こころの交差 / 掌編
よるん、
こころの交差
ひとりの女性が声もなく泣いていた。
終電間際の電車の中だった。車両の中にいる人は多くもないが少なくもない。七人掛けの長椅子に、ひとつふたつ席が空いているくらいだ。
そして、いびきをかく中年のサラリーマンと、気だるげにスマホを眺めている女性に囲まれて、その人は泣いていた。滴る涙を抑えもせず、時折嗚咽を堪えて、さめざめと泣いていた。向かい側に座っていた僕はそれに気が付き、見てはいけないものを見てしまったような気がして、座りの悪い気持ちでうつむいた。
嗚咽は音を通さず、ガタンゴトンと揺れる電車の音でかき消されていた。誰もその人に気が付かない。もしくは、見ないふりをしているのかもしれなかった。女性自身にとっても、その方が都合がいいのかもしれない。声も上げずにただ涙を流す女性の姿はあまりにも美しかった。不謹慎ながらもどきどきしてちらりと見やる。特段美人というわけではない、というのも失礼だが、どこにでもいそうな若い女性だ。二十代の中頃か、それよりもう少し上か……女性らしい丸みを帯びたジャケットを着て、その下はシンプルなワンピースだ。足下は流行りのパンプスを履いている。デート帰りだろうか。彼氏に振られたか、それとも嫌な思いをして怒ったのか……そこまで邪推して、自分の性格の悪さに辟易した。
もし、彼女に手を差し伸べて、ハンカチなんかを握らせたらどうなるのだろう。無下にされるだろうか。それとも、ありがとう、なんて困ったような微笑みを見られるのだろうか。想像しただけで恥ずかしくなってしまって、よりいっそう頭を垂れた。泣いている理由がなんにせよ、慰めるべきは僕ではなかった。彼女を泣かせた彼氏、かどうかは分からないが、少なくとも関係している人間がやるべきことだ。
こうもやるせない気持ちになっているのに、何もできない自分に無力さを感じた。こんな気持ちになったところで、彼女にとっては関わりのないことだろう。ただ向かい側に居合わせただけの、赤の他人である僕が、彼女の涙を見て慰めてあげたい、だなんておこがましい。それでも、ちらと見上げる彼女の姿は神秘的で、どうにか涙を拭ってやれないかと思案せずにはいられなかった。
ガタンゴトン、と電車は轟音を鳴らす。トンネルに入ったのか、窓の外は真っ暗闇に包まれた。耳鳴りがして唾を飲み込む。いつの間にか、口の中には唾液がたっぷりと溜まっていた。このトンネルを抜ければ、次の駅はもうすぐだ。毎日の通勤で、感覚的に知っていた。住宅街に住む人の最寄駅になりがちなこの駅は、僕にとっても降りる駅だった。
彼女は、降りるのだろうか。それとも、この先まで乗り続けるのだろうか。鼓動が鳴り、変な汗が吹き出る。同じ駅で降りたらどうしようか。僕の衝動は止まらずに、彼女に話しかけてしまうかもれない。そんなことをしたら、気味悪がられて、駅員を呼ばれたとしても無理はないだろう。慰めたくて、なんてキザな言い訳を、誰が信じるだろうか。陽気な若者のように、からりと笑いながらおどけることさえできない。僕はただの根暗な男でしかなかった。
結局、降りるのは僕だけのようで、同じようにこの駅を目的とした乗客と共にドアへ向かう。見えなくなる前に、横目でちらりと視線を向ける。彼女は睫毛を伏せて、小さく息を吐き出す。頬に流れた涙の跡は、擦られた様子もなく、ただまっすぐに顎へと伸びていた。
こころの交差 / 掌編 よるん、 @4rn_L
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