだった。


「・・・っ」


「リナ?」


「いらない」


私は小箱を押し返した。 指先が震えているのがわかる。


「こんなの、いらないよ・・・!」


「なぜだ。これは価値のあるものだ。お前がブラック企業とかいう場所に戻るのなら、これがあれば働かずに・・・」


「そんなことのために、一緒に旅をしてきたわけじゃない!」


声が裏返る。我慢していた涙が、一気に溢れ出した。レオが驚いて目を見開く。


「リナ・・・?」


「お金なんていらない!私は・・・私は、あなたの思い出だけで十分なのに・・・っ!こんな、手切れ金みたいに渡さないでよ!」


「手切れ金・・・?待て、違う、俺はそんなつもりじゃ・・・」


レオが慌てて手を伸ばしてくる。 その手から逃げるように、私は背を向けた。もう無理だ。笑顔でさよならなんて、できっこない。泣き顔を見られたくない。このまま部屋に逃げ帰って、布団に潜って、朝まで泣き続けよう。


「待て、リナ!」


「来ないで!」


走り出そうとした、その時だった。


ゴゴゴ・・・ッ


低い地響きと共に、バルコニーの床が微かに揺れた。魔王軍による襲撃の際の影響か、あるいは城の古びた石材が悲鳴を上げたのか。私が体重をかけて踏み込んだ床石が、不運にも崩れ落ちたのだ。


「きゃっ!?」


足場が消える浮遊感。体が宙に投げ出される。下は、遥か眼下に広がる城の中庭。魔法を使う暇もない。


「リナッ!!」


私の体が重力に引かれるより早く、鋼のような腕が伸びてきた。ガシッ、と強い力で手首を掴まれる。 次の瞬間、強引な力で引き寄せられ、私は硬い胸板に激突していた。



「・・・っ、馬鹿野郎!!」


頭上から降ってきたのは、今まで聞いたこともないようなレオの怒号だった。彼は私を抱きすくめたまま、バルコニーの安全な場所へと倒れ込む。ガチャリ、と鎧が石畳にぶつかる音がした。


私たちは重なるようにして倒れていた。至近距離にあるレオの瞳。いつも冷静沈着なその瞳が、今は恐怖と焦燥で激しく揺れている。彼の心臓の音が、痛いほど私の胸に伝わってきた。


「怪我は・・・ないか」


震える声で問われ、私はコクコクと頷くことしかできない。


「よかった・・・。本当に、よかった・・・」


レオは私を抱きしめる腕に力を込めた。 痛いほど強く。まるで、二度と離さないというかのように。 その体温に触れた瞬間、私の理性が完全に崩壊した。


(離れたくない)


この温もりが消えてしまうなんて、耐えられない。 日本に帰って、たった一人で、この温もりを思い出しながら生きていくなんて、死ぬより辛い。


「・・・やだ」


私の口から、嗚咽交じりの声が漏れる。


「え?」


「帰りたくない・・・っ!日本になんて、帰りたくないよぉ・・・!」


私はレオの胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。もう、建前も嘘もどうでもよかった。


「あっちには、誰もいないの!家族もいない、友達もいない、毎日満員電車に揺られて、死んだように働いて・・・っ!誰も私のことなんて見てくれない!」


「リナ・・・?」


レオが信じられないものを見るように私を見下ろしている。けれど、私は止まらない。


「お寿司なんてどうでもいい!アニメもスマホもいらない!私はここがいいの!魔法があるからじゃない、聖女だからじゃない・・・っ」


涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私は彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたがいるから!レオさんがいる世界にいたいから!だから、私を帰さないで・・・っ!」


叫んだ瞬間、世界が止まった気がした。夜風の音だけが、ヒュウと通り過ぎる。


レオは、石像のように固まっていた。口を半開きにし、瞬きすら忘れて私を見つめている。数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。


やがて、彼は恐る恐る口を開いた。


「・・・嘘、ではないのか?」


「嘘なわけないでしょ・・・!」


「だが、お前は・・・「早くお寿司が食べたい」と。「日本のアニメが見たい」と、あんなに嬉しそうに・・・」


「全部、嘘だよ!」


私は彼の胸をポカポカと叩いた。


「レオさんが「聖女を帰すのが使命だ」って顔をしてるから!私が残りたいって言ったら、あなたが困ると思ったから!あなたの重荷になりたくなくて、必死で我慢してたの!・・・なのに、手切れ金なんか渡そうとして・・・っ」


私の言葉を聞くにつれ、レオの表情が劇的に変化していく。 驚愕から、困惑へ。そして、噛み締めるような歓喜へ。 彼は私の手を取り、先ほど突き返した小箱を握らせた。


「・・・手切れ金、ではない」


彼の声は、少しだけ震えていた。


「これは、この国に伝わる誓いの石だ」


「・・・え?」


「≪私の魂を、あなたに預ける≫という意味を持つ。・・・求婚の際に、男が女に贈るものだ」


私の思考が停止する。求婚?プロポーズ?


「で、でも、「金に換えれば」って・・・」


「・・・お前が日本に帰りたいと願っていると思っていたからだ。俺の想いを押し付けて引き止めることはできない。だが、せめてこの石を持っていってほしかった。これが金になれば、お前が向こうで楽に暮らせると思って・・・。俺の魂が、形を変えてお前を守れるなら、それでいいと」


なんという、不器用な愛だろう。自分の魂を「換金してくれ」と言って渡す男が、どこにいるというのか。


「・・・馬鹿」


私は泣き笑いのような顔で、彼を睨んだ。


「レオさんの、大馬鹿」


「ああ、違いない」


レオは、今まで見たこともないほど優しく、とろけるような笑顔を見せた。彼は私の頬に手を添え、親指で涙を拭う。


「俺は、お前がこの危険な世界を憎んでいると思っていた。平和な日本から無理やり連れてこられ、戦場を連れ回されたことを」


「そんなわけない。・・・あなたが隣にいてくれたから、どんな場所も天国だったよ」


「・・・そうか」


レオの瞳が潤む。彼はゆっくりと顔を近づけ、私の額に自分の額を押し当てた。


「なら、もう帰さない」


低い声が、私の鼓膜を震わせる。そこには、もう迷いはなかった。


「国がなんと言おうと、王がなんと言おうと、関係ない。お前が望むなら、俺が一生、お前を離さない。誰にも渡さない」



「・・・はい。絶対に、離さないで」


私が答えると、レオは私を強く抱きしめた。鎧の硬さは変わらないけれど、今はそれが最高に心地よいクッションだった。二つの月の光が、私たちを祝福するように降り注いでいる。


「・・・それにしても、説明不足だよ。これがプロポーズだなんて、誰も気づかないよ」


私の手の中で、青い宝石がキラリと光る。


「すまない。・・・言葉にするのが怖かったんだ。断られて、お前を困らせるのが」


「ふふ、じゃあこれからは、ちゃんと言葉にしてね」


「善処する」


真面目な顔で答える彼がおかしくて、私は久しぶりに心の底から笑った。バルコニーの崩れた床など、もうどうでもいい。私たちは互いに支え合いながら、ゆっくりと立ち上がった。


東の空が、白み始めている。帰還の儀が行われる朝が、もうすぐそこまで来ていた。


「さて、行こうか」


レオが私に手を差し出す。護衛対象としてエスコートする手ではない。共に歩むパートナーとしての手だ。


「どこへ?」


「国王陛下の元へ。帰還の儀をキャンセルしにな」


彼は悪戯っぽく笑った。


「騎士団長が職権乱用して、聖女を誘拐したとでも言っておくさ」


「いいね。じゃあ私は、その騎士団長にほだされた、世間知らずの聖女ってことで」


私は彼の手をしっかりと握り返した。その手は、やっぱり少しゴツゴツしていて、とても温かかった。


異世界を救った聖女の役目は、これで終わり。けれど、今日からは「言葉足らずな騎士団長の妻」という、もっと難しくて、もっと幸せな役目が始まるのだ。


私たちは繋いだ手を離さないまま、朝日の射し込む王城の廊下を、堂々と歩き出した。

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私を元の世界に帰さないで 中尾みな @namipc

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